第二章・束の間の安堵

 

 

 副総裁はじりじりしながら、不知火からの連絡を待っていた。それが来るまで、このまま膠着状態を保っていなければならないのだ。気持としては今すぐにでも異次元砲を魔界にも発射して攻め入りたいのだが、妖怪大虐殺のための準備は一からやり直さなくてはならない。全てはあの、忌々しい死者・黒鵺のせいで。

 たった一人の死者・しかも妖怪のために、自分達の神聖なる計画が頓挫してしまうとは、何たる屈辱。銃を構える手にも力がこもる。

 バリケードで封鎖した会議室入り口を睨みながら、トランシーバーが不知火の声を発する瞬間を、今か今かと待ち構えている内、張り詰めすぎた神経が悲鳴を上げかけているのを感じた。

 だが、その悲鳴よりも早く、副総裁の背後で元特防隊隊長・大竹が、切迫した声をあげた。

 「異常発生! 見張りが急に・・・・・・」

 叫ぶ彼の前に設置されている監視TVは、一瞬画面乱れたかと思ったら、拘束された二人の同志と『バカ』とかかれたプラカードを映し出したのだった。

 何事かと副総裁が振り返った刹那、人質を集めた塊の中から、「今だ!」という勇ましい掛け声と共に、四人分の人影が飛び出した。

 会議室の真下、四階の天井裏に穴を開けて人質に紛れながら侵入した、幽助達だった。

 まず幽助は、一番の戦力である大竹に向かって容赦なく霊丸を撃ち込む。そうしている内にも、蔵馬、桑原、飛影の三人が次々と党員達を叩きのめしていった。そして彼らと共に会議室に忍び込んだジョルジュが中心となって、人質を縛っていたロープを解いていく。

 「よっしゃ、もう大丈夫だ! ふんじばれーーー!!

 自由になった人質達も協力して、テロを引き起こした正聖神党は、あっけなく武器を奪われた上で人質と入れ替わるように今度は自分達が戒められた。

 飛び出すチャンスを伺いながら、副総裁を見分けていた幽助が、早速その男の胸倉を掴み上げる。

 「おい!! メインボタンの何色が本物だ?! 赤か?! 青か?! 黄か?! 答えろ!!

 やつきばやの言葉の乱射にもかまわず、副総裁はフン、と嘲笑して見せた。もはやここまでか。だが、我々にはまだ、不知火様がいる。あのお方がどこまでやってくれるかも、我々の終焉がどうなるのかも、あの方と神に委ねればいいだけの事。

 「我々の・・・・・・究極の教えに『第三者の三択』と言うものがある。最後の運命は教徒ではなく、第三者に選択させるという教えだ」

 その表情と口元を伝う鮮血を観察して、蔵馬はふと違和感を覚えた。まさか。

 「神の意思には絶対・・・・・・例え誰が自分の意思で決めたように見えても・・・・・・それは全て神の意思・・・・・・。単純な三択だ。@皿屋敷市に向けて異次元砲発射。A審判の門もろとも自爆。B何事も起こらない。おっと例外C時間が来れば自動的に発射。・・・・・・ちなみに、五分後にな」

 カチっと小さく無機質な音が、副総裁の手の中で鳴った。とっさに幽助がそこからむしり取ったのは、遠隔操作用と見られる小さなリモコンだった。

 「もう作動した。そいつを壊しても無駄だ。メインボタンで当りを引くしかない・・・・・・お前が選べ・・・・・・しかし、それは神の意思。必ず・・・・・・・・・」

 もう一度血を吐いて、副総裁は事切れると、彼の身体――霊体は急速に色を薄れさせ、その下にある床が透けて見えたかと思うやいなや、ふっと断ち切られるように消え去ってしまった。

 「毒か・・・・・・」

 思わず蔵馬が呟いた。先程の嫌な予感が当ってしまった。それにしても、何と因果な事か。まさか正聖神党まで、こちらに選択を委ねるとは。かつて、黒鵺や自分がそうしたように。・・・・・・いや、違う。

 蔵馬は、即座に否定した。自分達と連中とは違う。

 オレも黒鵺もわかっていたんだ。目の前の相手は、決して自分に危害は加えないと、信じてたんだ。その信頼の証が、選択という形で表現されたに過ぎない。連中のように、命ごと結果を投げ出したわけじゃない。

 「・・・・・・ケッ、マジでターゲットは皿屋敷市か。ウソから出たマコトってか」

 「ほぉ、貴様にしては難しい言葉を知ってるじゃないか」

 「テメーにだけは言われたくねーーーーー!!!

 「だからケンカすんなって、もー!!

 仲間達の喧騒に蔵馬がハッと我に返ると、背後ではバリケードが崩され、扉が開かれていた。ジョルジュが同僚達と連れ立って、特防隊新隊長・瞬潤ら救助のために地下牢へ向かう所だった。

 「とりあえず、異次元砲の所へ急ぎましょう。たった五分では、ここの霊界人達を避難させることはもちろん、皿屋敷市にいる静流さん達を市外へ逃がすことさえ不可能です。何としてでも発射を止めなくては!

 

 

 格納庫へ駆け込んでみると、男性の顔をかたどった巨大な砲台が、ずらりと数台並んでいた。これら全てから、異次元砲とやらが発射されるのだろうか。

 砲台が成す列の中央に、まるで飾り物のように据えられた、三つのメインボタンへ幽助達の視線が吸い寄せられる。

 「・・・・・・あと、三分か。くっそ、結局どの色かは分からずじまいだもんなぁ」

ボタンの前にどっかとあぐらを組み、赤、青、黄の順で幽助はそれぞれのボタンを睨む。

 どれを押しても発射してしまいそうな気がしてならない。氷の手で核を握り潰されるかのようなプレッシャーが、じわじわと重みを増してくる。だからこそ、ボタンを押す役目は自分がやろうと思った。誰にも押し付けたくなかった。

 その後ろで、蔵馬はジョルジュから借りた携帯電話を使い、人間界の酎に連絡を取っている。

 『三分後に、皿屋敷に向けて異次元砲発射――――?! 畜生、こっちに撃った方が被害がでけぇと踏みやがったな! 魔界はもう、厳戒態勢だし。最後の悪あがき兼報復って所か』

 「あぁ、おそらく。もはや事情を知ってる人達を避難させることさえ間に合わない。万が一の時のために、迎撃体勢をとってくれませんか。・・・・・・・四人だけじゃ、さすがに厳しいと思うけど、魔界から応援を呼ぶ余裕も無いし、キミ達に頼るしかないんです」

 『そりゃあ構わねぇけどよ、もし審判の門が自爆しちまったら、そっちの方が深刻じゃねぇのか? お前らみんな、魂の方が先に消えちまうわけだろ』

 「承知の上。だけど、それくらいのリスクがちょうどいいのかもしれない。特に、オレは。・・・・・・黒鵺の事を思えば、これしきのこと。こっちは要するに確率の問題ですからね。より危険な状態にあるのは、むしろ彼の方だ」

 『・・・・・・やっぱ思いとどまりゃしねーか。だったらオレらも腹くくってやろうじゃねぇの。こちとら魔界統一トーナメント優勝目指して鍛えてきたんだ。霊界の兵器ごときに負けやしねぇよ』

 皿屋敷市は、少なくとも幽助や桑原に近しい人達は無傷で助かるだろう。酎達の迎撃ならば、最悪死者だけは出さずに済むかもしれない。彼らが人間界へ移動したことを、不知火達も知らなかったと見える。

 「あと二分」

 ボタンの前で黙って胡坐をかいていた幽助がそう呟くのと、蔵馬が通話を切るのとは同時だった。

 「・・・・・・・・・情けねぇ、もしかしたら、今までで一番ビビってるかも」

 手の平をじっとりとぬらす冷や汗を握り締めて、幽助は固唾を呑んだ。今まで何度も強敵と戦い、死線をくぐってきたというのに。そんな彼に向かって、声を荒げたのは桑原だった。

 「あぁ、マジで情けねぇな!! 蔵馬も言ってたろ、確率の問題だよ!! どの色押そうと結局三分の一でしかねぇんだ。わざと当てることも外すこともできねぇんなら、結果がどこへ転んでもどうせテメーの責任じゃねぇだろ! 今日の気分でさっさと押しちまえ!!

 「・・・・・・立派な啖呵だな。声と体が震えてさえいなければの話だが」

 「じゃかあしいわ、ボケンダラァ!!

 「あ〜もう、本っ当にこんな時にまで懲りねぇっつーか、飽きねぇなオメーらは!

 幽助はもはや止める気も失せそうだが、とりあえず少しは緊張が和らいだ。

 「幽助」

 穏やかな声音なのに、蔵馬の唇から発せられたそれは、透き通るように響く。

 「かつて黒鵺がオレを信じてくれたように、オレが彼を信じ抜こうとしたように、今度はキミの選択を信じきろうと思う。きっと後悔だけは無い」

 周囲を鏡のように映す湖面のようにはりつめて、それでいてどんな結末をも受け入れる深海に似た静けさをも感じさせる声だった。

 それを聞いて飛影が、ニッと皮肉っぽい笑みを浮かべ、幽助に向き直る。

 「どれでも、好きに押すがいい。どうせ、貴様の賭けは吉と出る」

 今までも、きっと、これからも。

 「時間だ。・・・・・・よし、押すぜ。任せろ、選択問題は、オレの十八番だ」

 三者三様の激励に背中を押され、幽助は意を決してボタンに指を伸ばす。

 どれを押すべきか。赤か。青か。黄か。

 選択肢の狭間で、幽助の思考は一瞬白濁に飲まれる。それは本当に瞬きほどの刹那。

 だけどその儚い瞬間の中で、彼はすっかり忘れてしまっていたはずの、ある日常のワンシーンを鮮明に、それも自動的に思い出していた。あれは数年前。まだ、霊力さえ目覚めていない頃。皿屋敷中学校の教室だった。

 午後の時間。螢子と、その友人達の他愛も無い会話が、机に突っ伏して昼寝しようとしていた、幽助のまどろんだ意識の中にさりげなく流れ込んできた事があった。

 

 どうだった? 従姉のお姉さんの結婚式!

 もーすっごい綺麗だったよ、ドレス姿が! もともと美人だから、さらに華やかでね。

 やっぱり、お色直しもしたの?

 うん、綺麗なピンク色のドレスでさ。純白のウエディングドレスもいいけど、やっぱりせっかくの晴れ舞台だもの。一回くらいはお色直ししたいよねぇ。

 ピンクかぁ、いいなぁ。あたしは真っ赤なやつ着たい! 螢子は? お色直しって何色にする? 

 「そりゃあやっぱり、自分の一番好きな色よね。絶対―――――」

 

 そこに続いた言葉が、何か神聖なお告げのように心の中を閃くのに導かれ、幽助はその色のボタンを押していた。気が付いたら、押していたのだ。

 

 「絶対、青で決まりでしょ」

 

 ふと我に返ると、淡い回想は現実の風景に取って代わっていた。

 目の前にあるのは、自らの人差し指で押し切った、青いボタン。

 時間が、音が止まっている空間。

 ほんの数秒が、数時間に勝るほど長く感じられる。

 やがて、自分の呼吸が鼓膜に触れたのを自覚して、幽助はやっとボタンから指を離してみた。何本も聳え立つ砲台は、微動だにしない。今自分たちがいる場所にも、何ら変化はない。

 「当たり、か? 今ので」

 頭を抱えてきつく目を閉じていた桑原が、ようやく顔を上げた。

 「の、ようだね」

 蔵馬が肩の力を抜いて微笑んだ。

 「やはり、吉と出たか」

 飛影も、珍しくリラックスした表情を見せる。

 「ぃやったあああああああ!!!

 雄叫びを上げながら、幽助はガッツポーズで立ち上がった。

 「ざまーみやがれってんだ、コンチクショーめ!! 正聖神党の連中、思い知ったかー!! 浦飯様の十八番の前には、霊界の旧遺物なんて敵じゃねーーー!!

 「この野郎、分かりやすく態度一変させやがって・・・・・・ところで、結局何色押したんだ?

 何の気なしに桑原は尋ねてみたのだが、気分が高揚しっぱなしの幽助は、そのテンションのままふんぞり返って見せた。

 「何色って、ここは青で決まりだろ! あっちが神なら、こっちは女神だってんだ!!

 「「「女神?」」」

 桑原、蔵馬、そして飛影までもついその単語を聞き返したとたん。

 「・・・・・・・・・あ」

 上機嫌で高笑い中だった幽助が、リモコンで一時停止ボタンを押されたかのように硬直した。そして、みるみるうちに表情が一変。サーっと音を立てて血の気が引き、額を冷や汗が伝う。

 またしても分かりやすく心の内を表現した幽助に、桑原は何やら思いついたかのように、ニヤニヤと近付いた。

 「ほ〜お、勝利の女神様がいたってか。闘いの神の息子には、そりゃー相性バッチリだろうなぁ。・・・・・・そーいや確か、雪村の好きな色も」

 「忘れろ! 今の無し! 撤回!! 抹消!! ってかバラしたら殺す!!!!!

 今度はリトマス試験紙のように顔を真っ赤に変化させた幽助が、桑原の襟首を掴んで驚異的なスピードでガクガクと揺らした。

 「ややややや、やめねーかコラァ!! 霊体でムチウチなんざゴメンだぜ」

 「だったら言うな! 誰にも言うな! 意地でも言うな! 根性で言うな!! 得意だろ、そーいうの!!!

 「・・・・・・・・・バカどもめ」

 呆れ疲れた飛影が吐き捨てた隣で、蔵馬は弾かれたように彼を振り向いた。

 「飛影! 念のため、もう一度不知火を探してくれないか。奴を捕らえなければ終らない!

 異次元砲で頭が一杯だった幽助と桑原も、ようやく首謀者の事を思い出して我に返った。

 「ちっ、最後にまだ厄介者が残ってやがったな」

 しぶしぶ額のバンドに飛影が手をかけようとしたその時。

 「失礼いたします!!

 格納庫に誰かが飛び込んできた。身体中の至る所に傷を負った、若い男だった。見覚えのあるその姿に、一同はあっと声をあげる。

 霊界特防隊新隊長・瞬潤だった。

 「オメー、大丈夫なのかよ?! 確か地下牢に閉じ込められてたって・・・・・・・」

 「はい、共に捕われていた隊員二名も、先ほど助け出されたばかりです。この度は、全く持って私共の不徳のいたす所ですが、謝罪の前にお知らせしなければならないことがあります」

 押さえた荒い呼吸の下から、瞬潤は痛みをこらえて続けた。

 「党員の一人が、観念したのか白状したのですが、不知火の行き先が分かりました。奴は、魔界にいます」

 「魔界だって?!

 人間界よりも予想外の居場所に、蔵馬は思わず叫んでしまった。

 「不知火だけで、一体何のために・・・・・・霊界人としては位が高いにしろ、特防隊のように戦闘訓練は受けていないはず」

 「それが、一人ではないんです。不知火は、地獄から死者、それも妖怪を一人、極楽浄土行きを報酬に呼び出していました。もちろん、そいつに器を与えて」

 「・・・・・・それで、目的は?

 異次元砲の危機は去ったのに、悪い予感がまるで毒薬の如く蔵馬の血潮に乗って、彼の身も心も蝕んでいるようだった。

 「目的はおそらく、その妖怪に黒鵺を抹殺させ、同時に蛇那杜栖を奪い返すこと! 奴はまだ、正聖神党壊滅を知る由もありませんから、今もなおテロとクーデターのために動いているはず」

 その妖怪がどれ程の力量なのかは知らないが、階級によっては、器の崩壊が進んでいるという今の黒鵺にしてみると厄介な相手だろう。だが、陣と凍矢が一緒なら・・・・・・。

 そこまで考えて、蔵馬は心を掠めた一筋の冷水にゾッとなった。

 「・・・・・・虐鬼の泉の毒霧は、生きた妖怪全てを死に至らしめる。でも、黒鵺のような死者なら当然影響は無い。同様に、不知火に連れ出された妖怪も」

 幽助が言葉の意味を察して、愕然とした。

 「そうか! 陣と凍矢は泉に近づけねぇ。黒鵺が蛇那杜栖を廃棄するには、二人と離れる必要があるから、その隙を狙おうって魂胆か!! おい、隊長さんよ! 不知火とその死者が魔界に行ってから、どれくらいたってる?!

 「正確な時間までは分かりません。ただ、魔界直通のワープ航路を使った形跡がありますから、虐鬼の泉とやらにはすでに到着済みと考えられます」

 「やられた!」蔵馬が歯噛みした「確実に、両者は遭遇しただろう。とっくに一戦交えたに違いない。結果は予測も付かないが・・・・・・・」

 霊界と魔界の間での通信は、未だ途絶えたまま。この場で彼らに何があったかを知る事は不可能だった。とにかく一行は、そのワープ航路を使って自分達も魔界へ大至急戻る事にした。

 「コエンマに言っとけ、百足で待ってるってな!

 大急ぎで格納庫を飛び出そうとする四人の背中を、瞬潤は慌てて呼び止めた。

 「お、お待ち下さい! 不知火が連れた死者について追加情報なんですが! そいつは・・・・・・」

 瞬潤が告げたその名は、聞き覚えがあった。急速に呼び覚まされた近い過去の記憶に、蔵馬は呆然として立ちすくんだ。

 

 

幽助達が霊界に到着して間もない時刻の事。

 黒鵺、陣、凍矢の三人は、蛇骨山脈を越えたばかりだった。

 「ここの峠を過ぎて、ふもとの森を通過しさらに北へ進んだら、毒霧エリア目前だ」

 地図を確認した黒鵺は、ふと空を見上げて呟く。

 「蔵馬達は、そろそろ霊界に着く頃合かな。にしてもまさか、あいつらが向こうに行っちまうとは・・・・・・。計画と現場は、本当に相容れないぜ」

 「言っとくけんど、先に言い出したのは幽助達の方だべ。オラの予測が偶然当ってただけだぞ」

 腕を頭の後で組み、偶然という単語を強調すると、陣がしてやったりといわんばかりに笑った。

 「はいはい、オレの見通しが甘かったよ」

 まさかこんな形で蔵馬までも巻き込んでしまうとは。不本意といえば不本意だが、彼の性格を考えれば不自然な展開ではなかった。あの子狐は、存外大人しくしていられない性質だ。黒鵺は、肩をすくめて苦笑した。

 「ところで陣、この先本当に白狼は呼ばなくていいのか?

 凍矢は陣が追いついた時点で、彼の提案により白狼を還したのだが、この先は前人未踏の地である。黒鵺の安全を確保するための戦力は、少しでも多い方がいいような気がしていた。

 「一回、完全形態で呼んじまったべ? 短時間だったから冬眠しなくてすんでっけど、これ以上通常形態でも呼び出し続けてたら、オメがもたねぇべさ。それに、蛇骨山脈はもう越えたし」

 「そう言われると返す言葉が無いんだが・・・・・・ん?

 虐鬼の泉に近付いている事を念のため知らせておこうかと、とりあえず死々若丸へ電話をかけようとした凍矢が、眉根を寄せた。

 「ここまでくると、さすがに圏外のようだ。しばらく連絡手段が絶たれた状態が続く」

 「そっか・・・・・・じゃあ、後でたっぷりいい報告してやらねぇとな」

 三人は気持も新たに、目的の地を目指して歩を進め始めた。

 紅い亀裂が痛々しく軋む音は、さすがに陣と凍矢の胸に刺さったけれど。

 

 

 小さな森を抜けてしばらくは、足場の悪い岩場が続いた。それでもちらほらと草木が生えていたのだが、ある一定の地点からぱったりと途絶えてしまっていた。まるで見えない境界線がしかれているかのように、そのラインの向こう側には雑草一本さえ生えていないのである。

 「お前らは、これ以上進むな」

 その視界に移らない境界線を前方に確認し、さらにもう少し下がった所で、黒鵺は元魔忍の少年達を立ち止まらせた。

 「へ? んでもまだ、泉までけっこうあるべ。ギリギリまで一緒に行くだ」

 「いや、ここから先へ進むと、霧の影響を受けかねない。同時に、外敵がいるはずもないから、死者のオレにとっちゃむしろ安全地帯だぜ」

 「・・・・・・もう一度、聞いておきたいんだが」

 腕を組んで黒鵺を見上げる凍矢が、噛んで含めるようにその問いかけを口にする。

 「本当に、霊界に戻ってしまっていいのか? あのままで構わないと?

 「あぁ、最初に言った通りだ」

 黒鵺はきっぱりと断言した。これ以上動かしようがないほど、それは強固だった。

 「蛇那杜栖を廃棄して正聖神党をどうにかできたら、そこで何もかも終わり。オレの計画も役目も、全部」

 ビシビシビシ!!

 空間を穿つような鋭い不協和音が鼓膜をつんざいたかと思ったら、黒鵺の器に刻まれている亀裂が、一気に胸元辺りまで駆け上がった。

 「ああああああ!!

 黒鵺といえども突然広がった亀裂の衝撃に耐え切れず、その場に膝をつきかけ、陣に支えられた。生きていた頃にはもちろん、地獄に居た頃にも体験した事のない痛みだ。身体の内側で、無数の刃が暴れ狂っているかのような苦痛。

 今までに刻まれ続けた亀裂も、ここへきていっそう激しく疼いた。

 「黒鵺! 黒鵺、しっかりするだよ!!

 「おい、聞こえるか?! 返事をしてくれ!

 陣と凍矢の声が、力強く響いた。この器は肉体ではないので、どんなに激痛やショックを受けても失神する事さえできない。意識を逃がす術もなく、ただ受け止めるしかなかったが、それが幸いだったと黒鵺は思った。

 この上、さらなる手間をかけさせるわけにはいかないのだ。

 「・・・・・・心配、ない。ちょっと不意打ちだったから、驚いただけだ」

 刹彌の宮殿から出発してここまで比較的順調で、小康状態が続いていたと思っていた。だがそんな油断を嘲笑うかのように、崩壊は最後の追い込みをかけてきたのである。

 陣の腕や肩につかまって、どうにかこうにか立ち上がりはしたものの、彼のその器からは体温に似たぬくもりが、まず消えていた。触れられても、それこそひび割れた陶器が肌にあたっているかのようにしか、感じられないのだ。

 その感触がひたすら哀しくて、歯を食いしばるしかない陣の耳に、静かな声が届いた。

 「言わなきゃいけないことがある。実はオレ・・・・・・化粧使い画魔に会った」

 それは、正に不意打ち。まさかここで黒鵺がその懐かしい名を出すとは思いもよらなかった二人は、ただ絶句して呆然とするしかなかった。

 「輪廻転生待機所に呼ばれる、一ヶ月くらい前だったかな。そん時にはもう、あいつも地獄に馴染んでてさ。昔世話になった、二組の夫婦を・・・・・・お前らの両親を探してるっつってた」

 陣と凍矢が幼い頃、任務中に戦死したそれぞれの両親達は、画魔の先輩格で交流もあった。その四人が自分より深い階層に堕ちている事だけはありえない、同じ階層にいる可能性が高いと考えた画魔は、しらみつぶしに地獄を歩き回り死者や鬼達への聞き込み調査を繰り返していたのである。

 その際黒鵺は、画魔自らが描いた二組の夫婦の似顔絵を見せられていた。腑胴で陣と凍矢に遭遇した時、すぐに二人の事が分かったのはこのためだ。彼らがそれぞれの父親の面影を、色濃く残していたから。

 「でもな、地獄の一階層分の面積は、魔界の全階層分に匹敵するといわれてる。地獄に来てたった数年じゃ、まったく手がかりは掴めなかったらしい。オレも、画魔以外でお前らや蔵馬を直接知ってるって奴は見つけられなかったんだ。千年以上もいたのによ」

 地獄そのものに対する情報収集は、鬼達を頼りに霊界を介して現世の情報を得るより何百倍も難しい。黒鵺も画魔から魔界忍者夫婦について尋ねられたが、教えてやれることは何も無かった。

 「画魔が暗黒武術会に出場してて、しかも蔵馬と対戦したって聞いた時は驚いたぜ。審判の門か、それぞれの階層に至る『道』で待ち合わせるかしない限り、現世の関係者に会えるなんて天文学的確率よりさらに低いからな」

 武術会そのものの事は知ってはいたが、対戦相手や試合内容の詳細までは引き出しきれなかったのだ。ただ、蔵馬に対して私怨は無いと、画魔が断言してくれた事が嬉しかった。 

 「これも何かの縁と思って、あいつに言ったんだ。『現世の情報なら、少しは引き出せる。何か知りたい事はないか?』って。そしたら即答されたよ、『弟分を二人遺してきた。そいつらの消息を教えてくれ』とな」

 陣と凍矢が魔忍の里と完全に縁が切れて、追い忍はもちろん里長でさえ手が出せない程に強くなったと知って、画魔は我が事のように喜び安堵した。いつか彼らの両親達と再会したとき、胸を張っていい報告ができると。

 その後、黒鵺は待機所に行く直前まで、画魔の恩人探しを手伝っていたのだが、とうとう見つけられない内に輪廻転生待機所へ召集された。しかし待機所に移ってから、審判の門のホストコンピューターをハッキングして、死者に関するデータベースを確認してみると、やはり陣と凍矢の両親は画魔と同じ階層に堕ちていた事が判明した。

「教えてはやれなかったけど、あいつならいつか見つけられるんじゃないかな。あぁそれと、両親達が四人とも同じ日に死んでる所見ると、多分『道』かどっかで上手い事集合してると思うぜ。一緒にいると考えていい」

 「何故」

 掠れた声を精一杯絞り出したのは、凍矢だった。

 「何故、急にそんな話を?

 尋ねつつも、分かっていた。黒鵺はきっと、早い段階からお見通しだったのだ。あの、屋根裏部屋での夜から。陣が知りたがっていたものと、それを凍矢が止めた理由も。

 「・・・・・・ずっと迷ってた。画魔の事を伝えるべきかどうか。生者は死者に思いを残さない方がいいって言ったのは、嘘じゃない。だけど・・・・・・腑胴でオレがお前らを見つけられたのは、偶然なんかじゃなくて、画魔が会わせてくれたんだと確信してるから」

 迷いを晴らした結果出た答えを、そのまま口にした。それは今、この時でないとならなかった。というか、この時を逃してはならなかったのだ。

 「言うなら今だと思ったんだ。それだけだよ」

 そう締めくくった黒鵺の双眸に、強靭な覚悟が宿っているのを改めて確認して、陣と凍矢は震え上がる。その覚悟の間近に迫った危機も、彼が亡き友の事を話してくれた理由の一つだと、気付いてしまった。

 「じゃ、行ってくる」

 必要最小限の言葉だけ告げて、黒鵺はせりあがる悲鳴や呻きを噛み殺しつつ、泉へ向かって歩み始めた。ゆっくりと、足場を確かめるようにしながら。その背中に、かつて身近にあった面影が重なる。

 『いいよ。私が行こう』

 それっきり会えなくなった彼の後ろ姿が、蜃気楼のように揺れている。

 毒霧の境界線を、彼が越えようとした直前、陣はたまらず叫んだ。

 「黒鵺!!

 振り返った黒鵺は蒼白になった陣を見るなり苦笑して、開口一番「何てツラしてんだ」とからかった。それが彼なりの気遣いだと、もうわかっている。

 「絶対、絶対にちゃんと戻るだぞ! オメは絶対に消えちゃなんねぇ! もし消えちまったら、蔵馬の風はこの先ずっとずっとずーっと、泣きっぱなしだべ!!

 肺の中の空気を全部吐き出す勢いで、陣はいっぺんに言い切った。

 むしろ自分の方が泣きたい気持なのをこらえて顔を上げると、黒鵺は崩壊による痛々しさからはかけ離れているかのような、優しくて清々しい微笑を浮かべていた。こんな風に笑える彼が、どうして地獄なんかに居たのだろう。

 「・・・・・・・ありがとな。本当は、お前達六人衆も、誰も巻き込むべきじゃなかった。わかってた。でも、どうしても協力者がいないと身動き取れなかったんだ。・・・・・・感謝してる。それを証明するためにも、必ず戻るよ」

 そして黒鵺は、今度こそ背を向けて、思いの外しっかりした足取りで泉へと進んだ。

 陣の肩に、幼い頃から馴染んだ低い体温が触れる。凍矢の掌だった。

 「大丈夫、何もかも上手くいくと言ったのは、お前だろう。蛇那杜栖を捨てるだけなんだから、崩壊以外の危険なんて無いはずだ」

 そう、大丈夫。誰も何も生きられない場所なら、邪魔されるなんてありえない。なのに。

 小さくなっていく黒鵺の背中から目を離せないまま、陣はどこからともなく吹いてくる、ひそやかだけど不気味な風の気配を感じ取っていた。

 

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