第二部

 

 

序章

 

 

 その白金に輝く柄を握った時、もう引き返せないと実感した。それだけだった。死者ってのは、恐怖感まで鈍るものなのか? とにかく、あとは進むだけだ。

 連中の卑劣な計画を、オレの計画で塗り替えてみせる。『瑠璃結界の黒鵺』とまで呼ばれたこのオレを敵に回した事、せいぜい後悔するがいい。全てお前らの自業自得。・・・・・・かつてオレが死んだ時のように。

 銀色の背中を見送った、あの夜のように。

 今でもまるで昨日の事みたいに、あいつの顔を、そこに刻まれた絶望を思い出せる

 能天気なオレは、親友が散々ためらった末に夜闇の中へ走り去った後、心の底から安堵していた。そうだ、それでいい。お前を巻き添えにしなくてすんで良かった。

 ・・・・・・一緒に死んでやった方が、むしろあいつにとっては楽だったのだと、知っていたはずなのに。一緒にいようと先に言い出したのは、他ならぬこのオレ自身だったのに。

 それにも関わらずオレは、たった一人の親友を弱肉強食の非情な世界へ放り出し、置き去りにしてしまった。それこそが、オレの人生最悪の罪だった。そして、その罪に気づいた時こそが、オレにとって本当の地獄の始まりだったんだ。

 あいつの事、一人ぼっちになんてするんじゃなかった。滅んだ故郷の象徴より、親友の方がずっと大事に決まってるじゃないか。どうしてすぐにわからなかった?

 それ以来ずっと、地獄の片隅から絶えず願い続けてきた事がある。現世と縁が切れたオレにとって、その願いだけが存在理由だったといっても、過言じゃない。信じる神なんかいないけど、魂全てをかけて祈ってきた。

 そして、今。このたった一つの願いを守るため、オレはもう一度現世に戻る。

 叶えられるのならば、どんな代償でも喜んで払おう。それが例え、オレの存在そのものだったとしてもいいさ。今度はもう、あいつは何も見失ったりしないはずだから。

 

 ・・・・・・なぁ、蔵馬。

 もう二度と、『オレ達の国』へは帰れなくなっちまったな。ごめん。オレのせいだよな。

 今回、かなり三界を騒がせる事になるけど、最後でうまく挽回してみせるから、ちょっとの間待っていてくれ

 

オレの命は千年以上も昔に散ったけど、お前に誓った友情は、今もこの魂に生きてるよ。

 

 

第一章・導きの遭遇

 

 

 幽助と蔵馬が大統領官邸に呼び出され、『三界指名手配犯事件』が発覚した、最初の夜。

 

夕飯時を過ぎて繁華街がますます活気付く頃、魔界の地方都市の一つ腑洞(ふどう)では、魔界全域に緊急放送された臨時ニュースに釘付けになっていた。

 歴史の闇に散った名盗賊『瑠璃結界の黒鵺』が、霊界で前代未聞の大罪を犯して現世に逃亡。三界指名手配犯に指定されたというのだ。

 魔界統一トーナメントと、それにより発足した大統領制に対する反抗勢力や、人間界及び霊界への侵略を未だに企む輩が実は少なくないものの、パトロール隊による対抗と摘発のお陰で、魔界はかつてないほどの平穏な日々が続いていた。刺激の足りない日常に飽き飽きしていたのか、住民達はみなこの話題で盛り上がっていた。往来のそこかしこで寄り集まっている。

「すげぇことになったな、あの黒鵺が、地獄の底から這い上がってきたってよ!

 「魔界統一の悲願達成のためなんじゃないかって、さっきニュースで言ってたぜ」

 「魂消しちまう大剣の前じゃあ、大統領も敵わねぇだろうなぁ〜」

 「報酬には興味あるけど、勝てっこねぇよ。昔より強くなったんだろ?

 「なぁに、情報だけでもいいんだ。うまくいけば一儲けできるかもしれん」

 一つ目をギョロっとぎらつかせた大柄の妖怪が、一攫千金のチャンスに舌なめずりした。

 すると、蛇のような鱗を全身にちりばめた男が「そういえば」と、思い出したように切り出した。

 「なぁなぁ、妖狐蔵馬はどうするんだと思う?

 「どうって?

 「決まってるだろ、このまま浦飯や煙鬼様と一緒に捜査協力するか、それとも黒鵺の下へ戻り、魔界統一に手を貸すか」

 「そうさなぁ、人間界に染まって以降、すっかり極悪非道っぷりも影を潜めたらしいし、そうじゃなかったとしても今更昔の相棒なんぞに寝返ったりはしねぇだろ」

 「いや、わからんぜ」

 背中に剣山のような突起をびっしり生やした三人目が、にやりと笑う。

 「蛇那杜栖付の瑠璃結界を味方につければ、魔界統一に自分も加われるんだぞ。トーナメントに出るまでも無い。うまいこと言いくるめて自分の思うままに操るくらい、奴なら簡単にやってのけるって」

 「いやそれどころか」鱗の男が新たな可能性に気付いた「頃合を見計らって蛇那杜栖を奪い、黒鵺を消せば蔵馬の天下だ。そうしたら魔界の領土は独り占めにできる! これくらいは考え付くはずだぜ」

 「確かに、昔の血が騒いだら、浦飯や黒鵺を裏切って消すくらい、眉一つ動かさずにできるだろうよ、あの伝説の極悪盗賊なら」

 「なぁ、いっちょ賭けてみねぇか? 三択で。その一、蔵馬は今まで通り浦飯側についたまま。その二、黒鵺とコンビ復活して魔界を共同制圧。その三、最終的には黒鵺を消して自分が魔界の覇者に。オレはその二に三万かけるぜ!

 「それなら、オレはその三に思い切って五・・・・・・あが?

 突如、ピキーンと硬質な音が弾けたかと思ったら、蛇鱗の男は一瞬にして二メートル近い氷柱の中に閉じ込められていた。自身の現状を把握しきれないまま、ぽかんとした表情で固まっている。

 「おお、おい! 何だってんだよ、急に?! う、うわあああああ!!

 賭けを切り出した、背中一面に針を背負った男は、足元に発生した小型の竜巻に押し上げられ、高く長い放物線を描いてどこかの民家の向こうへと見えなくなってしまった。

 一人残された一つ目は、あたふたとパニックに陥っているだけ。

 そんな光景を、男達のすぐそばに立っていた三階建て雑居ビルの屋上から、誰にも気づかれる事なく見下ろしている二人分の人影があった。

 「・・・・・・どいつもこいつも、勝手な事ばっか言ってるべ」

 陣は不機嫌剥き出しで、それでもいつものように空中座禅で浮いている。そんな陣の隣で屋上のヘリに腰掛けていた凍矢は、すっと立ち上がって言った。

 「噂とは、えてしてそういうものだ。特に今回は有名所が何人も関わっているからな」

 平静を装いつつ、真っ先に氷柱の制裁を下したのは彼なのだが。

 「三界指名手配犯、か・・・・・・スケールもでかいだなぁ。にしてもオラ、瑠璃結界の黒鵺だなんて名前、初めて聞いただよ。蔵馬はほっとんど自分の昔話なんかしねぇし」

 「死んだのが千年以上前だからな。若い世代の者や人間界暮らしが長い者には、あまり馴染みがないようだ。しかし、わからんものだな。当時は蔵馬共々、盗賊というよりむしろ義賊のような活躍ぶりで、民衆の人気がずいぶん高かったらしいのに、その黒鵺があんな大罪で三界から追われる身になろうとは・・・・・・」

「そうなのけ?

「あぁ、奴からの施しで飢えをしのぎ、滅亡を免れた村や、行き倒れにならずに済んだ戦災難民や、路銀付きで逃がしてもらった奴隷が、大勢いたんだそうだ。ただ同時に、商品として売るはずの奴隷を一人残らず逃がされて売り上げも全額奪われて、廃業に追い込まれた奴隷商人が後を絶たなかったらしい。そういう連中に限っては、黒鵺が死んだ時にもろ手を挙げて喜んでいたという話だ」

 すらすらと読み上げるような凍矢の口上に、陣は驚きと感心両方で、もともと丸い目をいっそう丸くした。

 「オメ、オラより年下なのにかなり詳しいだなや。若ぇ妖怪には知られてねぇんだべ? なしてそこまで色々知ってんだ?

 「・・・・・・全部、魔界忍者の隠れ里に保管されていた資料の受け売りだ。陣は一冊も手に取ってはいない事も、ついでに知ってるぞ」

 「っていうか、そんな資料があったっつーことも、今初めて知っただ!

 「堂々と言うな!!

 凍矢がぴしゃりと叩き返すのに合わせて、陣の腹からぐぅ〜っと、なんとも間の抜けた音が鳴った。それに引きずられるかのように、凍矢も心底脱力させられる。

 「お前・・・・・・何でそう緊迫感が続かない?

 「へへへ〜、腹の虫には逆らえねぇだよ。そもそもここには、メシ食うために寄っただしな」

 二人がこの街を訪れたのは、パトロールを終えて帰る途中、腹が減って家に帰るまでもたないと陣が駄々をこねたせいだった。

 「なぁ凍矢、ひとまず腹ごしらえするべ。そうじゃねぇと頭も働かねぇだ」

 「食べた後は眠くなると、いつも言うのはどこの誰だかわかってるのか?

 「だから、一眠りした後に頭が冴えるんだべ!

 もう何も言うまいと早々に切り上げ、「しかたないな」と、凍矢も手近な飲食店に移動しかけた。その時。

 「悪いがその前に、ちょっと付き合っちゃくれねぇか?

 天気でも尋ねるかのような気安い声が、背後から聞こえてきた事に、陣と凍矢は心底驚いた。なにしろ自分達は、元魔界忍者。他人の気配に気づかない事も、背後を取られる事もありえないのに。

 反射的に臨戦態勢を取り、二人いっぺんに振り返る。

 するとそこにいたのは、浅黄色のフードつきマントを身に纏った、背の高い妖怪だった。

「まったく、我ながら運がいいぜ。まさかこんな所でお前らを見つけられるとはな」

フードの下から僅かにしか顔が見えないが、どうやら自分達のように人間に近い外見らしい。そして、さっきの声から察するに男のようだ。

 「大人しくついてきてくれるなら、手間はとらせねぇよ。風使い陣と、呪氷使い凍矢」

 名前を知られている事は、大して不思議ではない。前回のトーナメントに本選出場した二人は、他の六人衆メンバー共々、魔界住民に顔と名前が知られていた。

 だが、目の前にいる男は、それだけで説明がつかないほど怪しかった。彼からは、まったく妖気が感知できない。背後のしかもすぐ近くまで迫られても気がつかなかったのは、そのためだ。抑えているのではなく、何か特別な技術で妖気を完全に消しているのだ。

 何故、わざわざそんな手の込んだ事を?

 「オメさ、誰だべ? オラ達に何の用だ?

 空腹も忘れて睨みをきかせる陣に、男の口元がふっと緩んだ。

 「今、魔界と霊界ひっくるめて一番の有名人さ。昔もそれなりに名が売れてたけど」

 悠然とした仕草で、フードが取り払われる。陣と凍矢は声も上げられないまま、ただ息を飲んだ。ついさっき、電気屋の前を通りがかった時に、陳列されたTV画面全部に映っていた顔が、不適に笑っているではないか。

 「貴様、黒鵺か!!

 とっさに凍矢が呪氷剣を右手に携えた。身構えながらも、彼の頭脳は必死でフル回転している。何故だ。何故黒鵺がオレと陣に接触してくる? こいつの目的は一体何だ?

 「手始めに、オレ達の魂を消そうとでもいうのか? だったら、それにふさわしい対応をさせてもらうぞ」

 「まぁ、そう勇み足になりなさんな。最初に言っただろ、ちょっと付き合って欲しいだけなんだって」

 陣の周りに風が、凍矢の背後に冷気が渦巻いても、黒鵺は余裕しゃくしゃくの態度を崩さない。二人の元魔界忍者越しに街並みを眺めて、感慨深げに独り言のように言った。

 「オレが死んでた間に、魔界もずいぶん変ったな。情報だけで調べるのと実際見るのとじゃ、大違いだぜ。しかも、たった一人の死者を追うために霊界と手を組むとはよ」

 「元凶のくせによく言うべ! オメが蛇那杜栖なんか盗まずに、普通に輪廻転生してたら、こんな騒ぎなんか起こんなかっただ!! 大体、人質にした霊界のねーちゃん達はどこだべ?!

 「とりあえず、今は無事だとだけ言っておく。で? どうするんだ」

 「どう・・・・・って?

 「オレについてくるか来ないのか。用件はとっくに伝えてるんだぞ、返事くれよ」

 「返答が欲しければ、詳細情報を寄こすことだ」

 呪氷剣の切っ先を真っ直ぐ黒鵺に向けて、凍矢は毅然とした声でつっぱねた。

 「人質の居場所は? オレ達に接触した理由は? そして、どこへ連れ出そうとしてる?

 「なるほど、最もな疑問だ。焦ったのはオレの方かもな」

 肩をすくめて苦笑した黒鵺は、ここで時間食いたくなかったけど、と前置きして真剣な面持ちで陣と凍矢を見据えた。紺色の瞳が急に厳しい光を帯びて、威圧感を放つ。

 「交渉しに来た。人質をお前らに渡す代わりに、仲間内も含めた六人全員でオレの計画に協力して欲しい」

 「なっ・・・・・・?!

 全く予想の範疇を掠めもしなかった言葉に、二人は同時に絶句した。

 足元から煙のように立ち上る街の喧騒が、どこかそらぞらしく響いては、頭の中を右から左へ通り抜ける。そうしてからようやく、投げられた言葉を受け取り飲み込んだ。

 「計画ってつまり」

 陣は震えそうな声を一度区切り、自らを叱咤すると改めて口を開いた。それでも、動揺をうまくおさめられない。黒鵺の計画に協力するということは要するに、幽助や蔵馬達を裏切るという事。それをやれと言ったのか、この男は

 「手強そうな奴の魂さ全員消して、自分が魔界をまとめちまう事だべか?

 「好きに解釈しろ。正確な内容を知りたかったら、ついてこい」

 飄々としていた先程までとは一変して、黒鵺は表情からも口調からも、有無を言わさぬような圧力を発している。これは、千年もの長きに渡って地獄に居たからこそのものだろうか。器だか何だか知らないが、一見すると自分達同様、現世で生きている者達と何ら変わらないように見えるのに。

 「戯言を! オレ達がお前の側についたら、人質の二人を返されようと、彼女達の状況は変わらんじゃないか」

 凍矢は冷静さを取り戻し、のしかかってくる圧迫感をを跳ね返した。

 「そうでもないぜ。少なくとも、二人の身の安全はお前らに委ねられる事になる。オレはそれ以降手出ししない、絶対に。信じられないなら、なおさら一緒に来るんだな。今からお前らを連れて行こうとしてるのは、臨時に決めたねぐらだ。そこに、女達もいる」

 信用するな。凍矢は目線だけで伝え、陣は小さく頷いた。

 「だったら、ねーちゃん達をここさ連れてきてみろ。無事なままで。そしたらもうちょっと話聞いてやってもいいだぞ。ただし」

 「ただし?

 「オラ達がオメなんかに味方すると思うなよ」

 「まぁ、気が進まないのは当然だな。オレを蛇那杜栖ごと霊界に引き渡せば、たんまり報奨金が貰えるわけだし。戦った方が得だと考えるのは無理もない、か」

 「馬鹿にすんでねぇ!!

 黒鵺の嘲笑交じりの言葉が、陣の心の導火線に火をつけた。普段はあどけなさを残している面差しが、怒りの形相に彩られる。

 「許せねぇだけだ。黒鵺がやった事とやろうとしてること全部! 大体オメ、蔵馬の友達だったんだべ? なしてあいつまで消そうとしてんだ。霊界さ目茶苦茶にしてぼたんとひなげしってコをさらったのは、つまりそういうことだべ?!

 「それは、オレ達六人とは決して相容れなくなったも同然。情報の集め方が甘いんじゃないか? ずいぶん見くびられているものだ」

 攻撃の先手を打とうと、黒鵺の隙を伺っている二人。限界まで鬼気迫った空気が、今にも弾けようとした、刹那。黒鵺が水を刺すように皮肉っぽい笑みを唇の端に浮かべた。

 「どっちが甘いんだか・・・・・・お前らまだ、自分達の立場ってもんをわかってねぇな」

 「立場だと?

 凍矢が聞き返すのを待っていたかのように、黒鵺の胸元に瑠璃色の渦が現れた。直接見たことはなくとも、これこそが内部結界だと悟る。

 「オレが何を持ってるか、知ってんだろ? 別に急所狙わなくても、一振り当てるか掠めるかすれば、お前達の魂は一瞬で消える。地獄にも行けない。・・・・・・見たいか? 蛇那杜栖を。見せたとたんに魂の抜けた死体が二つ、ここに転がってもいいならな」

 「オメがどんだけ強ぇか知んねぇけど、二対一ならオラ達の方が有利に決まってるべ。凍矢となら連携も慣れてっしな」

 その凍矢が白狼を召還すれば、実質的には三対一だ。仲間内以外には、まだ誰も知らない極寒の化身の存在を思い出し、陣は密かに勝利を確信した。だが。

 「じゃあもう一つ。実はな、霊界の女達は今、オレが張った特殊な結界の中にいる」

 黒鵺のマントの裾が、僅かにはためく。陣が集めた風の余波だ。その風は、高い位置で結い上げた彼の髪をもひっきりなしに揺らしている。長い前髪を芝居がかった仕草でかきあげ、黒鵺は勝利宣言のように言った。

 「吸命結界っつってな、読んで字の如く、内部にいる生き物の生命力を、徐々にだがゼロになるまで吸い上げる。器から霊体だけで離脱することもかなわない。当然、解除できるのはオレだけだ。今こうしてる間も、女達の命はどんどん削られてるんだぜ」

 「オメ、何てことすんだ!!

 血相を変えた陣に、黒鵺はますます勝ち誇った。

 「だからさっき言っただろ、ここで時間食いたくないって。もう一度聞く、オレについてくるか来ないか、どっちだ?

 

 

 腑洞から北西へ三キロ程移動した森の中。先頭の黒鵺はランプ片手に、けもの道でも構わずにすいすいと進む。夜空を枝葉で隠す奥深い森の中、柔らかな腐葉土を踏みしめながら、陣と凍矢は彼の後に続いていた。

 浅黄色のマントも闇に沈んでいる。黒鵺の持つランプの灯りだけが、切り取ったように浮かび上がって行く手を照らす。後れ毛の如く後ろへ漏れてくる脆弱な光を頼りに、陣は凍矢を伺い耳打ちを始めた。

 「どうすっだ? 結局こいつの言う事さ聞いちまったけど」

 「・・・・・・やむをえんだろう。選択の余地が無かった。まずは人質を救助するのが先だな、形勢逆転するチャンスがあるとしたらその後だ」

 「でもよ、黒鵺もそのへん予測しててもおかしくねぇべ。凍矢の言う通り、ぼたん達さこっち渡したら自分が不利になるだけだって、わかってるはずでねぇか?

 「確かに・・・・・・だからこそ、翻弄されてしまう。奴の真意が全く読めないんだ」

 いつもは冷静な凍矢が、困惑を隠しきれていない。他にどうしようもなかったとはいえ、自分達はとんでもない間違いを犯しているのではないか、という不安がじわじわと心の隙間から沁みてくる。

 「着いたぜ、ここだ」

 ぼんやりと照らし出されたのは、外界よりさらに澱んでいるような闇を内包した洞窟だった。

 湿度があるかのごとくまとわりついてくるその闇をかき分けるように、三人は奥へ奥へと歩を進める。分かれ道を左へ一回、右へ二回曲がった所で、ようやく角の向こうから別の灯りが燈っているのが見えた。光の強さと色合いからして、今黒鵺が手にしているのと同じタイプのランプのようだ。

 「何だべ、あれは」

 陣が驚いて指を差した先にあるのは、角の手前、灯りが燈されている空間に入る直前の部分。洞窟の足元から側面、そして頭上を沿うように、ぐるっと一周して描かれている瑠璃色の魔法陣だった。

 「定位置式の妖気遮断結界だよ。厳密には霊気も閉ざすが、出入りは自由なんだ。大して強くなくても、魔界で霊気は目立つから。ちなみに、今までオレが張ってたのは移動式の遮断結界」

 そう黒鵺が言ったとたん、一瞬だが彼の足元を取り囲むように小型の魔法陣が現れ、ぱっと発光して消えた。この時初めて、黒鵺の妖気も解放された。

 抑え気味にはしているもの、やはり膨大だ。決して侮れない。その質量に凍矢はますます警戒を強めたが、陣は急にキョトンと、普段でも丸い目をさらに丸くして、慌てたように凍矢を振り返った。

 「なぁ凍矢、こいつの風、何だかおかしいべ」

 「何がおかしいんだ?

 妖気が自由になったのと連動して、そこに触れる風を陣が感じられるようになったのは、むしろ当然の事。一体、何を不審がっているのだろうか。

 凍矢が首を傾げた、ちょうどその時。角の向こう、淡い灯りの中から小柄なシルエットが飛び出してきた。

 「黒鵺さん、おかえりなさい!

 洞窟内に反響する嬉々とした声と駆け寄ってくる姿を確認して、陣と凍矢は、自分達は幻覚の見える結界にいつの間にか踏み入ってしまったのかと思った。

 そこで見たのは、朱色の髪をした巫女姿の少女。

 黒鵺に人質に取られ、生命を食い尽くすという恐ろしい結界に閉じ込められているはずの、霊界案内人・ひなげしなのだから。

 しかも彼女に続いて、直接知っている人物まで灯りの中から歩み出てきたではないか。

 「おやまぁ、誰かと思ったら陣と凍矢じゃないか。久しぶりだねぇ」

 シンプルな和服に身を包んだ、ポニーテールの少女――ぼたん――まで、あののんびりした口調を響かせながら笑いかけてくる。

 「待たせちまったな、一応、霊界人でも抵抗無く食えるようなモンを選んできたつもりなんだが・・・・・・」

 と、黒鵺が脱ぎ捨てたマントの下。今まで気付かなかったが、一抱えほどの紙袋を彼は持っていた。手渡されたその中身を覗き込み、ひなげしは無邪気な声を上げる。

 「大丈夫、全部おいしそうだわ。それに、あたしもぼたんも好き嫌いなんて無いから」

 「そりゃ良かった。んじゃ、遠慮なく好きなの選びな」

 「先に黒鵺さんが取って。疲れてるんでしょ?

 「どってこたぁねぇさ。それに、オレはお前らと違って完全な死者だからな。器のお陰で実体があるとはいえ、生命活動してないから、食いモンも必要ねぇよ」

 「そうかい、何から何まで世話になっちゃって悪いやねぇ」

 申し訳無さそうに微笑むぼたんも、ひなげしも、黒鵺を恐れている様子はない。それどころか、二人の彼に対する言動や態度は、どの角度から見ても友好的だ。

 「やっぱな〜、どうもおかしいと思ったら」

 陣はようやく合点が言ったように、肩を大きく上下させた。

 「・・・・・・・・・・・・何かわかったのか?

 驚愕と衝撃がぶつかり合って臨界点を超えていた凍矢は、ついリアクションが遅れてしまったようだ。ぎこちない動きで陣を見上げる。

 「や、分かったっつーかさ、黒鵺の風が全然ヤな感じしねぇから、どうも変だなって。それどころか、心地いいくらいだべ」

 そういえば、と凍矢は改めて黒鵺に注目する。さっきまでとは打って変わって、ぼたんと何やら会話しては声を上げて明るく笑い、ひなげしの言葉にうなずきながら彼女の頭を優しく撫でている。まるで、親が子を慈しむように。

 あれが、誘拐犯とその人質だって? さっき観たニュースは、一体何だったんだ?

 目の前に展開する光景と最初に聞いた情報とは、まさに天と地程の開きがある。その狭間を埋められず、奈落の底へ突き落とされそうだ。

 「あ、そうだ。おい陣! ちょっと」

 袋の中からパンを一つ持って手招きすると黒鵺は、「口開けな」と言うが早いか、そのパンを牙の覗く陣の口へくいっと押し込んだ。

 「ふが?

 「腹減ってんだろ、とりあえずそれ食っとけ」

 そのまま素直にかぶりつく幼馴染を押しのけて、どうにか体勢を持ち直した凍矢が前に進み出る。

 「何がどうなってるんだ、説明してくれ! 第一、吸命結界とやらはどこだ? そこに彼女達を監禁してたんじゃないのか?!

 「あぁ、あれ嘘」

 「・・・・・・は?」

 「そんな結界ねぇよ。霊界人に危機が迫ってる事に説得力もたせるため、でまかせ言っただけだ。実際にはもっとえげつない結界があるんだけど、このお嬢ちゃん達に使えるわけねぇじゃん」

 「それじゃあ、何で・・・・・・」

 「立ちっ放しも何だから、そこのスペース入って腰落ち着けようや。お互いの妖気と霊気も遮断しねぇと」

 同一人物のはずなのに、がらりと表情や雰囲気が変わってしまっている。凍矢の中でもすでに黒鵺に対する第一印象は崩れ去っていた。

 

 

 小部屋のようにぽっかりと空いたそのスペースは、少々天井が低かった。五人は車座になって腰を下ろし(陣のみ空中座禅)、ランプが放つオレンジ色の光に包まれる。それぞれの影がごつごつした岩肌に、歪な形で伸びていた。

魔界での報道内容をぼたんとひなげしに教えた所、彼女達は酷く憤慨した。

 「ひっどーい、何よそれ!! 全部ガセネタじゃない!

 「ガセネタだって?!

 あの後、団子と蒸しケーキとついでにお茶も分けてもらって、ぺろりとたいらげた陣が、驚きで声をひっくり返した。

 ひなげしはそれに大きく何度もうなずいて、頬を紅潮させてしまうほどかんかんに怒っている。

 「そうよ、第一、あたしとぼたんは黒鵺さんにさらわれたんじゃなく、助けてもらったんだから!

 「閻魔大王様とコエンマ様が瀕死状態ってのも、デタラメさね。幽閉されて、身動き取れなくなってはいるけどさ」

 ぼたんから急に新事実が明かされて、凍矢は目を見開いた。

 「幽閉だと? それはそれで穏やかじゃないが、どうしてこうもオレ達が観たニュースと食い違ってるんだ?

 「大体、助けてもらったって、何からなんだべ? 全部ガセネタっつったけんど、じゃあ蛇那杜栖はどこに・・・・・・」

 「そこだけは事実だ」黒鵺が口を挟んだ「蛇那杜栖は、確かにこのオレが盗んだ。内部結界にしまってある」

 どこまでが事実でどこからが間違いなのか、陣は説明を聞けば聞くほどわからなくなってきた。

 「えーっと・・・・・・どっから確認すればいいだなや?

 「そもそも、事の発端は何だったんだ?

 まずは霊界で何が起こったのか、一から聞こうと凍矢は問いかけた。

 ひなげしが、あどけない目を怒りにつりあげたまま、ぐっと身を乗り出す。

 「諸悪の根源は、不知火率いる武装教団・正聖神党よ。自分達を神の使いと信じて疑わない、思い上がりも甚だしい奴ら! めったやたらに排他的で、魔界住民を異種族どころか悪魔の使いだと思い込んでるのよ」

 「大昔は、霊界の主流派だったらしいんだけどね」ぼたんも加わる「時代の流れとともに大分廃れてきた、と思われてたのに、実は上層部に隠れ党員がかなりいたらしくてさ。で、そいつらにとっては、現在の状況が耐え難いわけだよ」

 「魔界が人間界と霊界に対して結んだ、紳士協定の事か? ・・・・・・なるほど」

 「何がなるほど、なんだべ? 次のトーナメントの優勝者によっては変わるかもしんねぇけど、とりあえず煙鬼のおっちゃんが上手い事やってきてただぞ」

 「正に、それこそが不本意なわけだろ」

 一足先に納得した凍矢が、噛んで含めるように陣に説明し始めた。

 「その正聖神党とか言う連中にしてみれば、全妖怪が邪悪な宿敵ってわけだ。その宿敵と協定なんて組まされてるのは、屈辱以外の何ものでもないという事さ」

 「ご名答! もっと詳しく言うと、正聖神党は人間界の浄化こそが自分達に課せられた、聖なる指名だと信じててね、その延長線上で人間界が霊界の領土だと考えてるのさ。領土って言うか、植民地扱いって所かな」

 「三年前まで亜空間にはられてた結界は、霊界が人間界を魔界の脅威から守るって大義名分の下、その実は植民地を独占するためだったってわけ。その結界が解除されてS級妖怪でも自由に人間界へ出入りできるようになったものだから、連中にとっては由々しき事態なのよ」

 「よりにもよって、妖怪に領土侵犯されてるわけだからな」

片膝を抱えるような体勢で座っていた黒鵺が、皮肉っぽく笑った。

 「そこで正聖神党は、霊界へのクーデターと魔界へのテロ、すなわち妖怪達の大量虐殺を決めたのさ。そのために使われる事が決定した、伝家の宝刀は二つ。その内の一つは異次元砲だ」

 「いじげんほう??

 「大昔、連中が最も幅を利かせてた頃の旧遺物さ。地球の気をエネルギー源として、千年周期で『天罰』と称しては人間の退廃を粛清してたってよ。一発撃てば爆心地の半径五十キロは跡形も無く消し飛ぶぜ・・・・・・だが今回、奴らはそれを魔界に向けて撃とうとしてやがる」

 ランプの明かりの中、冴え冴えとした深い紺色の瞳が怖いくらい映えた。閉ざされた、自分達以外の生き物の気配さえしない場所。ここで、三界を巻き込んだ本当の危機について明かされていることが滑稽なようでいて、それが逆に圧倒的なリアリティとなっていた。

 固唾を呑む陣と凍矢をまっすぐ見つめながら、黒鵺はさらに続けた。

 「当初の計画では、第二回魔界統一トーナメントの開催初日、魔界の主戦力ともいえる妖怪達が確実に最も多く集るその日、会場に向けて放つつもりだったらしい」

 「! そんな事になったら、いかに魔界でも甚大な被害をこうむる。・・・・・しかし、それだけでテロが成功するのか? 確かに奇襲作戦としては恐ろしいが、会場の妖怪全滅というわけにはいかないぞ」

 凍矢の言う通り、雑魚妖怪や観戦に来た一般妖怪達ならひとたまりもないだろう。想像を絶するような惨状が広がるに違いない。しかし、無事ではすまないにしても、煙鬼らを初めとする優勝候補はもちろん、自分達もその異次元砲とやらで殺されるとは思えなかった。そういった生存者達に報復に出られたら、結果として膝を屈するのは霊界の方ではないのか。

 「確かにな。だが、主戦力の妖怪達にだってそれなりの深手を負わせることはできる。そこからが、もう一つの伝家の宝刀の出番なのさ」

 「つまり?

 「蛇那杜栖だよ。異次元砲によって魔界が混乱し、猛者達が弱体化した隙を狙って、魂を片っ端から消してやろうって算段だ。そうすれば霊界による魔界への陣地拡大が、遥かに楽になる」

 「それこそ無茶だべ!」陣が思わず叫んだ「蛇那杜栖がどんだけ強力な武器でも、たった一本しかねぇんじゃ、オラ達がどんだけ重傷だって、霊界人の一人くらい取り押さえるくらいできっぺさ」

 「一本じゃないとしたら?

 素早く切り返され、その意味を図りかねて陣は言葉に詰まった。

 「何十本もの蛇那杜栖を装備した霊界人達が、その隙をついて一斉に押し寄せてきたら? しかもその時、妖怪達はみんな、蛇那杜栖の真の威力を知らないんだぜ」

 身の毛もよだつ光景が、目の前をよぎった気がして陣はゾッとした。瓦礫も死体も残らず吹き飛ばされた、丸裸の大地。一部の生存者達も致命傷に近い傷を負っている。事態を把握すらできない彼らに、青銀の刃が次々とふりそそぐ。そして残るのは、魂の欠け落ちた亡骸。その中の一つは、かつて自分であったものなのだろう。

ぼたんが、後を引き継いだ。

 「正聖神党は、蛇那杜栖のコピーを大量生産しようとしてたんだよ。極秘に工場をつくって、強度も威力も本物そっくり、いやそのもの同然のクローンを作る計画があったんだ。魂の生命情報を元に、器を作り出す従来の技術と、自分達で独自開発した技術を合わせ、材料無しの状態からでも作り出せるように。そんで、異次元砲と合わせて魔界を制圧した後、人間界在住の妖怪達も粛清するつもりだったらしいよ」

 「でも、コエンマ様は見逃さなかった。工場が稼動される寸前に正聖神党の動きに気付いて、霊界特防隊に摘発させようとしたの。だけど・・・・・・その特防隊の中に、四人も隠れ党員がいたのよ。おまけに、前隊長の大竹って奴までグルだったわ。摘発を知った正聖神党は、予定を大幅に繰り上げてクーデターに踏み切ったの!

 ひなげしの脳裏に、つい数刻前の記憶が閃く。理不尽に始まり広がった凶悪な輪の中へ、いやおうなく放り込まれた恐怖も克明に甦り、彼女を震えさせた。

 

 

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