第六章・追跡の下で

 

 不知火が霊界から連絡を入れてきたと煙鬼が伝えてくれたのは、翌朝の事だった。

 当初の方針を変更して、人間界に派遣されていた特防隊員と捜査員達も、全員魔界に召集して有事に備えるらしい。が、危篤状態だった新隊長の容体が急変し、霊界住民達の不安もここへ来て急に高まってパニック状態寸前のため、不知火自身は霊界を離れられないとも言っていた、と。

 「願ったり叶ったりだぜ。しばらくあの野郎のツラは見たくねぇ」

 百足の司令室に、飛影らと共に集められた幽助が、椅子の背もたれに寄りかかりながら両足を机の上に投げ出した。しかも土足で。気にしていないのか注意するのが面倒なのか、躯は特に言及しようとしない。

 「しっかし、陣達はあいかわらずどこにいんのかわかんねぇな。黒鵺の事抜きにしても、一体どうしちまったってんだか」

 「フン、オレは別にあいつらが黒鵺につこうがつくまいが、関係無いがな。ただ、もしトーナメント前に戦えるのだとしたら、それも悪くない」

 邪眼が徐々に回復していくのを感じながら、飛影が幽助の言葉にうそぶいた。

 やっぱこいつにチームプレイなんて無理なんじゃねーの? と心の中で皮肉を零しつつ、桑原は今朝からやけに無口な蔵馬をそっと伺った。

 今日、黒鵺と対峙したとして、もしも彼が蛇那杜栖を振りかざしてきたなら、蔵馬はどうするのだろう。

 「どっちにせよ、不知火が向こうで忙しいなら、魔界のやり方に直接口出しする事も無いだろう。戦力配置案には乗ってやったんだ。ここからは好きにさせてもらうとしようぜ」

 躯が、肩の荷を少し下ろしたような顔をした。

 どうやら昨日黄泉が言っていたのも本音のようだ。煙鬼によって紳士協定が結ばれ、共通の三界指名手配犯を追っているといえども、指図されるのはまっぴらなのだろう。

 「この際暴露するが、オレ個人としては霊界の治安なんぞ知った事じゃない。第二回魔界統一トーナメントの無事開催の方が断然重要だ」

 「うっわ、本当にぶっちゃけたぜ、この女王様」

 さすがは飛影の上司だと、桑原は素直に感嘆している。

 「もう一つ付け加えるなら、瑠璃結界の黒鵺に対する興味かな」

 ここで、蔵馬がハッとしたように顔を上げた。

 「そういえば貴女は昔、黒鵺とオレ共々、自分の直属戦士にスカウトしようとしてたらしいですね」

 「え、マジで?

 目を丸くして声を上げたのは桑原の方だった。

 「まぁな。手強い敵国の王とその宰相になる前に、自分の配下にした方が得に決まってるし、雷禅にも対抗しやすいと思って」

 「そんな事企んでたんスか、あんた・・・・・・」

 「とはいえ、二人とも神出鬼没でなかなか交渉さえできなくてな。そうこうしている内に、黒鵺の方が死んじまったのさ」

 桑原の驚愕と畏怖を交えた視線を尻目に、あー惜しい事した、と、躯は冗談とも本気ともつかない口調でのたまった。

 「そいつは残念だったな。時代も次元も超えて、奴は現世に舞い戻ってきたが、またしてもスカウトの機会を逃す事になるぞ。今度こそ永遠に」

 剣の柄を握る手に力のこもる飛影に、全員が注目した。

 「黒鵺には邪眼の借りがあるし、オレもトーナメントを邪魔されるのは我慢ならん。完全回復したその瞬間に、何倍にもして返してやる」

 邪眼師のプライドまで傷つけられた飛影にしてみれば、これは雪辱戦でもあるのだ。

 「それで蔵馬、お前は結局どうするんだ?

 「どうする・・・・・・って」

 「言っておくがな、オレは本気で容赦せんぞ。蛇那杜栖ごとコゲクズにするつもりで戦う。その時お前はどう出る気だ。武器を向けるのは誰に対してだ。奴か、それともオレか」

 「なっ・・・・・・飛影てめぇ!

 食って掛かろうとした桑原を、幽助は反射的に彼の腕を掴む事で止めた。その脳裏には、三日前の夜、蔵馬が言った言葉がありありと甦っている。

 『飛影は意味の無いことや、ましてや無駄な事は言わない』

 これは、必要な事なのだ。いかに酷な質問でも、黒鵺と同じくらい蔵馬にとって避けて通れぬものだから。ただ、その答えの内容いかんによっては、今まで積み上げてきたもの全てが突き崩される危険がある。

 「・・・・・・飛影、オレは」

 思いの外落ち着いた態度で、蔵馬は顔を上げる。その瞬間。

 『躯様! 緊急事態です!!

 司令室の無線用スピーカーから切迫した声が炸裂した。

 「どうした、何か動きでも?

 『大統領官邸から、各所一斉配信の連絡があったんです。十五層南西部・U−7地点で、強大な妖気の暴発が確認されました! しかも六人分!!

 「六人だと?!

 『は、はい。しかも十五層を巡回していた痩傑氏達のチームからの報告だったんですが、それによると、その内の二つは属性持ちだそうです。それぞれ、風と氷だとか・・・・・・』

 「証拠十分だな、進路決定。同地点に全速力で向かえ!

 幽助と桑原は、混乱を隠せない表情を互いに見合わせた。一体、どういうことだ。わざわざ居場所を知らせるような行動に出るだなんて。これも、黒鵺の計画の内だとでも?

 「そこに、きっと黒鵺もいる」

 感情を抑えた声で、蔵馬が突然断言した。

 「その地点にあるのは、かつて刹彌(せつび)という豪族が暮らしていた宮殿だ。とっくの昔に廃墟と化したが」

 「聞き覚えがあるぜ。ジャンルを問わず秘宝財宝その他などなどを集めまくってた、無節操な悪徳コレクターだったな。奴の宮殿といえば、確か・・・・・・」

 躯に頷いて、蔵馬は下唇をきつく噛み締めてから答える。

 「そうです、オレと黒鵺が二人で一緒に、最後に盗みに入った場所です」

 目の前が、血の色に染まった気がした。

 

 

 百足が魔界第十五層にさしかかってまもなく、雷禅の旧友の一人・九浄から幽助の携帯電話に連絡が入った(魔界側捜査チーム全員に幽助の他、黄泉、躯、そして大統領夫妻の連絡先が通知されている)

 その音声が司令室全体に聞こえるようにマイクを繋いで、新たな報告を聞いたのだが、それはさらに思いも寄らない展開となっていた。

 「霊界側捜査員が全員とっつかまって、しかも黒鵺の結界に閉じ込められてただぁ?!

 『あぁ、かなり強力でな。ちょっとやそっとじゃオレ達でも破れない。無理に破壊しようとすると、内側の霊界人達に被害が及ぶぜ』

 僅かに困惑を滲ませながら、九浄は短いため息をついた。

 『もちろん、特防隊隊員もだ。これで霊界側捜査員は一人残らず身動き取れなくなっちまった。魔界サイドのみで、黒鵺と六人衆を追うより他ねぇな』

「霊界人拘束には、彼らも黒鵺に協力していたんですか?

 『今の声は・・・・・・妖狐蔵馬か。あぁ、どうやらそのようだ。オレは棗と痩傑の三人で宮殿に向かってたんだが、その途中で妙な風が吹いてな』

 「妙な風?

 『ありとあらゆる方向から吹きまくる、まるで意思を持ってるみてぇな風だった。ふと見上げると、オレ達同様、宮殿に行く途中だった霊界側捜査員達が、次々と上空に舞い上がって、宮殿めがけて吹っ飛んでいったんだ。いきなりだったし痩傑でさえ飛びにくくなるような風圧で、とても助けられなかった』

 陣の仕業だ。九浄から名前を直接出されずとも、全員が納得した。

 「でも、今までの陣の風の使い方とはちょっと違いますね」

 「どう違うんだよ、蔵馬」

 「以前までは、風を自分の周囲に集めて妖気を通す事で操っていた。だが九浄の話によると、どうやら風の遠隔操作が可能になったようです。つまり、わざわざ風を集めなくても、はるか遠方にある風に妖気を通せるようになったんですよ。これによって、陣が一度に操れる風量はケタ違いに増えたと考えられます。・・・・・・おそらく、その強度も」

 『の、ようだな。なぁ幽助、お前達にも言える事だろうが、陣だけでなくあの六人全員、三年前とは別人だぞ。特にあの酎って酔っ払いは、棗の実践訓練を受け続けてきたくらいだからな。ま、本人としちゃ求愛のつもりだったみてぇだけどよ』

 「っだよ、それ。余計にワケわかんねーーーーー!!! そこまで一人一人強くなってんなら、なおさら黒鵺の言いなりになる必要なんざねぇだろうが!

 『そこまでオレが知るかよ。たった今探してる最中なんだ。他の二人ともそれぞれ手分けしてるから、誰かしら発見するまでそうかからないと思うが』

 九浄達が刹彌の宮殿に駆けつけた時、既にそこには結界の中に拘束され、連絡手段も奪われて、その効力のために霊体を器から離すことさえできなくなった霊界人達がそこにいた。辛うじて、あの金糸の刺繍をあしらった黒いローブの後ろ姿が視界を掠めたが、すぐに見失ってしまった。妖気を絶っているため、視界から消えると追跡が難しいのだ。

 痩傑に追跡を任せ、九浄と棗で宮殿内部を念のため調べてみても、もぬけの殻となっていた。誰の妖気も全く感じられない。黒鵺の結界で消しているとは思えなかった。移動式結界は第三者に対しても張れるが、それには術者が近くに居る必要があるから。

 つまり、黒鵺より先に六人衆が宮殿を離れて行方をくらましたことになる。

 いったん九浄との電話を切り、幽助はリーゼントが乱れるのもかまわずに、がしがしとかきむしった。

 「マジでどうなってんだ? 霊界側の捜査員捕まえたからって、魔界側からの追っ手がいることには変りねぇのに」

 「とにかく、今の報告を霊界にも入れとかなきゃならない、か。・・・・・・ん?

 携帯電話を開いた躯が、訝しげに眉根を寄せた。

 「おかしい、不知火の携帯にかからん・・・・・・おい浦飯、お前のでも試せ」

 全く気が進まないのだが、仕方ない。幽助はしぶしぶともう一度携帯を操作し、事件発生したあの夜に登録させられた番号にかける。だが。

 「オレのもダメだ。もしかして、霊界側からも今、魔界に連絡取れなくなってんのか?

 「ちょっと待ってろ。・・・・・・あぁ煙鬼か? 実はな・・・・・・え? そうか、やはり・・・・・・」

 険しい表情を浮かべて通話を切り、躯は厳しい眼差しで一同を見回した。

 「いずこも同じだ。携帯電話はもちろん、臨時ホットラインも不通になってやがった」

 「何だって?

 ガタンと音を鳴らして、幽助が立ち上がる。魔界内でなら問題無く連絡が取り合えるのに、霊界には何も通じない。この現象は、一体何だ?

 「魔界でも、電波障害ってあったりするのか?

 「いや、それはありえないでしょう。現在の魔界の通信システムは、ほとんど鈴木が開発したものだから、その性能に不備があるとは・・・・・・」

 桑原からの疑問に回答を述べるその途中で、蔵馬はハッと思い当たった。

 「そうか鈴木・・・・・・! おそらく彼が自ら魔界・霊界間の通信を全不通にしたんだ!

 「・・・・・・それはそうと、急に気温が下がったように感じるのは、オレの気のせいか?

 不審そうに飛影が言って初めて、一同は急に肌寒くなってきたのを感じた。躯が速やかに屋内無線を使う。

 「空調設備に、何か問題が起きたのか?

 『いえ、そうではありません。ただいま担当者が点検しておりますが、空調そのものには何も問題は無さそうでして・・・・・・』

 乗組員の一人が、戸惑いがちに答えてくるその語尾に重ねて、蔵馬が「シッ!」と、人差し指を唇に当てた。強制的に下ろされた沈黙の中、外部から声が聞こえてきた。

 重く伸びやかな獣の鳴き声が、一定の間を置いて繰り返されている。徐々に近付いて大きくなるそれは・・・・・狼の遠吠え

 全員が同時に悟った瞬間、一気に室内の気温が氷点下まで急降下した。

 「ななな、何だってんだ今度はーーー?!

 あっというまに歯の根が合わなくなった桑原が、たまらず悲鳴のように叫んだ。その瞬間、猛スピードで疾走していた百足が、いきなり急停止した。その衝撃がガクンと足元から脳天を突き抜け、司令室内の備品が音を立てて次々と落下する。

 『躯様! エンジン部と百足の【足】が完全凍結しました! 全く稼動しません!!

 「うろたえるな! 落ち着いて修復に当れ! それに、犯人の見当はついてる」

 確かに、百足を足止めしてしまうほどの冷気を駆使できるのは、あの呪氷使いだけのはず。しかし、それならさっきから聞こえるこの遠吠えは何だ?

 「外に出てみようぜ。凍矢がいるかもしれねぇ!

 霜の降りた丸窓を強引に叩き割り、そこから幽助達は百足の【背中】にあたる部分に上ってみた。そこから辺りを見回してみるものの、凍矢の姿は見当たらない。ただ、雪国のような凍てつく冷気がもやのように百足を取り囲んでいた。

 「凍矢、いるのか! いるならさっさと」

 ウオォーーーーーーーン

 びりびりと肌まで振動させる遠吠えが響いたかと思ったら、幽助達の眼前、百足と向かい合うように、純白の毛並みをなびかせた巨大な狼が現れた。全長は百足よりやや小さいが、それでも地上にいたなら見上げるほどの巨体なはずだ。地を這うように低く、威厳をたっぷり含んだ声がそこから響く。

 「悪く思うな。呪氷を司りし我が友の要望だ」

 「喋ったーーー?!

 幽助と桑原の声がハモった。対して飛影は、何やら思い出したようにあっと声を上げる。黒龍を封じている右腕が疼くのを感じながら。

 「我が友・・・・・・ということは、まさか、白狼(びゃくろう)!

 「驚いたな、実在してたのか」

 さしもの躯も目を白黒させている。

 「おい、そこだけで納得してんじゃねぇよ! 何なんだあのバカでかい狼は!

 喚きながら指差す幽助に、狼はコバルトブルーの双眸を向けた。

 「我は白狼。魔界の極寒の化身にして、永久凍土を糧に生きる者。友の要望を叶える事こそ、至上の喜び。そのためならばどこへなりとも出向こう」

 「つまり、飛影が右手に宿している黒龍と対極に位置している存在ってことですよ」

 蔵馬が素早く補足した。

 「白狼は黒龍よりも歴史が古いものの、邪王炎殺拳のように拳法の一種として確立さえしていないし、術者自身の妖力を爆発的に高める事もできない。ですが、隙あらば術者さえも食い殺す恐れのある黒龍と違って、白狼は一度契約を交わした術者を『友』と認め、決して裏切る事は無いと言われています。ただ、あまりにも記録が少なすぎて存在の有無自体が疑われていました。・・・・・・ついさっきまでは、ね」

 「ちょっと待て、極寒の化身って言ったな。ってことはつまり、こいつを召還したのはやっぱり凍矢か! 言葉通じるなら話が早いぜ、おいコラ! てめぇの飼い主がどこにいるのかとっとと白状しやがれ!!

 「勘違いするな、闘神の末裔よ。呪氷使い凍矢は飼い主などではない、何万年かぶりに現れた、我が友と呼ぶにふさわしい術者だ」

 「・・・・・・訂正すりゃいいんだろ、わーったよ。てめぇのダチはどこにいるんだ?

「答えられぬ。我が友にとっての不利益になるのでな。ここの付近でないとだけ言っておこう。我は術者とどんなに離れていても、その要望のために動く」

 「ちっとも話が早くねぇ・・・・・・」

 額に青筋を立てる幽助の後ろで、桑原がうーん、と腕を組んで考え込んだ。

 「えっらそうに話す狼だけどよ、そうとう頭は良さそうだな。誰かさんの黒龍と違って」

 「いや、誰かさんの黒龍も、知能レベルは白狼とそう変わらんはずだぜ。性格の違いだろ。それとも、各々術者に似るのか?

 「・・・・・・二人ともうるさい」

 桑原と躯を睨みつけながら、さりげなく剣の柄に手を伸ばしてみせる飛影に、白狼は目線の向きを変えた。

 「友から聞いている。お前が黒龍を宿す邪眼師か。極炎の化身であるあやつは唯一にして最強の宿敵だが、ここで一戦交える気は無い」

 白狼は、あっさり背を向けて歩き出そうとした。慌てたのは幽助だ。

 「ちょ、待て! 逃げんのかよ、オイ!!

 「我が友の要望は、移動要塞百足を足止めすること。お前達と戦えとは言われておらぬ」

 「え・・・・・・?

 「この場での役目は終った。さらばだ」

 それだけ言い残し、白狼は周囲に未だ漂う冷気の中へ、溶け込むようにしてその姿を薄れさせ消えてしまった。百足の凍結こそ残っているようだが、それも白狼がいなくなってこれ以上気温が下がらないのであれば、時間を要するだろうけど修復は難しくない。

 「マジで、足止めだけが目的だったのか? 実はまだそこらに潜んでて、隙を見てガブリ! とかなったら、シャレになんねぇぞ」

 「いや、本当にもういないみたいですよ、桑原くん。・・・・・・でも、凍矢は何故わざわざ白狼を召還したんだ? あんなに巨大な召還魔獣を呼んだからには、消費する妖気量もケタ違いのはず」

 「こうなったらもう、直で聞いてみるっきゃねぇな。ぜってー見つけ出す!!

 言うが早いか、幽助は百足を飛び降りた。同感だ、と呟いて飛影も続く。

 「いつもながら、シンプルですね。だけど確かに、他に術は無い」

 苦笑しながら蔵馬も地上に降りる。その後を急いで桑原も追う。

躯は、やっぱりこの顔ぶれにしておいて正解だったと、面白そうに飛影の背中を見送くり、百足内部に戻ろうとした。そんな彼女の耳にも、幽助の携帯電話が着信を鳴らすのがはっきりと聞こえた。

『痩傑だ。たった今黒鵺を発見して、空から追いかけてる。U−7地点から南東へ全力疾走して、彷徨の谷に入ろうとしてるぜ。挟み撃ちにしたいから協力してくれないか。GPSで見る限り、百足からの方が近い』

 

 

彷徨の谷の谷底は、大小問わず歪でくすんだ灰色の石の群れに敷き詰められており、枯れかけの雑草以外にに生き物の気配が感じられなかった。元々は大河が横たわっていたはずなのだが、およそ二千年前にこの辺りを襲った大干ばつ以降、小川ほどの水流さえ見られなくなってしまったらしい。見上げると、細長く切り取られた暗雲が憂鬱そうな顔を覗かせている。

断崖を、ぱらぱらと小石や土くれが滑り落ちる音を背後に聞きながら、幽助達は二手に分かれて大きな岩陰に隠れ、黒鵺の出現を待った。もうすぐ、痩傑がここに追い込んでくるはずなのだ。幽助は、反対側の断崖付近に転がる大岩に、飛影と桑原が潜んでいるのを眺めながら、サイレント状態にした携帯を握り締めた。間も無く合図が来る。

 「幽助」

 静かに潜められた声に呼ばれ振り返ると、意を決したような翠色の目と視線が交わった。

 「一つ頼みがあるんです。黒鵺が現れたら、誰にも手を出させないでください」

 迷いも躊躇も、悲壮感さえもその瞳にはもう無かった。蔵馬は、何らかの結論を導き出したのだ。それは多分、もはや誰にも左右できないほど強固なのだろうけど、幽助は聞かずにいられなかった。

 「オメー、何する気だ?

 力なく掠れた友人の声に、蔵馬はちょっと寂しそうに笑った。

 「オレとしては、幽助達を裏切るつもりはこれっぽっちもありませんよ。でもきっと、今からオレがやろうとしてることは所詮、エゴにすぎないんでしょうね。許せないと思ったら、怒ってもいい。ただ、少しの間だけ待っててください」

 これ以上はもう、自分がどんな言葉をかけた所で、何の意味も持たないのだろう。幽助は悟った。やはり、蔵馬は答えを出した。彼は既に腹を括っているのだ。その答えに対して自分がどう出るかは、その瞬間に決めるしかない。

 それを自覚した時、幽助の中でも何かが決まった。

 蔵馬。オメーはオメーの好きなようにすればいい。ただし、その権利はオレにもある。

 ふいに、幽助の手の平で携帯が震えた。二回分のコールで切れたそれが、痩傑からの合図だった。ポケットに突っ込み、飛影の足元に小石を放る事でそれを知らせた。

 谷の奥。かつて水の流れがあった頃は上流だった方から、黒づくめの人影が走ってくるのが見えた。旧雷禅国に現れた時の、あのローブ姿。今日はさらに念を入れているのか、フードを被るだけに飽き足らず、顔の下半分にこれまた黒い布を覆面のように巻いている。しかも、もうすぐ完治する飛影の邪眼を警戒してか、やはり妖気遮断結界を張り続けているようだった。

 そしてついに、賽が投げられる。

 「止まれ! 黒鵺!!

 幽助の怒号と共に、他の三人も行く手を遮るように一斉に飛び出した。弾かれたように黒鵺は立ち止まる。表情はさらにというか全然読めないが、驚愕を浮かべているだろう事が容易に知れた。その時、上空を飛んでいた痩傑が、黒鵺の背後に舞い降りた。

 「さすがは稀代の名盗賊様だな。すばしっこいったらありゃしねぇ」

 手の関節をゴキゴキ鳴らして、臨戦態勢を取る痩傑だったが、その出鼻をくじくように蔵馬が前に進み出た。

 「いったん、全員下がってください。なおかつ、絶対に彼を攻撃しないように」

 「蔵馬?!

 霊剣を出そうとしていた桑原が、裏返った声で叫ぶ。しかし、幽助に目で制されて、仕方なく引き下がった。飛影は、黙っているものの剣の柄には手をかけている。

 蔵馬は、もう二、三歩前へ出た。黒鵺は目と鼻の先だ。あのフードの下で、覆面の下で、彼はどんな顔をしてこちらを見ているのだろう。あの優しい微笑みでないことだけは、確かだ。無くさせてしまったのは、他でもない自分自身なのだから。

 なのにこんな状況でも、再会できた喜びが心に湧き出す。不謹慎だな。無言の自嘲が胸を刺す。いっそ、この痛みで死ねたら楽だろうか。

 「久しぶりだな、黒鵺」

 我ながら意外なほど、声も心も落ち着いていた。彼に向かって直接この大切な名前を呼びかけられた事が、本気で嬉しいと思った。

 「オレが分かるだろう? 霊界で情報収集していた段階で、今のオレが人間の姿だと、知っていたはずだ。・・・・・・幻滅したか? あの銀狐が、今じゃ人間の名前や生活も持ってるだなんて」

 黒鵺は、何も答えない。だが、フードを射抜くかのような真っ直ぐな視線を、手に取るように感じることはできた。

 「正直な事を言うと、オレは二度もお前を裏切りたくない。だけどそれと同時に、幽助達を・・・・・・今の仲間達を敵に回す事もできない。どっちへ続く道も、完全に絶たれた。オレはもう、どこにも進めなくなったんだ」

 大統領官邸に呼ばれたあの夜から、出口の無い迷宮を、ずっとさ迷い歩いていた気がする。心も身体もギリギリまで磨耗して、これ以上どこも磨り減らせない程に限界を迎えていた。歩けない。もはや迷う余力さえ無い。

 「だから、黒鵺が決めてくれ。覚えてるか? 初めてオレとお前が出逢った時、お前が自分の命運をオレの判断に託した時のように、今度はオレが託すよ」

 ずるいやり方だとわかってる。そしてこんな二択を提示された場合、お前がどちらを選ぶのかもわかってる。 

 「選べ。蛇那杜栖を返還すると同時に人質も解放し、計画をとりやめるか。それともこのまま続行するのか。もし後者を選択するのならその時は・・・・・・真っ先に、オレの魂を消すといい」

 最後に、もう一度だけ信じさせてくれ。お前ならきっと、計画を投げ出してくれると。凶行をここでやめてくれると。そうしたなら、お前の身柄を霊界にも魔界にも渡さない。どこまででもオレが一緒に逃げてやるから。

 今度こそ、一人ぼっちになんかさせないよ。

 「お、お前正気か?! 何を血迷ってる?!

 漆黒の背中越しに蔵馬を見ていた痩傑が、さすがに狼狽した。桑原はさらに慌てふためいている。

 「冗談じゃねぇぞ! そんな究極の選択、シャレになんねぇっつーの! そいつはともかくオレらがハイそうですかなんて納得できるかよ!! 飛影、浦飯、お前らも何とか言ったら」

 どうだ、と続ける事はできなかった。幽助は、背中に右手を回し、人差し指を立て、そこへみるみるうちに妖力を集中させているのだった。となりで、飛影が一人ごちた。

 「フン。黒龍波さえ打てたら、先を越されない自信があったんだがな」

 闘志と敵意に燃え上がる幽助の瞳を見て、痩傑も口をつぐんだ。あの目は、かつて全盛を誇っていた頃の懐かしい友のそれと、同じ輝きだった。血は争えない。

 ――オレも、オレの好きにさせてもらう。

 心の中で暴れまわる激情の手綱を握りつつ、幽助はその瞬間を待った。

 もしも黒鵺が、蛇那杜栖を蔵馬に向かって振りかざしたら、全力で特大の霊丸をお見舞いしてやる。その結果、蔵馬に憎まれたって構うもんか。

 さぁ、選べるものなら選んでみろ!

 終止符が打たれる直前の、空白のような静寂が広がる中、黒鵺は沈黙を守ったまま微動だにしない。フードさえ取らない。だが、ローブの下の肩が、僅かに震え始めた。

 ついに、回答するつもりなのか。幽助は、無意識に足元に力をこめて踏ん張った。

 すると、顔下半分を隠す覆面の下、くぐもった声が一瞬漏れ聞こえた。

 「・・・・・・ちぃ」

 うめくようなそれは、何と言っているのか全く分からない。聴覚の鋭い蔵馬でさえ判別しがたいくらいだ。すると、次の瞬間。

 「あちぃ!! 暑すぎ!!! 暑っ苦しーーー!!!!

 絶叫がほとばしり、覆面が、ローブが次々と引き剥がすように脱ぎ捨てられた。

 そうしたら何と、あっという間に取り外されたその下から、蔵馬とは色合いの違う赤い髪と、魔界には不似合いな爽快感あふれる風が舞い上がったではないか。

 「はぁ〜〜〜、もう限界だべ〜〜。サウナみてぇだな、このローブ」

 汗だくで辟易した風使いが、そこにいた。

 「・・・・・・おい、陣」

 「あ、幽助。悪ぃ、ちーっとタンマな。ちょっくら涼ましてけろ」

 「おい!

 「いや〜まいったべ。あとちょっとでオラ、脱水症状さなっちまうトコだっただよ」

 「っせぇーーー!! 黒鵺より先にてめぇに霊丸ぶちこむぞ、コラァ!!!

 「わわわ、それは勘弁してけろ! タンマっつったべや!!

 黒鵺だと思っていたのが陣で、間髪いれずに喧騒が始まって、さすがの蔵馬もあ然呆然と立ち尽くしていたが、何とか気を取り直して脱ぎ捨てられているローブを手に取った。

 「・・・・・・このローブ自体に、妖気を遮断する効力があるみたいだ」

 「つまりあの時、黒鵺はすでに移動式結界など張っていなかった、ということか。あれはこの替え玉作戦のための伏線だったんだな」

 「ふ、伏線だぁ?

 意味の分からない桑原が、飛影と陣を交互に見ながらさらに混乱した。

 「だからよ、黒鵺が旧雷禅国さ現れた時に、皆そのローブがインパクト強かったベ? 顔まで隠れる全身黒尽くめイコール黒鵺って図式が頭ん中残ったべさ」

 未だいきり立つ幽助をなだめつつ、陣は説明した。

 「したら、次に同じローブ着た奴さ出て来た時にも、当然そいつが黒鵺だって思い込むべ。例え、顔が見えなくてもよ。いんや〜それにしても、こんなに上手くいくとは思わな・・・・・・いってぇ!!

 幽助に気を取られていた隙をつかれ、陣は脳天に痩傑のげんこつをくらった。

 「腕を上げたことも、このオレまで騙した事も褒めてやる。だがな、納得いくようにこの状況を説明しろ、今すぐ! 何だって三界指名手配犯なんぞに協力してるんだ!!

 「そうだそうだ! 不知火の勝手な思い込みだと思ってたのによ! しかも冷静に思い返してみれば、オメーら六人、そろいも揃って一昨日からあいつとグルだったって事になるじゃねぇか!!

 「だから、その霊丸は勘弁してけろ! それに、オラ達だけじゃねぇべ。他にもあと三人、あわせて九人が黒鵺と組んでただ」

 「何だ、そうかよ・・・・・・って、余計大問題じゃねぇか!! その三人ってのは、誰と誰と誰だーー!!!

 「ノリツッコミしてる場合じゃねぇだろ、浦飯ぃーーー!!

 状況がさらに混迷を極めていく中、幽助のポケットで携帯電話が震えた。思いがけないタイミングでの着信に気をそがれ、幽助は舌打ち一つ零した。

 「ったく、何なんだよこんな時に! ・・・・・・どこのどいつか知らねぇが、取り込み中だ。後にしてくれ!

 もしもし、さえ言わないままぶっきらぼうに通話を切ろうとした幽助の耳に、聞こえてくるはずの無い声が滑り込んできた。

 『幽助、切らないどくれ! あたしだよ、あたし!!

 その声の主の名前を、幽助はすぐには呼べなかった。ありえない。彼女が電話をかけてくるなんて、ありえないはずなのに。

 「―――ぼたん!!?

 『そう、ぼたんちゃんよ。心配かけちゃってごめんね』

 聞き間違えるなんて、もっとありえない。だが確かに電波の向こうにいるのは、黒鵺によって人質に取られているはずのぼたんである。

 「ぼたんだって? 彼女が、何故?!

 蔵馬はもちろん、一同が驚いて幽助に注目していた。陣だけは平然としているが。

 「オメー、今どっからかけてんだよ? っつーかひなげしは? 二人とも無事か?!

 『あったりまえじゃないか。見せてやれないのが残念なくらい、ピンピンしてるさね。話せば長くなっちまうんだけど、あたしら実は・・・・・・あ、ちょっと!

 『もしもし幽助? あたしよ、ひなげし! 覚えてる?

 おそらくぼたんから電話をひったくったのだろう。勢い込んだひなげしの声がした。

 「おう、久しぶりだな。オメーはどうだ? 怪我とかしてねぇか?

 『無いよ、大丈夫。それより聞いて! 黒鵺さんは、何も悪くないの。彼はあたし達を誘拐なんてしてない!

 あやうく落としそうになった携帯電話を持ち直し、幽助はホワイトアウトしかけた意識を必死に繋ぎとめようと試みた。

 何だって? ひなげしは今、何て言った?

 疑問符が渦を巻くのに連動するかのように、ここ数日の記憶がフラッシュバックした。

 まず思い出したのは、生中継された言玉の映像。後ろ手に縛られ、背中合わせに座らされていたぼたんとひなげし。

 背中合わせ。

 そうだ。二人の手元は見えていなかった。それぞれ背後に回しているから、縛られているのだと思い込んでしまったのだ。拘束された手自体は、映されていなかったではないか。

 その事実に気がついたと同時に、ひなげしの悲痛な叫びが耳元で破裂する。

『むしろ逆よ、黒鵺さんはあたし達を助けてくれた恩人なの! 諸悪の根源は、不知火の方なのよ!!

今度こそ、幽助は携帯電話を持っていられなくなった。力の抜けた手から滑り落ちたそれが、地上に叩きつけられた時の硬質な音も、蔵馬が自分の名を呼んでいるらしい、不安を滲ませた声も、もはや何も聞こえなかった。

 

 

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