それはまるで、懐かしい歌のように響く。

街中で、あるいはよく行く店の中で、有線放送か何かに乗って、昔好んで聴いていた曲が突然流れてきた時に似ている。それまで流れていた他の曲は何とはなしに聞き逃していたのに、その曲だけがくっきりと鮮明な輪郭を持つ、あの感覚。音量は上げられていないにもかかわらず、その旋律がひときわ大きく深く自分の中に沁み渡っていくような。

そんな風に予告はもちろん法則やきっかけ、予感めいたものさえなく、文字通り降って沸くような記憶だった。

思い出すときはいつも懐かしく、切なく、でもどこか責められているような後ろめたさを覚える。自らの手で消してしまった「彼女の分の記憶」までも、忘れず背負っていけとでも言うように。

 

 

「へい、らっしゃい! ・・・・・・と、蔵馬か。残業お疲れ、ここんとこ、ずっとこの時間帯だな」

人気の屋台にしては珍しく、今は蔵馬以外に来客がなかったため、幽助は気楽に彼の本名を呼んだ。蔵馬は脇に鞄を置きながら座り、ネクタイを緩めて塩ラーメンの半熟卵つきを注文してから、大きく肩を上下させる。

「今、ちょうど繁忙期ですからね。幸い、明日からの土日は休日出勤に駆り出される事は無さそうだけど」

「魔界まで、羽伸ばしにいってみたらどうだ? オレも明日、躯に手合わせ誘われててよ。あいつにとっても大統領職はやっぱ忙しいみたいでさ、そろそろ息抜きしてぇって」

 「幽助が誘われたんですか? てっきり、そういう時お声がかかるのは飛影の方かと思ってたのに」

 「あいつの班、明日はちょっとデカイ山があるらしいぜ。ナントカってテロリスト組織のアジトを潰しにかかるんだってよ。まぁ飛影なら問題なくこなしちまうだろうが、ちょっと遠征になるんだと」

「77戦士もハードワークらしいからね。ただ、皆水を得た魚みたいになってるけど」

「そりゃー喧嘩して金貰えるなんて、連中にとっちゃ一番美味しい商売だろ! オレ、免除されない方が良かったなぁ」

とはいえやっぱり、今更店はたためねぇしなぁ、と幽助は苦笑した。

「店っていえば昨日、急に臨時休業してましたね。幻海師範の所に行ってたみたいだけど、師範に何か?

「ばーさんは相変わらずだったぜ。ちょっと・・・・・・次元のひずみ絡みで用ができてさ」

「次元のひずみ?

人間界と魔界を結ぶというそれが、何かトラブルの要因にでもなったのだろうか。幽助の口ぶりからすると、さほど深刻な問題では無さそうで、深く追求するほどの話題かどうか蔵馬はふと逡巡した。そんな会話の隙間に、明るい女性の声が滑り込んでくる。

「こんばんはー」

「おう、らっしゃい! 一見さんだね。おねーさんも残業帰り?

「いいえ、まだ学生です。サークル帰り。お隣り、失礼しますね」

「あ、はい、どうぞ」

何気なく顔を上げたその先。時間が巻き戻る感覚に襲われた。決して遠くは無い、だけど永遠に手が届かなくなってしまった想い出の象徴となった少女の面影が、目の前に存在している。そういえば、聞き覚えのある声だったではないか。弾むような、歌うような。

まさか・・・・・・まさか、こんな所で。

「・・・・・・・・・・・・南野くん?

記憶の中の映像より、数年分大人びて髪も伸びた彼女が、グロスを塗った唇で呆然と呟いた。それに連動するかのように、蔵馬の唇も動いてその名前を綴る。

「喜多嶋・・・・・・!

中学を卒業以来、一度も口にすることのなかった名前なのに、驚くほどすんなりと紡がれた。

「え、嘘、本当に南野くん?! うわーすごい久しぶり! 卒業以来だから・・・・・・六年ぶりよね? 懐かしー!! あれ、そのカッコ・・・・・・もしかしてもうお勤めしてるの? 意外ー、てっきりどこか一流大学に行ったんだと思ってたのに」

賑やかに、畳み掛けるように喋る所は、相変わらずのようだ。いやむしろ彼女も、「南野秀一」と再会したことによって、中学校時代の自分に巻き戻ってしまったのだろう。

「おい、くら・・・・・・南野、このおねーさん知り合いなのかよ?

「あ? あぁ、中学時代の同級生なんだ。驚いたよ、まさかこの店で昔のクラスメートに再会するなんて」

そう。昔のクラスメート。それだけだ。彼女にとっても、自分にとっても。麻弥が知っているのは、「南野秀一」だけ。

「私もビックリよ! 今日初めて、ふらっと立ち寄ってみたラーメン屋さんに、まさか南野君がいるだなんて思いもしなかったわ」

バッグを膝に置いて座った麻弥は、味噌ラーメンを注文して屈託無く笑った。両耳には、水晶をあしらったピアスをつけている。当時のあどけなさはまだ弱冠残っているもの、すっかり大人の女性へと成長したようだ。

「それにしても、あの盟王高校にトップ合格してた南野くんが、いち早く社会人とはね。でも、キミが勤めてるからにはその会社の安泰はもう決まったも同然でしょ」

「ちなみに次期社長ですぜ、お嬢さん。あと五年後には会社の業績を今の十倍にして、国内支社だけにとどまらず海外支社も設立するのが目標だとか。特に注目してるのは東南アジアだって」

「・・・・・・幽助、嘘を教えないように」

「でも、最初の次期社長のくだりは本当だろ。親父さんの会社なわけだし」

「親父さん? でも確か、南野くんのおうちって・・・・・・」

麻弥が首をかしげた。一瞬で巻き戻ったと思った時間の流れに、やはりタイムラグがあったことを思い出し、蔵馬は速やかに補足する。

「母さんが、再婚したんだ。オレの名字は便宜上、南野姓のままだけど。今の父さんがそもそも、母さんのパート先の社長でさ。それでオレも手伝ってるってわけ」

「そうだったの、おめでとう! 良かったじゃない。しっかし六年もたつと、やっぱりそれぞれ色々な状況の変化があったりするのね」

出てきた味噌ラーメンのスープをすすりながら、麻弥はしみじみと噛み締めるように言った。

「喜多嶋の方はどうなの? 学生って言ってたけど、大学?

「うん、宝来大の英文学科。実はね・・・・・・今月末から、ロンドンへ語学留学が決まってるの。卒業まで、向こうにいる事になるわ」

「ロンドンに?

「うっわ、すげーじゃん! おねーさんも頭いいね〜」

魔界には何度も足を運んでいるのに、外国には一度も行った事が無い蔵馬と幽助は素直に驚いた。同じ次元の世界の一国なのに、なぜか魔界よりも遠い場所に感じてしまう。

「メインは語学なんだけど、実はロンドンのミステリースポットを巡ったりだとか、アイルランドまで足伸ばしてケルト神話について調べるのも楽しみなの。特にロンドンは切り裂きジャックと、スゥイーニー・トッドの街だしね!

「そういえば、もともとオカルトマニアだったっけ。妙な所が変わってないんだな」

「ふふ、今でも霊感あるから、向こうで何か見ちゃうかも。あ、でもやっぱり日本語は通じないかな?

「心霊体験するかどうかはともかく、外国で暮らすってだけでも貴重な人生経験になるだろうから、充実したものになるといいね。喜多嶋こそおめでとうというか・・・・・・気をつけて」

「うん、頑張ってくる」

微笑む麻弥をそれとなく観察してみると、八つ手の一件以来、さほど霊力は強まってはいないようだ。それでいい、と蔵馬は密かに胸を撫で下ろした。もともと、麻弥の霊力が戦闘向きのもので無い事は、中学時代の時に気付いていた。

彼女はどちらかというと、感知能力に優れているタイプなのだ。そういう人間の場合、なまじ霊力が強まると食人種の妖怪に獲物として狙われやすくなる。八つ手のように、霊力の強い人間を食することによって、自らの妖力に加算する種の妖怪は少なくない。

現在、魔界とは紳士協定が結ばれているとはいえ、大人しくそれに従わない者、例えばテロリストのような輩が存在する以上、危険から遠ざかるに越したことは無いのだ。

「今日、ここオレが奢るよ。せめてもの餞別代り」

「え、いいの? ありがとう、南野くんやっさしー!

「そんなら、何か追加注文したら? 替え玉でもサイドメニューでも、何でも出すぜ」

「・・・・・・幽助、キミが便乗しないように」

他愛ないやり取り。それを見て、麻弥がまた笑う。あの頃もよく、彼女は笑いかけてくれていた。それは他の友人達と話してるときにも見られたけれど、自分に向けられる笑顔の場合、その裏側に特別な意味合いが隠されている事に、わざと気付かない振りをしていた。

八つ手の一件で、麻弥の記憶――蔵馬の能力や飛影との遭遇など――を夢幻花で消去して以来、その「意味合い」も消えてしまったのだけれど。

未練はない。むしろ、卒業するまで不安だった。

自惚れかも知れないが、また記憶を消される前の笑顔に戻ってしまったら? ・・・・・・と。

多少の霊力を持つ人間でも、複数回夢幻花を使用すると副作用が出てしまうのだが、不安の出所はそこだけじゃなかった。彼女の無邪気な恋心を、二度も全否定するような真似は、したくなかったからだ。

 

 

 幽助のラーメン店を後にして、蔵馬は麻弥を最寄り駅まで送っていくことにした。偶然にも、蔵馬が通勤に使う駅と同じだったためもある。

 「もしかしたら、駅構内とかですれちがってたかもね」

 街灯に照らされた歩道を歩きながら、今まで気付けなかったなんて、もったいないなぁと、麻弥は蔵馬を見上げた。

 「南野くん、同窓会にも成人式にも来なかったんだもの。クラスの女子が皆、残念がってたよ。この機会でもなけりゃ、一生逢えないかもしれないって。私、抜け駆けしちゃったかな」

 「たまたま、都合が合わなくてね」

 嘘だった。本当は、麻弥と顔を合わせづらかっただけだ。ずっと想い出の底で燻っている苦い罪悪感を、呼び覚まされたくなかったから。

 「・・・・・・ねぇ、いきなりこんな事聞いて悪いんだけどさ。南野くん今、彼女っているの?

 「いないよ。急に何?

 「や、いるんだとしたら、こんな二人っきりで歩いたりして、彼女さんに悪いなと思って。それに、中学時代もモテたのに全然浮いた噂無かったから、今はどうなんだろうって」

 「モテた? 私服校にわざわざ制服着ていくような変わり者を、好きになる子なんていなかったと思うけど」

 平気な顔で、また嘘をついた。少なくとも一人、目の当たりにしていたのに。

 「もー! 頭いいのにそーいう所は無頓着なんだから! 私と話してる時もそんな感じというか、そっけなかったりしたよね。南野くんリアリストだから、私のオカルトトークをいつも軽くあしらってたもの」

 「喜多嶋も結構その辺は変わり者だね」

 懐かしい記憶が、瞼の裏で明滅するのを感じながら蔵馬は苦笑した。

 「オレがリアリストだと承知の上で、懲りずに話しかけてくるんだから。今振り返ってみても、よくめげなかったよ。かえって褒めたいくらいだ」

 「だって・・・・・・南野くん、何だかんだ言って最後までちゃんと聞いてくれたじゃない。嫌な顔もしなかったし、追い払ったりもしなかった。私がずーっと喋ってるのを、いつも聞いてくれてたわ」

 それは、ただ聞いていたかっただけだ。麻弥の声を。見ていたかっただけだ。麻弥の表情を。未知の世界への憧れに、キラキラしていた双眸を。

 「私、南野くんのそういう所、ちょっと嬉しかったのよ」

 でも、と麻弥はふと残念そうに眉を寄せた。

 「三年の途中から、あまり話さなくなっちゃってたね、私達。どういうわけだか、自然と」

 ぎくり、と蔵馬の心臓がきしんだ。それは正に、麻弥が八つ手に拉致された、あの一件以来の事だからだ。麻弥の中にあった、「南野秀一」への好意を記憶ごと消し去ったせいだ。

 「それこそもったいなかったなぁ。きっとまだ、話したい事あったはずなのに。ううん、それだけじゃない。私が一方的に喋るんじゃなく、南野くんの話も、もっと聞いてあげるべきだったのにね。ただでさえキミ、自分の事は話したがらないんだもの。どんな事抱えてるのかとか、少しは知りたかったな」

 「・・・・・・聞いても、つまらないよ」

 「聞いてみなきゃ、わかんないじゃない」麻弥が、また微笑んだ「意外と、私のツボに合ってたかもよ」

 すべて洗いざらいぶちまけて、それでも彼女はそんな風に笑ってくれるのだろうか。目の前にいる「南野秀一」が、自分の心に勝手に立ち入って恋の記憶まで消してしまった妖怪とわかっても。

 キミは、こんな自己中な男を許せるのかい?

 当たり障りの無い世間話や思い出話をしている内に、いつの間にか駅が目の前に迫っていた。乗る電車の路線は逆だったが、蔵馬は麻弥を、ホームまで送っていくことにした。

 「ごめんね、わざわざ。時間大丈夫?

 「まだ余裕あるよ。・・・・・・せっかくだし、同窓会と成人式欠席の分、少しは清算しないと」

 「私にだけじゃ、意味無いよー」

 麻弥だけだから、いいのだ。

 真横に吹き抜ける風を追いかけるように、電車が滑り込んでくる。列の最後尾にいた麻弥は、乗車した後もドア付近で立ち止まり、蔵馬を振り返った。

 「今日、ラーメンありがとうね。すごーく美味しかった。あの男の子がお友達なら、よろしく言っておいて」

 「幽助の事? わかった、伝えとく」

 「それから・・・・・・」

 ふと、麻弥は言い澱んだ。それは言いにくい事を言おうとしているというよりむしろ、言葉を発するタイミングを計っているかのようだった。緊張のためか、固唾を呑む気配がする。

 「喜多嶋?

 どうかしたのか問おうとしたとき、無機質なアナウンスが流れる。その瞬間、麻弥は弾かれたように顔を上げる。そこに浮かべた微笑は、明らかに何か、意を決している。アナウンスの直後、麻弥は先ほどの緊張が嘘のように、滑らかに言葉を紡いだ。

 「あの時、助けてくれた事もありがとう」

 ドアが、空気を吐いて閉まりかける。急き立てられるように、麻弥は続けた。

 

「バイバイ、蔵馬くん!

 

 次の瞬間、無機質な金属のドアでお互いが隔てられた。それと同時に麻弥はうつむいてきびすを返し、そんな彼女の姿を蔵馬の視界から奪い去るように、電車は徐々に加速しながらホームを駆け出していった。

 その間蔵馬は、微動だにできなかった。麻弥を乗せた車両が存在していた、今は空っぽな空間から目をそらす事さえなく、茫然と立ち尽くしていた。

 途方にくれた背中はそれでも、馴染み深い気配が申し訳無さそうに近付いてくるのを察知していた。

 「・・・・・・今夜も、臨時休業かい?

 振り返ると、バツが悪そうに目を泳がせる幽助がそこにいた。

 「キミも喜多嶋も、意外と役者だね。本当は、最初から結託してたんだろう?

 「・・・・・・悪ィ、ちゃんと全部説明すっから」

 

 

 幽助がラーメン屋の副業として営む「何でも屋」に、口コミを頼りに麻弥が訪れたのは三日前の事だった。

 一ヶ月ほど前から、自宅周辺に「不気味な空気」が漂うようになり、霊感のある自分以外は家族さえ気付かない。しかも、その空気を感知するようになってから、急に自分の霊力も強くなってきたらしい、と。

 「まず最初に、カルトが設定じゃなく本物の妖怪だって事が、わかっちゃったんです。それと・・・・・・会った瞬間、あなたが人間じゃない事も」

 初対面であっさり見破られ、彼女ほどの霊力の持ち主には嘘や誤魔化しが通じそうに無いと判断した幽助は、こちらもあっさりと自分が魔族の子孫である事を明かした。依頼内容は、不気味な空気の正体を突き止めることとその排除。そして、強くなりすぎてもてあまし気味になってきた霊力の制御方法を教えて欲しいという事だった。

 留学を控えていた事もあり、急を要していたのである。

 麻弥本人の案内で喜多嶋家を調査しに行った幽助だったが、原因はすぐに判明した。喜多嶋家の庭の片隅、植え込みの奥に偶然、次元のひずみが生じていたのだ。魔界と繋がっているそこから、人体に害が出ない程度の微量とはいえ確実に滲み出していた瘴気こそが、不気味な空気とやらの正体。

 幽助に次元のひずみについて説明を受けた麻弥は、目を輝かせて「魔界へ行ってみたい!」と希望したが、それを思い止まらせる事の方が、幽助にとってはひずみを閉ざすよりずっと困難だった。

 残る霊力制御については、その道のプロに頼った方がいいと判断し、幻海の寺まで案内する事になった。悠長に修行などしている余裕は無いが、他にもいい方法を彼女なら知っているだろうと考えて。

 道中、麻弥にせがまれるがまま幽助は魔界の事や仲間達の事を話していた。麻弥が魔界行きを断念する事と引き換えの代償だったからだ。麻弥は口外しないと約束したし、もし彼女が誰かにこの事を話した所で、信用を得るのは難しいはず。

 「カルト以外の妖怪さん達も、見てみたいなぁ。写真とか、もしあったら見せてもらえます?

 もともと細かいことを気にしなさ過ぎる性分の幽助だ。すんなり快諾し、寺に着いて客間に通されてから、先日幻海に送った、癌陀羅で催されたトーナメント記念祭での写真を借りて渡したのである。その中の一枚。北神に撮らせた、蔵馬達と撮影した写真を見た時、麻弥の顔色が一変した。

 「おい、どした? どっかおかしいかその写真? まさか魔界で心霊写真なんざ、撮れるわけねぇと思うんだけど」

 「この、人・・・・・・」

 小刻みに震える指で麻弥が指し示したのは、紅い髪と翡翠の瞳の青年。

 「ん? あぁ、そいつ蔵馬ってんだ。さっき、オレ以外にも人間として人間界で暮らしてる仲間がいるっつっただろ。それがその蔵馬」

 「蔵馬・・・・・・妖怪・・・・・・?

 呟いた瞬間、麻弥の脳裏で何かが急激に渦を巻いて収縮し、鮮烈な光を放って爆発した。その光の向こうから、声が聞こえる。

 

 『名前を聞いていなかったな。覚えておいてやる』

 『・・・・・・蔵馬だ』

 

 それは、とろけるような睡魔の狭間で、かすかに鼓膜を振るわせた会話。眠りに落ちる寸前、最後に聞こえたもの。聞こえた瞬間記憶から消え去ったその声が、まるでついさっきの事のように麻弥の心に響いた。そしてそれを合図にしたかの如く、抜け落ちていたはずの記憶全て、泉が湧くように甦ってきたのである。

 「あああああああ!!

 記憶の逆流に比例して、凄まじい頭痛に襲われた麻弥は、思わず写真を取り落とし悲鳴を上げた。

 「な! おい、マジでどうしたんだよ、お客さん!

 「幽助、あんたはちっとどいてな」

 冷静さを崩さない幻海が、叫び続ける麻弥を押さえ頭部に触れ、心霊医療の術を用いて痛みを抑え精神を鎮めてやった。頭痛が治まっても、力なく泣きじゃくる麻弥は、喉の奥から声を絞り出す。

 「すいません・・・・・・急に。私、その人知ってるんです・・・・・・南野くんを。彼、中学時代のクラスメートだったんです」

 今度は麻弥が、色々と説明する番だった。取り戻した記憶を。生まれて初めて見た妖怪。小柄で髪を逆立てた少年に襲撃された事。南野秀一が、草を剣のようにして応戦していた事。妖怪に操られていたらしい人間に、自分が拉致されていたようだという事。その諸々の記憶を、消されていた事。

 ・・・・・・南野秀一に、恋をしていた事。

 「小柄で髪を逆立てた少年」が飛影の事だと直感した幽助は、すぐさま携帯電話で連絡を取り、麻弥が拉致されたいきさつと解決に至るまでの過程を聞き出し、これで全てが補完された。

 「あんたの霊力は、戦闘には不向きだからね」落ち着いたところでお茶を出し、幻海が言った「徹底して危険から遠ざけるために、記憶を消したのはむしろ賢明だったと思うよ。あんたは並の人間より、タチの悪い妖怪から狙われやすい。霊力が強まることも防ぎたかったんだろう」

 「わかってます・・・・・・私のため、だったんですよね。少なくとも南野くん、私の事嫌ってないからこそ、そこまでして守ってくれたんですものね」

 「いやいや、そんなにまで極端な手段取るって事は、むしろあいつの方も・・・・・・」

 割り込んできた幽助に、麻弥は静かに首を横に振ってみせる。

 「言わないで。私が思い出したからって、結果もこの現状も変わらないよ。・・・・・・私達、縁が無かったんだわ。そういうことにした方が、南野くんの負担にならない。今更彼に、あの頃の事で迷惑かけたくないの」

 「迷惑だなんて、そんな・・・・・・」

 「私が南野君を好きだった記憶まで消えてたのも、彼の判断だったのよ。思い出したから付き合ってなんて、言えっこないわ。それに私・・・・・・」

 そこまで言って、麻弥は一呼吸分の沈黙を置いた。一瞬引き結んだ唇を、凛と姿勢を正してからもう一度開く。

 「恋人が・・・・・・いるの。高校の時から。彼、もともとは友達のお兄さんで、宝来の大学院生でね・・・・・・ロンドンで、私が来るのを待ってるの」

 彼も麻弥も、社会人になる前に留学したいという目標があった。冗談交じりに、「同じ時期に、一緒にロンドン行けたらいいね」と話していたら、偶然と幸運が重なって二人の留学期間を重ねる事に成功したのだ。彼は麻弥よりも半月程早くロンドンへ渡った。麻弥が来る時には空港まで迎えに行くと、約束して。

 初恋の君を思い出したからといって、今の恋人への愛情が冷めたわけではない。彼を裏切ってまで、失った恋を取り戻そうとは考えられなかった。

 「だけど、記憶を消された仕返しくらいは、ちょっとしたいかな。浦飯くん、協力してくれる?

 気丈に、悪戯っぽく笑う麻弥に頼まれては、むげに断れなかった。その後の打ち合わせはすぐに段取りが決まった。会社が繁忙期の蔵馬が、残業帰りに何時ごろ来店するのかわかっていた幽助がその時間を教え、麻弥は屋台から少し離れた場所に待機。蔵馬が来たら携帯電話のコールを三回鳴らすのを、合図に決めていたのである。

 

 

 アナウンスがまた響き、電車が滑り込み、多くの人が流れていく。そんな風景を眺めながら、ホームのベンチに隣りあって蔵馬と幽助は腰を下ろしていた。全て説明し終えた幽助が、肩を大きく上下させて息を吐く。

 「まぁ、ざっとこんな所だ。あとちなみにな、あのコがつけてた水晶のピアス、あれがばーさんから渡された霊力制御の法具なんだよ。本来はちっこくて対になってる水晶玉だけなんだけど、アクセサリーにでもして肌身離さずつけとけって」

 「なるほど・・・・・・喜多嶋の霊力の増幅に気付けなかったのは、そういう事だったのか」

 「ってか、本当にいいのかよ? あんな風に別れたままで。別に結婚してるわけじゃねーんだし、かっさらっちまえば? あのコ、オメーが妖怪だろうと何だろうと気にしねぇと思うぜ。オレ自身、オフクロや螢子の態度が全然変わんねーし」

 「わかってる。・・・・・・だけど恋人の事抜きにしても、オレが喜多嶋にふさわしくないんだ。どんな理由があるにせよ、勝手に彼女の心に細工をした。自分の気持ちさえ偽って」

 「それにしたってさぁ・・・・・・」

 食い下がろうとして、幽助は躊躇した。蔵馬の気持ちも、分からなくはない。自分も最初は、霊界探偵になった事や妖怪と関わった事を、温子や螢子に隠していた。自分から打ち明けられなかった。暗黒武術会へのゲスト参加という不可抗力がなかったら、ずっと言わないままだったかもしれない。彼女らを危険に巻き込みたくないという、蔵馬と全く同じ理由で。

 魔族大覚醒の時は、霊界探偵やその他諸々が既に筒抜けだったから、開き直ることができたのだ。

 それでも麻弥のささやかな仕返し計画に加担する気になったのは、二人の決別を寂しいと思ったからだ。「縁が無かった」と、きっぱり言い切った麻弥の強がりが、哀しかったからだ。この再会をきっかけに、もう一度二人の想いが通じ合うチャンスが生まれるのではないかと、期待したためだった。

 せっかく繋がろうとした縁が途切れてしまうなんて、あまりに寂しすぎる。もしも自分だったらどうだろう。螢子に同じ事を言われて目の前から立ち去られたら、どうするだろうか。彼女との縁が、もしも途絶えてしまったら。

 背景は違えど、幽助も魔族でありながら人間として生きる身。今回の事が他人事と感じられなかった。

 「ともかく、今度は喜多嶋の方から別離を決めた以上、こっちに抗う権利なんて無いよ。かつてオレが記憶を消した時、彼女になす術が無かったように」

 自業自得だとでも言いたげな蔵馬の横顔が、痛々しかった。

「それでも・・・・・・縁を紡いでいくことはできなかったけど、出会えた事は無駄じゃなかった。大切な誰かのために戦って、その対象を助けられたのは、喜多嶋が初めてだったんだ。その経験を与えてくれたことに、心から感謝してる」

黒鵺の時も母・志保利の時も、自分は何もできなかった。喪うのを、傷つけたのを、ただ見ているだけで。自分にも大切な人を守れる力があるんだと、そう思わせてくれたのは他ならぬ麻弥だった。

ふと顔を上げると、麻弥を乗せた電車が去ったホームが、また空っぽになっている。屋根の向こうには、星の少ない夜空。霧深いというロンドンでも、やはり星は見えにくいだろうか。

 

喜多嶋。どうか、元気で。

 

 

伝えたかった。全て思い出したことを。初恋の君が妖怪だからって、恐れてなんかいないことを。そのついでに、ちょっとだけ驚かせてみたかったのだ。

大成功だったじゃない、麻弥。南野くんの、あんなに素で驚いた顔。きっと、誰も見たこと無いはずよ。

してやったりと、何度も何度も自分に言い聞かせる。その努力も空しく、嗚咽はかみ殺せないし涙が止まらない。

お陰で、麻弥の隣に座っていたサラリーマンらしき二人連れが、さっさと逃げるように立ち去ってしまった。

・・・・・・最初に見た妖怪を、あんな露骨に気味悪がらなきゃ良かったのかな。「ショックだわ」なんて、言わなきゃ良かったのかな。私にもっと強い霊力があって、戦えるくらいのレベルだったら、南野くんは私の記憶を消さずに済んだのかな。

記憶が戻って以降、何度も繰り返したきた己への問いかけに、麻弥は改めて首を横に振った。

私が強ければよかったとかって問題じゃない。そんな単純な事じゃないから、南野くんは記憶の消去に踏み切りざるを得なかったんだわ。

第一今の私が、一人の女として愛してるのは、ロンドンにいる恋人の方。初恋の懐かしさや、南野くんを好きだった頃の気持ちに振り回されはしたけど、彼と別れることは想像もできなかった。ロンドン留学への迷いさえ、生じなかった。それが本音。紛れもない真実。

だから、連絡先を教えあう事はもちろん、再会の約束さえしなかった。

・・・・・・ただ、せめて。彼の中で、より鮮明な記憶になりたかった。勝手だけど、喜多嶋麻弥という存在を、もっと強く覚えてもらいたかった。そして今度こそ、自分も彼の事を忘れたくなかった。

 

だって、本当に大好きだったんだよ。

 

バイバイ・・・・・・南野くん。

 

〜完〜

 

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