第五章・不吉な魔法陣

 

 

 人間界で、四強吹雪が敵の牙城を目指し飛び立ってからしばらく後、魔界忍者の隠れ里では、うっすら湯気が立ち上るお椀を載せた盆を持った画魔が、閉じられた襖の前に跪き、中の寝床に横たわっている老人に声をかけていた。

 「先代、失礼いたします。画魔です。時間なので、薬湯をお持ちました」

 「もう、そんな時間か・・・・・・入れ」

 しわがれた声を発したその妖怪は、今でこそ老いと病に臥せってはいるものの、かつては最強の化粧使いにして、現役を退いた後も多くの忍びを鍛え上げた敏腕指導忍・彩露(さいろ)である。戦線に立っていた頃は、才能に恵まれているもののまだ経験の浅かった四強吹雪をフォローし且つ、属性が全く違うにも関わらず彼らの実力をさらに引き出した影の功労者として、今もなお里の忍び達から尊敬されている。もちろん、画魔もその一人だ。

 現在彼は彩露の後任となった新たな指導忍を師匠と仰いでいるが、幼い頃は他ならぬこの彩露に育てられた。実は今も、より敬愛しているのは目の前にいる老人の方なのだ。

 画魔に助けられながら、すっかり痩せ細った上体を起こし、薬湯の入った椀を皺だらけの手で受け取った彩露は、障子が開いて縁側から吹き込む外気にふと顔を上げ、思い出したように呟いた。

 「閃達が人間界に赴いてから、そろそろ半月といった所か」

 「えぇ、こちらとは色々勝手が違うでしょうから、慎重に任務を進めておられると思います」

 「しかも幼子二人抱えてじゃからのう、任務だけに専念するのは難しかろうて」

 「そうですね。だけど、久しぶりの一家団欒でもある事だし、陣と凍矢にとってはもちろん、魅霜さん達にとっても貴重な時間でしょう。あの人達がお戻りになって、オレの免許皆伝の試験がすんだら間もなく戦争参加任務が下って、ほとんどの魔忍が総動員されるはずですから。その前に今回の任務があったのは、正に僥倖でしたよ」

 「僥倖、確かにそうじゃな」

 応えながら、彩露は四強吹雪が人間界に旅立つ前夜に、突然自分の元を訪ねてきた時の事を回想していた。

 

 

 防音効果のある簡易結界を張っていたので、当然それなりに周囲への警戒心は持っていたようだが、準備が済んだ彼らはさすがの彩露も驚くほどあっさりと抜け忍計画を打ち明けてきた。そして彩露にも、里を出るよう勧めたのだ。加えてその場には居合わせていなかったが、画魔にも魔忍を抜けさせるつもりである事も、四人は明かした。

 「彩露殿には、オレ達全員恩がありますから。この里に放って行きたくはないのです」

 涼矢の真摯な眼差しには、彼自身の属性にはそぐわない程の真っ直ぐな熱がこめられていた。

 「雹針の信者どもがオラ達を探して手間取ってる隙を突けば、簡単に抜けられるべさ」閃がことさら明るい口調で、空中座禅のまま言った「彩露のじーちゃん病人だから、人間界まで移動すんのはキツイかもしんねぇけど、画魔が一緒なら大丈夫だべ」

 「免許皆伝のため張り切っているというのに申し訳ないと思いますが、彼の力量と才覚は私達も認めているからこそ、闇に埋もれさせたくはありません」

 生真面目で面倒見のいいあの若い魔忍は、おそらく実力に反してその性格が魔忍には向いていないと、魅霜達は常々思っていた。闇の世界に徹するには、少々優しすぎる。

 「・・・・・・呆れた連中だ」上体を起こした姿勢でわずかに咳き込みながら、彩露は苦笑した「ワシが里長に密告するかもしれんとは、考えんのか。魔界忍者の隠れ里で他の忍びを信頼するなど、命取りだぞ」

 「見くびってもらっちゃ困るベ」

その言葉が本心からのものではないと即座に見破って、飛鳥が声をあげて笑った。

 「彩露さんが密告するような輩じゃねぇって事くらい、ガキの頃から知ってるだよ。伊達に長い付き合いじゃねぇしな」

 「ですから彩露殿」涼矢が正座したまま、ぐっと身を乗り出した「オレ達の計画に、どうかご賛同下さい。貴方と画魔にも闇ではなく、光ある自由な世界へ行ってほしいんです。今回の遠征先でオレ達が拠点とするのは人間と半妖が共存する村なのですが、いずれ計画成功後は貴方達もそこに潜伏すればいい」

 「オラ達は最初の内こそ、追い忍達さ撒いたり戦ったりしなきゃなんねぇけども、それが終ったらそこの村に落ち着こうと思ってるだ。半妖が当たり前に暮らしてるところなら、生粋の妖怪が八人増えたところでどうってこたぁねぇべ」

 ふわり、と真正面に回りこんできた閃が、悪戯っぽく笑った。子供の頃の面影を色濃く残した顔で。

 「画魔はともかく、ワシは無理だ。というかむしろ無駄だ」

 彩露は力なく首を振る。

 「もう自分が長くないのは、承知しておる。こんな老いぼれが今更次元を超えてまで人間界へ行って、何の意味があるというのじゃ。若い者の足手まといになるのが関の山じゃろうて。この里に骨を埋める覚悟は決まっておるわい。お前達と画魔で行け。無事は祈ってやろう」

 「だーーーー!! もう! そんな辛気臭ぇ風さふかさねぇでけろ!!

 たまりかねたように閃が叫び、勢い余って自分の周囲にびゅうっと小さな竜巻を起こしてしまった。

 「あんた!! 結界張ってるからって、病人の前で喚いた上に風起こすってどーいう事だべ!

 「いだだだだだ! わかった、オラが悪かったから!!

 飛鳥に耳を引っ張られたついでに、空中から引き摺り下ろされ平謝りする閃に、彩露は久しぶりに声を立てて笑った。

 「許してやれ、飛鳥。閃のさわがしさにはとっくに慣れた。長い付き合いは伊達じゃないわい」

 飛鳥の言葉をかり、やや間を置いて、彩露は四人を一人一人見回した。

 「・・・・・・行こう、人間界に。今しばらく、画魔には世話をかけてしまうが」

彼にしてみても、この四人の力量と才覚も闇に埋もれさせてくない。忍びではなく、一人の妖怪として。父と母として、自由に幸せに生きていくのをこの目で見たいというのが本音だ。それが限りある短い期間であるというのなら、なおの事。その後は画魔が背負う負担も消えるだろう。

 

 

「画魔、お前も、人間界に行ってみたいと思うか」

 縁側から外の景色を眺める師匠に、唐突にこう聞かれて、画魔はかぁっと赤面し、次の瞬間肝を冷やした。

 特に魅霜の帰りを待ち焦がれている自分を見透かされたのではないかと、危ぶんだのだ。しかしよくよく冷静になって彩露の顔色を伺ってみると、どうやら言葉通りの意味にしか過ぎないらしい。

 「そうですね。魔界だけでも気が遠くなるほど広いのはわかっていますが、やっぱり別次元の世界には興味があります」

 素直に解答した愛弟子に、彩露はそうか、とだけ短く呟いてもう一度横になった。

 

 

 やや時間は前後して、人間界。夜が明けて間もなくの頃。

床を伝わる不連続な振動と、空間を震わせる喧騒。どちらが先に自分達の目を覚まさせたのか、陣も凍矢もわからなかった。お互いの寝ぼけ眼をつきあわせ、意識の覚醒を待っていると、村長はじめこの屋敷の住人ではない者達の怒声がはっきりと輪郭をなしていった。

 「おらおらどけや、貧弱な半妖どもと人間ども!!

 「ここに魔忍のガキが二匹いるんだろ、さっさと引き渡せってんだよ!

 それが自分達の事を指しているのだと同時に気付き、二人は完全に目を覚まして立ち上がった。当時の陣と凍矢にとっては手強い妖力の持ち主達が、恐ろしい勢いで屋敷の中をねり歩き部屋という部屋をぶち破って、彼らを探している気配が手にとるようにわかった。

 「誰だ? しかも、オレ達が魔界忍者の子供だと、何故知っている?

 怯えはしないものの動揺は隠せず、凍矢は自然と身構えた。陣も手首や指の関節を鳴らして、体勢を整える。

 「やたら態度デカそうだけんど、とーちゃんかーちゃん達がいねぇの知ってるんべかな、やっぱ」

 と、その時襖の向こうから村長の切迫した声が聞こえた。

 「帰ってくれ! この村には魔忍どころか、生粋の妖怪すら一人もおらん!

 「シラきってんじゃねぇぞ、じじい!!

 殴りつけたらしい鈍い音に、悲鳴が重なる。陣と凍矢は弾かれたように駆け出して、スパン、と勢い良く襖を開いた。

 「村長!」「村長さん!!

 畳み掛けるように叫んだ二人の眼前に広がった光景は、大きな痣を顔に貼り付けて失神した村長と、武装して立ちふさがっている屈強な男達だった。

 「いたぞ、ガキどもだ。妖気の質からして、生粋の妖怪だ、間違いねぇ!

 凶暴にして獰猛な彼らは、あっというまに陣と凍矢を取り囲む。二人は反射的に背中合わせになって構えた。男達の妖気も、半妖ではなく妖怪のそれだとすぐにわかる。

 「お前ら、一体どこの誰だべ? オラ達に何の用だ?!

 一見して自分達より圧倒的な妖力を持っていると察したが、それでも陣は精一杯睨みを効かせて凄んだ。大丈夫。自分は閃と飛鳥の子。それに、凍矢がいる。そしてその凍矢も、臆することなく冷気を発して威嚇した。

 「オレ達の両親の事、この村に潜伏中である事、どこで知った? 一体何が目的だ!

 部屋を駆け巡る強風はもちろん、それに乗って広がる寒気をも鼻で笑い、男達は余裕しゃくしゃくといった体でニヤニヤと幼子達を見下ろしている。魔界忍者最強と誉れ高い精鋭、四強吹雪の血を引くといえど、所詮は子供は子供だ。

 「威勢だけは立派だな、ガキども。ビビらないだけ褒めてやるぜ」

 リーダー格らしい男が第一声を放った。

 「オレ達は、お前らの両親が喧嘩売ろうとしてる軍団の兵士だ。たった四人とはいえ、あの有名な四強吹雪を相手にするのは荷が重いんでな。念のため、盾を用意しようって事になったんだよ」

 つまり、両親らに対抗するため自分達を人質にするつもりなのだ。しかし、陣と凍矢が驚いたのはそんな事ではなかった。四強吹雪は、隠密として人間界に遠征した。この村でも、村長以外には身分を偽って。なのに、敵方にこれらの情報が筒抜けだったのだ。ありえない。両親の任務に同行したのはこれが初めてだが、こんな事態はありうるはずがない。

 情報漏えいは魔忍にとって即、戦死に繋がりかねない危機だ。すくなくとも、両親達の失態でこの状況が招かれたとは思えない。では、なぜ?

 しかし、疑問を解決する余裕は一切なかった。

 悠然と距離を詰めてくる男達に対し、陣と凍矢は精一杯の抵抗を試みたが、あえなく弾かれ転がされて、瞬く間に拘束されてしまった。

後ろ手に両手を縛られた二人が、したたかに頭部を強打した事によりくらくらする視界を必死に立て直すと、男達の内の一人(おそらく、最も下っ端)が懐から取り出した、畳一畳分の大きさの紙を広げていた。

 そこには、漆黒の太い線で見た事もない魔法陣が描かれている。と、その時、失神していた村長が使用人に助け起こされて意識を取り戻した。

 最初は力なく呻いていたものの、預かっている子供達が、見るからに怪しい男達に捕われ「はーなーせー!!」などとじたばた暴れ喚いている光景に、文字通り飛び上がるほど驚いて叫ぶ。

 「まま、待て!! その子達をどうするつもりじゃ!!?

 「愚問だな」リーダー格がせせら笑う「決まってるだろ、こいつらは人質で、こっちの呪氷使いのガキは氷泪石生産も兼ねてんだよ」

 氷泪石。その単語に、陣と凍矢は同時に息を飲んだ。

 魔界から召還され、涼矢と魅霜の事を知っているこの男達なら、確かにその情報も掴んでいておかしくない。だが当然と分かっているからこそ、氷泪石を求める貪欲さと執着がより彼らの――特に凍矢の――危険を高めるという事実を改めて突きつけられた。

 「じゃあな、半妖のジジィ」

 薄汚い嘲笑を浮かべたリーダーから、魔法陣の中に“飛び込んだ”。

 陣と凍矢はもちろん、村長や使用人らも驚いて目を見張っている。まるで池にでも飛び込んだ時のように、リーダーの男の身体は魔法陣が描かれた紙の中に、するりと何の抵抗もなく吸い込まれて消えてしまったのだ。

 「何だべ、ありゃどーゆーしかけだ?

 「妖術の類に違いないが、全く見当がつか、わっ! やめろ下ろせ! この外道ども!!

 「ちっくしょー! ふざけんでねぇぞ〜!! とーちゃん直伝の修羅旋風拳、くらわせてや」

 陣と凍矢は抵抗空しく荷物のように担ぎ上げられ、乱暴に放り投げいれられた。その姿も、声も、魔法陣に取り込まれた瞬間にあっけなく途切れる。そして他の男達も、次々とその魔法陣の中へ飛び込んでいく。

 全員が飛び込んだ瞬間、紙に描かれていた魔法陣はじわじわ震えだし、かと思ったらその魔法陣を構成していた黒い線は、同じ色の煙に姿を変えて空気中をしばし漂い霧散した。

 あとに残されたのは、まるで最初から何もかかれていなかったかのような“白紙”と、煙が消えた行方から目線を離せず茫然と立ち尽くす村長たち。

 

 

 妖怪軍団の砦から、北西に位置する岩山の洞窟に身を潜めていた四強吹雪の元に、村長に言霊を託された使い魔が辿りついたのは、陣と凍矢が連れ去られておよそ二時間ほど経過した頃だった。

 言霊が映し出した顔の痣の痛々しい村長は、自分の被害にはこれっぽっちも構わず自分が見た全てを正確に説明した上で、陣と凍矢を助けられなかった事を土下座して詫びていた。もちろん、閃達に彼を責める気持ちなど微塵も無い。

 「どーいう事だべ?! 敵の情報収集力をオレらが見くびってたにしても、そこ差し引いたってあの村やチビどもの事まで知られてるなんてよ!

 でこぼこした洞窟の壁に、己の叫びを反響させた閃が乱暴に髪をかきむしった。

 「・・・・・・魔忍の里と違って、不可視や不可侵の結界を張っているわけではない。無防備といえば無防備な村だ。それにここは人間界だからな。妖怪軍団を召還するほどの陰陽師が向こうの藩にも雇われている。軍団だけではなく、その陰陽師達の力もあると見て間違いなかろう」

 眉間にしわを刻み、涼矢が言った。冷静さを装ってはいるものの、その内心には閃達と同じく、憤怒と焦燥が無限に湧き出している。無理もない。最愛の息子達が、人質に取られたのだ。連中が氷泪石を得る為にどんな行動に出るのかなど、考えたくもない。

 「彼らの方が当然、この世界の勝手を熟知しているはずですものね」

 生きた心地のしない魅霜が、ただでさえ色白な肌をさらに蒼白にさせている。

 「それに、村長たちの話にあった、紙に書かれた魔法陣の話も気にかかります。瞬間移動の効力がある事は間違いないでしょうけど、そんな妖術は今まで見た事も聞いた事もありません」

 推測だが、たぶん兵士らと子供達が飛び込んだその魔法陣の先は、今正に自分達が敵情視察しようとしているアジトのはずだ。もしかしたらそこにも同じく紙に描かれた魔法陣が広げられていて、二つの魔法陣が離れた場所を繋いでいるのかもしれない。

 里に保管されている古文書など、分厚く難解な書物を好んで読破している魅霜が言うのなら、少なくとも過去に開発された技術ではないのだろう。最近うまれたのか、それとも。

 「人間界で使われてる方術なんだべか? そんで、それを軍団に提供したって事け? だとすると、こっちの陰陽師って一体どんだけの力持ってんだべ」

 人間界という世界がそうであるように、閃達にとって人間とは未知なる存在。妖怪と比べて遥かに寿命も短く力も弱いとされる彼ら彼女らが、魔界にも存在しない技術を駆使しているとはにわかに考えにくかった。

 しかしだからといって、霊界の術だとも思えない。そうだとしたら、妖怪側にこの技術が漏洩するはずないからだ。

 「どっちみち、その瞬間移動の術は厄介なんてもんじゃないべさ。戦に使われでもしたら、こっちの雇い主の方もたまったもんじゃないべ。それにオラ達にはもう、敵状視察さえやってる余裕もねぇだし、下準備もねぇまま侵入するってのは不利だべな。ま、向こうはそれ狙うためにも、子供達さらったんだろうけんど」

 いい度胸だべ。母として、魔忍として、飛鳥が低く呟いた。

 妖怪軍団は、陣と凍矢の命を盾にすることで四強吹雪の戦力や戦意を殺ぎ、勝利しようという算段なのだろう。それがどんなに危険で愚かなやり方かもわからずに。

 閃と飛鳥にとっても、涼矢と魅霜にとっても、それぞれの息子達はとうぜんかけがえのない存在。どんな富も名声も遠く及ばぬ最愛の宝。だからこそ、二人に危害を加えようとする外敵に対しては、死神以上の死神になれる。

 誰からともなく洞窟を出た。

 頭上に広がるのは抜けるような紺碧の空だが、彼らが踏みしめる大地は殺風景な灰色。色彩感覚が狂ってしまいそうだ。これが魔界の空の色だったなら、こんな奇妙な違和感は覚えなかっただろう。

 「ぶっつけ本番で潜入だな」閃が真っ先に風を集め始めた「まずは、チビどもをさがさねぇと」

 

 

 陰気で湿っぽい地下の独房に、まず陣が一人で閉じ込められた。わけも分からぬまま見知らぬ場所へつれてこられ、かと思ったら突然荷物のように放り投げられて、彼は風を使う余裕もなく岩肌むき出しの床に転がった。

 「いってー!!

 昨日こさえたたんコブが治りきらぬ所に、激痛が重なって陣はたまらず頭を抱えて悲鳴を上げた。しかし、ろうそく一本分の照明しかないこの狭苦しい独房に、男達が自分だけを閉じ込めて去ってしまったのに驚いて、弾かれたように立ち上がる。

 「おい、ちょっと待つだ! 凍矢をどこさ連れてく気だべ?!

 独房の扉は厚く頑丈な金属製で、鍵をかけられては当然びくともしない。その上外部の音を一切合切遮断してしまうために、どんなに神経を研ぎ澄ましても、何も聞こえてこない。おそらく自分の叫び声も、全く届いてはいないだろう。

 しばらく喚きながらめちゃくちゃに扉を拳で叩き続けていたが、その拳に血が滲み始め、喉も枯れ、とうとう陣はへたりこんでしまった。

 「ど、どうすんべ・・・・・・このままじゃ凍矢が・・・・・・」

 子供心に、陣にも氷泪石が至高の宝石だと分かっている。その宝石を狙う輩が、どんなに貪欲で残忍かも噂にだが聞かされていた。凍矢の涙も氷泪石になると知っているあの連中が、自分と凍矢を引き離し彼だけを別の場所に連れて行った目的など、容易に見当がつく。

 儚げに揺れるろうそくの火が、陣の不安と恐怖をいっそう煽った。耳鳴りがうるさいくらいの静寂に襲われて、急に心細くなる。

 そういえば男達は、陣と凍矢を人質と言っていた。つまりもうすぐ、妖怪軍団と戦うためにここには両親達がくるはずだ

 助けが来るのを、待っていたほうがいいのだろうか。だけど自分達が人質としてつかまっているこの状況では、いくら両親達でも分が悪いかもしれない。もし・・・・・・もしも、間に合わなかったら、どうしよう。

 己の無力さを思い知らされながら、陣は痣と擦り傷だらけの手を見つめた。独房の扉一つさえ吹き飛ばせない子供に、何ができるというのか。凍矢を救出に向かうどころか、ここから出ることも叶わない。無力だ。わかってる。

 だけど

 陣は、零れそうになった涙を天井を仰ぐことでのみこみ、次に左右にぶんぶん振って、涙の気配と心に救う不安を同時に追いやった。立ち上がって、冷たい床を踏みしめる。

 「負けてたまるか。オラは風使い閃と、飛鳥の子だ!!

 強くなりたい。今までで一番強く切実に、心の底から願った。今すぐ力が欲しい。この状況を打破する力が。たった一人の親友を助けに向かうための力が。

 独房の中の空気が蠢き、それは確かな風となってうねり始める。あっという間にろうそくの炎が消えて、真っ暗闇に包まれた陣だが、そんなものは既に気にならなかった。闇の中でも、彼はしっかり見据えていた。扉の、錠の部分。

 小さな拳が、涼やかな風を纏った。陣はその腕に全神経を集中させ、渾身の力で振り回し始めた。

 

 

 凍矢が担ぎ込まれたのは、陣が閉じ込められた独房よりももっと広い場所だった。そこに男達も一緒に入ってきて、前触れなく凍矢を床に叩き落す。彼が苦痛に呻くのと同時に、部屋の灯りがともされる。

 後頭部を打ったために目の前が歪に揺れているが、それでも薄暗いその空間を見回して、凍矢はぎょっとした。

 剣や短刀、金属製の鞭。骨まで切断できそうな巨大な鋏。内側が棘だらけになっている拘束具。重い鎖と、その先に繋がっている鉄球。

 この部屋が何の用途で使われているのか、凍矢でもわかった。ここはつまり、拷問部屋なのだ。

 「安心しな、あんな大掛かりな道具はまだ使えねぇよ。まかり間違って殺しちまったら、氷泪石までパァだもんな」

 「ただでさえ、お前も風のガキも人質だし」

 「ま、素直に泣いてくれたならこっちも手間省けるんだけどよ、涙腺の具合はどんなもんだ? ん?

 無骨な手で前髪を掴まれて上向かされる。下卑た笑いを貼り付けて覗き込んでたそいつは、耳まで裂けた口の奥から伸びる蛇のように細長い舌を、凍矢の目前でからかうように動かしてみせた。

 しかし、凍矢は全く臆することなく睨み返す。

「・・・・・・気安く触れるな!

 一喝すると同時に、眉間近くで別の生き物のように動いていたそれを、冷気を集めた手で思い切り握り締める。

 「?! うがああああ!!

 油断してさらしていた舌に、神経まで凍てつく衝撃を食らって男はさらに口を大きく開いたままのけぞった。

 髪を掴んでいた手から解放された凍矢は、男達が驚いたり怒号を上げたりするのも構わず入り口へ突進する。そのうちの一人からすれ違いざまに、鍵束を奪い取った。

 だが、凍矢の顔より一回り小さい金属の輪っかには、大小さまざまな鍵がじゃらじゃらと揺れている。

 どれがこの部屋の鍵か分からず、かといって一つ一つを確認できる余裕などあるはずもない。

 「くっ・・・・・・これか?! それとも・・・・・・」

 あてずっぽうで手当たり次第に試してみるが、どの鍵も鍵穴に差し込まれたまま、むなしく立ち往生するばかり。この鍵の中には、陣が閉じ込められた独房のものもあるはず。早く解放しに行きたいのに。

 「このガキ! 調子に乗りやがって!!

 華奢な肩を掴まれて、そのまま引きずられた。うっかり落とした鍵束も奪い返されて、凍矢は今度こそ逃げ道を失う。

 膝をついた状態で、両肩と両腕をがっちりと押さえ込まれた。渾身の力で冷気を噴き出させても、男達はちょっと寒そうにするくらいでほとんど効き目がない。

 「時間かけたら、さすがにオレらでも風邪くらいはひいちまいそうだぜ。さっさとまとまった数の氷泪石確保して、上に献上しねぇとよ」

 「よし、どっちでもいいから、片腕ださせろ」

 危なっかしい発音でそう言ったのは、先ほど凍矢に舌をつかまれた男だった。凍傷を負ったらしい舌を、だらりと垂れ下げている。その手には、木製の呪符が握られていた。なにやら、呪文らしき文字まで書いてあるようだ

 「雇い主側の陰陽師が作ってくれたんだよ。何でも、氷属性の妖怪に効果覿面だそうだぜ」

 男が勝ち誇ったように突きつけてくるそれは、一見何の変哲もない小さな木の板のようなのに、何故か凍矢にはじりじりとした熱気が立ち上っているように感じられた。まさか。

 「さっきのお返しだ」

 抵抗空しく、うっ血しそうなくらいの力で掴まれた左腕が、前方に差し出される。より皮膚の薄い内側を上に向けて。

 

 

ごん、と何度目かの鈍い音が空気を振るわせる。拳の骨を通して脳天まで突き抜けるような痛みに、陣は思わず顔をしかめて蹲った。暗闇に慣れてきた目でも、まだ拳の状態は確認できないが、おそらくもうとっくに皮がめくれ、鮮血があふれていることが容易に伺えた。体温と同じ温度の液体が、手首を伝い落ちていくのが分かるからだ。

 それに鼻腔には、錆びたような匂いがかすかに届いている。

 見よう見まねの修羅旋風拳で、独房の扉を吹き飛ばすなんてやはり無謀だろうか。しかし、他にここを出る方法は思いつかない。

 「こんぐれぇできなくて、どうすんだ。とーちゃんかーちゃん達に、これ以上手間かけさすわけにいかねぇべ」

 握り締めたままの拳を解こうともせず、陣はもう一度体勢を整えて妖気を集中し始めた。脈打つごとに波が打つような激痛の迸るその拳に、腕に、肩に、神経を張り詰めさせて全身全霊で回転させる。そこに宿る竜巻は、両親のそれに比べたら遥かに小さく弱いけれど、陣にとって精一杯集めた風。己の拳がどうなろうと構わないとばかりに、必死に切実に集めた風。

 今度こそ、絶対上手くいく。助けに行ける。

 「・・・・・・まってろよ、凍矢!!

 風の反動か、気をつけていないと幼い陣の身体まで吹っ飛ばされそうだ。両足を踏ん張り、竜巻を纏った拳を真っ直ぐに構える。

 「修羅旋風拳!!

 

 

 どぉん、という鈍い破壊音。加えて、地下だというのに吹きぬけた風。風使いの子供を閉じ込めた牢獄の見張りをサボって、談笑しながら地上階へ移動しかけていた二人組みの兵士らが、泡をくって戻ってみると、果たして牢獄の強固なはずの扉は、鍵穴の部分が目茶苦茶に破壊され、扉自体も仰向け状態に倒れていた。

 当然、中はもぬけの空。

 「ししし、しまった!! 風のガキが逃げやがったぞ!!

 「まずいな、すぐに報告して一斉捜索・・・・・・」 

 「馬鹿! ンな事したらオレらに処分がくだっちまうだろ! バレる前に見つけるんだよ!!

 「そ、それもそうか。子供の足ならこのだだっ広い迷路みてぇなアジトの中、そうそう移動できねぇだろうし」

 「何より見ろ、この血痕をよ。怪我してんだぞ。手負いのガキ一匹くらい、すぐ捕まえられるさ」

 とりあえず二手に分かれた兵士達は、まだどこかあたふたした足取りで角を曲がり、見えなくなった。

 必要最低限の風で浮き上がり、天上に張り付いた状態でそれぞれの行方を確認した陣は、廊下が静かになったのを確認してから降り立つ。

 「里長の屋敷よりでっかい所みてぇだけど、迷路にゃ慣れてるだぞ」

 拳は案の定血まみれで酷い状態だったが、陣はすこぶる元気だ。狭苦しい空間から解放されただけで、新たな力がみなぎってくるような気がしている。寝巻きの袂を破り、拳に巻いた。止血だけでなく、残した血痕で足取りを悟られないようにするためだ。

 準備は整った。凍矢は、どこだろう?

 幸いにも結界などで封印が施されていない場所らしく、風を通して彼の居場所は大体わかった。しかし。

 凍矢の風が、今までと全く感触が違う。何かに驚き、震え、だけど精一杯耐えているような。左腕が何だかちりちりと熱を帯びているのは気のせいだろうか。

 その風を感知すると同時に、陣は迷いも淀みもない足取りで、全速力で駆け出していた。

 

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