序章

 

 

夜が深まり、日付が変わってしばらくした後、こんな時間に真っ先に人間界行きの支度を済ませた鈴駒が、焦れたように玄関口付近で仲間達を振り返った。

 「もー、遅いよ皆! オイラ流石ちゃん待たしてるんだから、先行っちゃうからね!

 「キーキー騒いでんじゃねぇよ、誘いに乗ってくれただけマシだろうが、お前の場合。オレなんか・・・・・・こんな時ですら棗さんがつれないったらありゃしねぇ!

 すでに悪酔いし始めている酎が、据わりきった目で鈴駒を見下ろした。今宵は、人間界でおよそ三十数年に一度見られるという、大規模な流星群を観測できる日なのだそうだ。山深い幻海邸でなら、都会のネオンに邪魔されず星の輝きだけを眺められると踏んだ鈴駒は、これ幸いと流石をデートに誘ったのだが、人間界の情報が頻繁に流れるようになった魔界では妖怪達の間でも流星群が話題になっていた。彼の仲間達や他の友人達も興味を持ち、結局団体様状態と化したのである。

 「そりゃそーだけどさぁ・・・・・・せっかくロマンチックな流星群デート決めようと思ってたのに、気がついたら六人衆勢揃いだわ、後で黒鵺と九浄と痩傑も合流するわ、どーいうわけだか霊界からはぼたんちゃんとひなげしちゃんまで来るわ、挙句の果てには浦飯達ご一行様まで! 幻海ばーちゃんの寺はいつから観光スポットになったんだよ?!

 「・・・・・・おそらく、幻海本人がそれを心の底から言いたがってるだろうが・・・・・・というか、着いたとたんに言われそうな気もするがな」

 小鬼状態で鈴木の肩に座っていた死々若丸が、ひょいっと一回転して青年姿に変わった。彼としては、桑原とまた顔を合わせる事に対して非常に気が重い。躯の悪ふざけに巻き込まれたあの惨事は、一ヶ月ほどたった今でも悪夢に出てくるくらいだ。

 「そろそろ出るか。今から行けば、ちょうど流星群のピーク直前に到着できる」

 鈴木が時計を確認すると、陣が空中座禅のままくるくると縦回転してはしゃいだ。

 「たーのしみだべー! 流星群さ見物すんの、すっげー久しぶりだもんな!

 「陣、喜ぶか回るかどっちかにしろ。懐かしむ気持ちはわからんでもないが・・・・・・」

 陣と凍矢の何気ないやり取りに、鈴木がおやと首をかしげた。

 「久しぶり? お前達、以前にも流星群を見た事があったのか?

 「幻海邸に居た頃は、そんなもの観測されなかったぞ」

 死々若丸が続くと、そういえばそうだと鈴駒と酎も不思議そうに顔を見合わせた。

 「あれ、言ってなかったっけか」陣がぴたっと縦回転を止めた「ま、オラと凍矢がガキの頃の事だしな」

 「ちなみにガキの頃って、どんくらい昔?

 「今の鈴駒よりもっとちっこかった頃」

 「どんだけ?! っていうかあんたら魔忍でしょ?! しかも子供の時に人間界なんか行けたりしたの?!

 目を丸くした鈴駒を、凍矢がまぁ落ち着けとなだめた。

 「もちろん当時だって、魔忍が任務以外で隠れ里から出る事は固く禁じられていたさ。あの時は、オレ達の両親が人間界での任務を請け負ってそれが手間取りそうだったために、長い事子供だけ置いておけないと、特例として一緒に連れて行かれた事があってな。その時がちょうど、流星群の夜とぶつかったんだ」

 「両親・・・・・って、四強吹雪か! そっかそっか、おめーらんとこ、親子二代で有名忍者だったな」

 酎が納得いったように何度も頷いた。

 「とーちゃんかーちゃん達が任務さ行ってる間、普段だったら画魔がオラと凍矢の面倒みてくれたんだけんどよ、ちょういどあいつの免許皆伝の試験が近かったんだべ。そっちに集中させるためもあったみてぇだな」

 「じゃあ、おめーらが人間界行った最初って、暗黒武術会よりもっと昔だったって事か。しかも流星群デビューまでしてたとは、ずいぶんタイミング良かったじゃねぇか」

 「んだ! お互い家族揃って水入らずで、じーっくり眺めてたんだべ。オラ達、途中で寝ちまっただけど、あん時もすんげぇ綺麗だっただな〜」

 「わざわざ山深い場所まで行く必要もない時代だったしな。人間界の進化はめざましい上にせわしない」

 陣につられて、凍矢も生まれて初めて見た人間界や流星群の美しさを回想しはじめたが、鈴駒の切羽詰った声に中断された。

 「うわやっべ! マジでもうタイムリミットだって! 早く行こうよ!

 どうやらここで立ち止まったまま、のんびりと想い出に浸ったりそれを語ったりする暇は無さそうだった。六人衆は思い出したように急いで玄関から外へ出る。

 「じゃあ、行きながら昔話でも聞かせてもらおうか」せっかくだし、と鈴木が戸締りしながら言った「四強吹雪の事についても、一度じっくり聞きたいと思ってたんだ。武勇伝はよく耳にしたが、実際お目にかかった事は無かったしな」

 そういえば、両親の事含めて魔忍の隠れ里の事も、改めて話したことは無かった気がするなと、陣と凍矢は同時に思った。忘れていたわけではないが、考えてみれば、自分の中で振り返って見た事も無い。

 しかし正聖神党の一件で、黒鵺から両親の名を出されて以降、時折フラッシュバックのように幼かった頃の断片が甦ってくるようになった。

次から次へと湧き出してきていた断片達を、流星群観測をきっかけに紡ぎなおしてみるのも、多分悪くないだろう。

 

 

 魔界忍者という宿命も、自分達がどんな深い闇の中にいたかも知らず、両親や画魔と共に過ごしていた儚くも幸せだった時代の事を・・・・・・・・・。

 

 

第一章・遠い日の刺客たち

 

 

 それはまだ、黄泉が癌陀羅を建国してまもなく。『三竦み』という俗称が徐々に魔界住民達の口に上ろうかという時勢の頃。その後五百年にも及ぶ均衡状態がついに幕を開け、魔界の覇権争いが一つの区切りを迎えていたわけだが、だからといって各国同士の勢力争いや内乱が鎮まったわけではなかった。

雷禅らが三竦みで動きづらくなったのにつけこんで、我こそは新勢力として台頭せんとする者達も後を絶たなかったため、戦国時代のピークは過ぎたといえども、魔界はまだまだ濃厚なキナ臭さが漂っている状態だった。

 

そんな折、雅淘(がとう)という小国の重鎮の一人、漣葉(れんば)は自身の屋敷において、普段は蛇のような鋭い目をだらしなく緩ませて満面の笑みを浮かべていた。夜の帳が下りて大分立つが、彼はすでに喜びで睡魔も何も吹っ飛んでいる。

 国王の住まう城にも引けを取らぬほどに豪奢な漣葉の屋敷内、正面玄関を抜けたエントランスには、周囲のきらびやかな装飾がかすんでしまうくらいの美貌を持った着物姿の女性が立っている。後ろ手に手枷で拘束された状態で、その両脇を漣葉の兵士達に固められていた。

 憂いを含んだ瞳は、深い深い吸い込まれるようなマリンブルー。透き通るような白い肌は、真珠の如し。ほんのり桜色に色づいている唇が、心細そうに小さく震えていた。

 「氷女は美女が多いと聞いてはいたが、まさに想像以上だな。よくぞ捕らえたお前達、明日の朝一番に望み通りの褒美をとらせてしんぜよう!

 最敬礼で答える兵士達を尻目に、漣場は儚い程に小柄で華奢なその氷女のまん前に立ち、全身を舐めるように見つめた。近付いただけで、彼の分厚い鱗にさえ涼やかな空気が触れる。

 「おい氷女、おぬしの名は?

 「・・・・・・・・・麻雪(まゆき)、と申します」

 触れたそばから体温だけで溶けて消え行く淡雪のような声。その声に鼓膜が蕩けそうな思いで、漣葉はざらざらした手の平で麻雪の頬を覆うように触れる。ごつい手は小さな麻雪の顔を一気に半分近くも隠してしまい、細かい小さな棘が無数に触れるかのような感覚に襲われた麻雪は小さく身じろぎした。

 「こやつからなら、極上の氷泪石がとれるであろうな。よし、さっそく拷問室へ連れて行け! 涙腺が枯れ果てるまで搾り取るのだ!

 ニヤケ面から一転、残忍な本性を剥き出しにしながら、漣葉の脳内ではさっそく一粒いくらの算段が始まっている。しかし、その時。

 

かつん かつん

 

 大理石の床の上で、何か小さな硬質なものが落下した音が響いた。まさかと思って漣葉が振り返ったそこには、麻雪の瞳の色と同じ色の宝石が二粒、星のような静謐なきらめきを放っているではないか。

 慌てて拾い上げじっくり検分してみる。確かにこれは、正真正銘の氷泪石だ。それこそ、まさか、だ。

 氷女は、成人すると特にめったな事では泣かなくなる。自分達の涙から生まれる宝石を一族最大の誇りとしている彼女達は、金銭で取引されるのを何よりも忌み嫌っているのだ。一族の涙を商品扱いするとは言語道断、と。

 麻雪はまだ若いが、おそらく少女という年頃ではない。小柄ではあるが、その面差しとたたずまいからして間違いなく成人女性のはず。しかし彼女は、泣き喚きこそしないものの、その瞳は未だ弱冠潤んでいる。

 「私の涙がお望みならば、いくらでも差し上げましょう。ですからどうか、乱暴な事だけはお許し下さいまし。あなた様に心から忠誠を誓いますから、なにとぞ、御慈悲を・・・・・・」

 手枷をつけられたまま、麻雪は深々と頭を下げた。すると新たな氷泪石が、また一粒かつん、と床に零れ落ちる。それも抜け目なく拾い上げ、あっさり手に入った至高の宝石にまた表情を緩ませた漣葉は、兵士達を下がらせて猫撫で声で麻雪に語りかけた。

 「ワシに、忠誠を誓うというのは誠か? ワシのためだけに、ワシが望むだけこの氷泪石を生み出すと誓えるか?

 「はい、もちろんでございます。これこの通り」

 自在に涙腺を操れるのか、またしても麻雪の瞳から涙が溢れ、頬を滑り落ち、宝石となって漣葉の手の平に受け止められた。

 「おうおう、いいコじゃいいコじゃ。氷女がこんなに物分りがいい種族とは、文献なんぞ意外にあてにならんのう。それとも、おぬしが特別なのか?

 漣葉はいそいそと合計四粒の氷泪石を懐にしのばせ、満足そうにそこを服の上から撫でる。

 「まぁ、細かい事はどうでも良い。拷問の手間を省かせてくれたことは褒めてやろう。おぬしは涙さえ流してくれればいいのじゃ」

 「・・・・・・本当に、涙だけでよろしいのですか?

 含みのある言葉に、漣葉が怪訝そうな顔をすると、それを待っていたかのように麻雪は続けた。

 「この手枷から私を自由にしてくださったなら、あなた様のおそばに置いてくださったなら、どんな宝石を獲るにも勝る悦びを夜を徹して捧げると、お約束いたします」

 ひそやかな妖艶さを滲ませた言葉に、漣葉は思わずごくりと喉を鳴らした。氷女は美女が多い事で有名だが、その噂を元に想像していたよりもさらに上回る程、麻雪は美しい。確かに、ただ単に氷泪石を生み出させるだけではもったいないと思える。

 「いいだろう、こちらへおいで」

 華奢な肩をがっしり掴んで、漣葉はその心地良くひんやりとした感触に目を細めながら、寝室に向かって麻雪を誘導し始めた。

 

 

 寝室の扉を閉めて鍵をかけ、漣葉はいそいそと麻雪を戒めていた手枷をはずしてやる。

 「あぁ、ありがとうございます、お館様」

まるで白百合が咲いたような笑みを浮かべ、麻雪はうっすら手枷のあとが残る手首をさすった。

 「礼なんぞ良い、そんな事よりさぁ、もっと近くへ来んか」

 天蓋つきのベッドの枕元に香を焚いて、待ちきれないとばかりに漣葉が手招きする。

 彼に横顔を見せる体勢になっている麻雪は、その体勢のまま手首をさするのをふとやめて、改まった口調になった。

 「ありがたき幸せにございます。ですがその前にまず、お館様と大事なお話があるのです」

 「何じゃ、焦らすのぉ。もったいぶらずに早う」

 言うてみい、と続けようとしていた刹那、麻雪がぱっと振り返った。腰まで伸びた長い髪を、サイドから編みこんで一本にまとめている三つあみが、翻って落ち着いて、漣葉はようやく自分の喉下に氷の苦無(くない)が迫っていることに気がついた。

 「き、貴様! これは一体・・・・・・?!

 「扉の外の番兵に気付かれますゆえ、お静かに願います」

 漣葉に苦無を突きつけたまま、ついさっきまで繊細で儚げな雰囲気を纏っていた氷女は、うってかわって冷徹な双眸を輝かせている。おかしい。文献はあてにならないという範疇ではない。氷女に戦闘能力があるはずないのに、目の前の女は手に持った武器を明らかに使い慣れている。身のこなしはもちろん、ただ立っているだけでも隙が全く無い。

 「お前、氷女ではないな?!

 「えぇ、いかにも。麻雪というのも、偽名です。私の真の名は、魅霜。魔界忍者は四強吹雪の一人にございます」

 「魔界忍者・・・・・・それも、四強吹雪だと・・・・・・?!

 漣葉の喉の奥が、恐怖で引きつれる。無理も無い、魔界の勢力争いの影で暗躍する戦闘集団の、トップクラスに位置づけられている戦士が目の前にいるのだから。

 風使い夫婦と呪氷使い夫婦によって構成されている四強吹雪は、今や魔界全土にその名を轟かせている精鋭だ。中でも呪氷使い・魅霜は、潜入と暗殺の達人だという噂を聞きかじったことがある。その理由はずっと謎に包まれていたが、ついに判明した。そして、今まで謎とされてきた理由も。

 「そうか・・・・・・今までもこうして氷女のフリをして権力者に近付き、暗殺してきたということか。任務達成と口封じを同時にこなすとは、何と恐ろしい女よ!

 絶望と憤怒、死を目前にした恐怖がないまぜになった瞳に睨みつけられても、魅霜は平然と受け流す。

 「今から貴方に、三つの質問をします。まず一つ目、この屋敷の敷地全体を覆っている、巨大な防護結界を解除する方法は?

 「け、結界を解いて何をする気だ! まさか、他の仲間を侵入させるため・・・・・・?

 「質問に答えてくださいまし。私に質問し返す権利は、もはや貴方にはありません」

 ちり、とちょうど喉笛の部分に違和感。鱗越しでも、さらに苦無が接近したのが嫌というほどわかる。そして、この苦無は自慢の鱗をもやすやすと貫き、自分を死に至らしめるだろう事も。

 「三つの質問全てにお答え頂けて、なおかつ私の事を口外しないと約束してくださるのなら、命だけは助けて差し上げてもよろしいんですよ。さぁ、お答えは?

 「・・・・・・地下三階に、祭壇がある。そこに祀られている、結界の媒介となっている杖を破壊すれば、結界は瞬時にして消滅する。そこまで下りる隠し階段は、中庭に飾られている双頭の竜の像を右回転させることで現れる」

 そこまで言って、漣葉は視線と顎のわずかな動きで、寝室に飾られている自身の自画像を指し示した。

 「祭壇のある部屋に入るための鍵は、額縁の裏だ」

 「杖を破壊・・・・・・ですか。その程度で、あんな巨大結界が本当に消滅すると?

 「効果は大々的だが、かわりに仕掛けはいたって単純。今や魔界にいるのは結界師のみだからな。今は亡き瑠璃結界の黒鵺のような生粋の支配者がいたなら、結界師に払うより何倍もの報酬をはずんで雇っておったわ」

 そうであったなら、魅霜のように害が無いフリをする侵入者をも妨げるような結界を、きっと張らせていたのに。ぎり、と漣葉はさも悔しそうな歯軋りを零した。

 「では、二つ目。蛾渇(がかつ)公国の重鎮達と交わしている、機密文書はどこにありますか?

 魅霜の今の一言で、心臓を打ち抜かれたような気がした。蛾渇公国とは、漣葉が大臣として勤めるこの雅淘国と敵対関係にある国である。漣葉は実は現国王とその一族をクーデターによって滅ぼして自分が国を乗っ取り、蛾渇公国とは同盟を結ぼうと画策しているのだ。

 国王が変われば、どんなに努力しても国内は混乱する。城はもちろん、民も。そこを敵国に漬け込まれ攻め入られては、元も子もない。そこであらかじめ味方につけ、国が安定したら同盟を破棄し戦争を始めようという計画だった。極秘で進めていたはずなのに、どうやら情報が漏れていたらしい。いやそれも、四強吹雪が掴んでいたのだろうか。

 もしかしたら、自分を怪しんだ国王か、その側近に依頼されて。

 「文書は・・・・・・暖炉の奥の隠し扉の中。特に鍵は無い」

 観念して、漣葉は白状し続ける。その内容に偽りがないかどうか念を押して、魅霜は最後の質問を口にする。

 「これは質問というより確認です。貴方のクーデター計画を、洗いざらい国王陛下に告白できますか?

 「な、何だと?!

 廊下の番兵には聞こえていないだろうが、漣葉の声が甲高く裏返ってしまった。

 「そ、そんな事をしては、即刻処刑ではないか!

 「いいえ。貴方が罪を全て告白し、誠心誠意の謝罪を示すのなら、命ばかりは容赦すると国王陛下は申し上げておりましたよ」

 やはり、国王が魔界忍者を雇っていたのだ。侮れない男とは思っていたが、まさか自分の裏切りまでかぎつける才覚の持ち主だったとは。

 「わかった・・・・・お前の言う通りにするより他に、術は無さそうだな」

 漣葉はとうとうあきらめたのか、魅霜を睨むことさえやめてしまった。それを確認して、くの一は苦無を下ろす。

 「ご理解頂けて、幸いです。それではまず、文書から確認いたします。貴方はそれをお持ちになった上で、ご登城なさってください。私の仲間の一人が、監視役として同行しますから、こちらもどうかご容赦を」

 言いながら魅霜はくるりと暖炉の方を振り向いた。その瞬間、漣葉の目がぎらりと敵意に光る。護身用の短刀を取り出し、細い背中に向かって斬りかかった。

 まがい物が、調子に乗りおって!

 無言の怒りに任せて、渾身の力を込めて短刀を振り下ろす。その刃は、氷女のそれに似せた着物を帯ごと斬り裂いた。・・・・・・だが、斬ったのはそこまで。

 ばさり、と乾いた音を立てて無残な姿になった着物だけが絨毯の上に落ちた。その着物を着ていた女が、一瞬の内に消えている。その行方を疑問に思う前に、漣葉の視界が濡れた真紅に染め上げられた。。

 彼の背後に回った魅霜が、頚動脈に苦無を深々と突き立て、それを引き抜いていたのだ。

 噴水のように勢いよく吹き上がる血の中で、途切れ途切れの断末魔を撒き散らしながら、漣葉はまもなく絶命した。

 返り血を浴びないよう素早く飛びのき、ベッドの掛け布団で血の雨を防いでいた魅霜が、着物の下に着込んでいた身軽な忍装束姿で現れる。彼女は速やかに機密文書を取り出すと、扉の内側に隠れながら開けて番兵二人をおびき寄せ、主の死体に驚愕する彼らの命をも素早く断ち切る。

 「悪く思わないで下さいまし。これが私達の任務なのですから」

 機密文書を小脇に抱えて鍵を持ち、魅霜は扉を閉めると、わずかな隙間から冷気を送り、内側から扉の鍵穴部分を凍結させる。そうしてから彼女は、八方に神経を研ぎ澄ませながら中庭へと急ぐため、回廊の窓から私兵が地上にいないをのを確認して、ひらりと飛び降りた。

 

 

 大臣・漣葉の敷地内を、ドーム上に覆う巨大結界が、一瞬発光したかと思ったとたんに儚く消え去ったのは、それから三十分と立たない頃だった。

 漣葉が雇っている私兵達の間に、動揺とざわめきが走る。この国でも指折りの結界師に張らせたという防護結界が解除されるだなんて、そうそうありえないことだ。

 「結界が消えたぞ! 誰の仕業だ?!

 「大臣様はいかがなされた!

 「寝室にいらっしゃると聞きましたが、応答がありません! 扉も開かない上に、鍵が使えなくて・・・・・・」

 「何だと、番兵は何をしている?!

 「それが、その二人もいないんです!

 「と、とにかく大至急で屋敷を囲め! それと誰か、腕利きの結界師を呼んで来い!

 仮眠を取っていた私兵まで叩き起こされ、国王直属の軍隊にも引けをとらないと噂される、漣葉お抱えの私兵達は完全武装で屋敷を飛び出す。すると、彼らの頭上から楽しそうにうきうきとした声が降ってきたではないか。

 「お〜、思った以上の大軍だな。こいつぁ楽しめそうだべ」

 私兵達が見上げた先、夜空を背後にした人影が浮いている。かと思ったら、ひゅううっっと軽快に風を鳴らして男が一人、地上に降り立った。若草色の鮮やかな髪をなびかせ、尖った耳をぴくつかせている。その体躯はよく鍛えられてはいるが、彼が浮かべているのは無邪気な、かつ不適な笑み。その口元から覗くのは、白い牙。

 「さっそく侵入者か! かかれ!

 リーダー格の号令を受けて、先頭部隊が武器を振りかざしながら一斉に襲い掛かる。

 「そうこなくっちゃ!

 十数人の屈強な戦士達に取り囲まれ、それでも彼はいっそう楽しそうに笑う。四方八方から飛んでくる攻撃をかわし、拳に腕に力を込めて高速で回転させ始めた。

 「修羅旋風拳!

 そのとたん、ドーン!! と大地を揺るがすような轟音が鳴り響き、大蛇のようにうねる突風が吹き荒れた。次の瞬間には侵入者の彼を中心にぽっかりとクレーターが広がって、その周囲に全身の骨を砕かれた先頭部隊が、白目をむき泡を吹いてひっくり返っている。

 圧倒的な力の差を見せ付けられ、私兵達の間に戦慄が広がる。そんなことはお構いなしといった感じで、彼は必殺技をくりだした方の手をプラプラさせながら苦笑した。

「なーんだ、弱ぇ弱ぇ。小手調べにもなんねぇだ。もっとまとめてかか・・・・・いででででで!

 「あんた! 調子こくでねぇ。派手な事やっちゃ駄目だって、さっき言ったばっかでねぇか!

 いつの間に現れたのか、今度は肩口まで伸ばした赤毛の若い女がまなじりをつりあげて、男の耳をつまんで引っ張りたしなめている。彼女もまた、彼と同様角と尖った耳、そして牙を持っていた。へその見える露出度の高い装束に身を包んだ彼女は、黙って微笑んでいればそんじょそこいらの姫君も脱兎の如く逃げ出しそうな美貌を、呆れ半分怒り半分でしかめている。

 「あんな調子で暴れてたら、他のお屋敷や町までとばっちりくらうべさ! ターゲット以外が被害受けたら、あとでオラ達まで里長に説教されんだぞ」

 「痛ぇ! 痛ぇって飛鳥! わかった、気ぃつけるからとりあえず放してけろ〜」

 じたばたとわめく彼の言葉の中、その名を聞いた私兵達のリーダーがハッとなった。

 「飛鳥…・・・風、しかも里長? ま、まさかお前ら!

 「お、やーっと気付いたみてぇだな」

 ようやく開放された耳をさすりながら、男の方が自慢げに胸を張る。

 「魔界忍者は四強吹雪、風使い・閃とその嫁・飛鳥参上だべ! 地獄さ落ちてもこの名前忘れんなよ!

 「言ったそばから、また調子こいてこの人は・・・・・・」

 説教する気も失せたのか、飛鳥は諦めたようにため息をつく。だが心なしか、夫を見守る彼女の眼差しは言葉とは裏腹に優しい。

 「ま、魔界忍者の四強吹雪だとー?!

 「馬鹿者、怯むな! 相手はたったの二人だ、総攻撃するぞ!

 リーダーの怒号に気を取り直すあたり、やはり彼らも戦いのプロらしい。おぉ! と勢いを盛り返して風使い夫婦をあっという間に取り囲み、容赦なく突進してきた。

 しかし、閃も飛鳥も全く焦りも恐れもみせず、背中合わせになって互いの背後を守りあいながら次々と襲いくる敵を確実に屠っていった。

 「あれ、そーいや涼矢はどうしただ?

 豪快な蹴り技で閃が甲冑ごと敵を粉砕すれば、

 「いつもと同じパターンだべ。そろそろ魅霜と合流するんでねぇの」

 真空の刃を縦横無尽に飛ばしながら、飛鳥が応ずる。

 「そっか、んじゃ心配いらねぇだな」

 戦いながら、二人とも気付いていた。漣葉が抱えている私兵の数は、国王に申告されているよりおよそ三倍。だが、屋敷の外に出てきたのはその半数程度だろう。残る半数は内側から屋敷を守って結界を解除した侵入者の捜索に当っているに違いない。しかし、自分達と長い付き合いの呪氷使い夫婦が屋敷内にいるのなら、もう半分の私兵達の末路も自分達が応戦している連中と同様に、決まったも同然。

 どうやら今夜も、順調に任務遂行できそうだ。

 

 

 自慢の呪氷剣で三人まとめて切り伏せ、涼矢は辛うじて息の残っている一人から、防護結界の妖具を祀る『源』への入り口がどこにあるのかを聞き出した。事前に入手していたこの屋敷の見取り図を正確に脳裏に再現して、彼は再び疾走する。

 額に落ちていた前髪が風に煽られて浮き上がり、意志の強い冴え冴えとした蒼く鋭い双眸が己が行く先を見据える。

 突き当りまで来た所で、細身だけれど必要な筋肉は備わっている四肢が、軽やかに躍動して窓から飛び出す。音もなく着地したとたん、彼はまた走り出した。

 妖具の『源』は、大抵地下深くに、わざと複雑に入り組んだ迷路を作ってその奥に安置されている。涼矢自身はもちろん、彼の妻である魅霜もどんな難解な迷路であっても、修行で培った直感や洞察力で迷わず切り抜けられる。しかし、一番短いルートを辿っても、ある程度のタイムロスは避けられない。

 加えて、漣葉程の一国の大臣がしつらえた迷路だ。戻ってきた入り口付近で、私兵達に待ち伏せされているだろう事は確実。それを承知で、魅霜は恐れることなく戻るはずだ。彼女は確信しているから。涼矢が必ず加勢に間に合うと。

 中庭の噴水への近道となる、裏庭からのルートを駆け抜ける途中で、涼矢はさらに十数名近くの敵を突破した。返り血を浴びながら突き進んだその先、ただならぬ気配を感じてハッと立ち止まる。

 壁の陰から様子を伺うと、『源』の入り口を何重にも取り囲んだ私兵達が見えた。武器を手に緊迫した様子で、全員が口をつぐんだまま無言で待機している。案の定、魅霜を待ち構えているのだ。

 「愚かな。貴様ら如きの不意打ちで、魅霜が倒せるものか」

 眉一つ動かさずに小さく吐き捨て、だが涼矢は両手に冷気のつぶてを集め始める。キィィィィ、と大気が急速に冷やされていく音さえ、気付かれないよう慎重に。

 そしておそらくこの行動は・・・・・・同時のはず。

 自分とは違うもう一つの、氷属性の妖気が地上へ近付いている事に、彼はもう気付いていた。あともう少し、もう少し引きつける。あと三歩。二歩・・・・・・・・・一歩

 「「魔笛霰弾射!!」」

 壁の陰から涼矢が飛び出し、地上に現れた魅霜と同時に、敵を前後から挟み撃つ形で凍てつく弾丸をくりだす。

 兵士達のおよそ三分の二近くは、断末魔さえ上げる余裕も無く蜂の巣状になって絶命した。

 致命傷を免れた兵士達も、氷の苦無と呪氷剣の前にあえなく敗れ倒れふす。そのまま、二度と動かない。

 今宵の任務。それは、クーデターを企てている謀反の大臣、漣葉の暗殺と彼が抱える戦力を全滅させる事。そして機密文書の奪取。漣葉にはこの最悪の事態を避けるチャンスが与えられていたのだが、それは彼が自ら放棄した。

 「無事だな、魅霜」

 「えぇ、あなた。・・・・・・この私兵達、人数から見て、およそ半分といったところですね。閃と飛鳥は?

 「正門と前庭で、残る半数を迎え撃っているはずだ。静かになったから、向こうももう終ったんだろう」

 「そのようですね。でしたら、すぐに合流しましょう。この国の国王陛下に、言霊も送らなくてはなりませんし」

 あぁ、と頷いて、涼矢は互いの指を絡め合わせるようにして、魅霜と手を繋いだ。大地に累々と横たわる敵兵達の亡骸を視界の端に捕らえながら、それでもその行為は確かに優しい。

 呪氷使いのくの一らの中でも、特に氷女の変装を完璧にこなせる魅霜が、今回のように真っ先に敵の陣地に潜入して、時には彼女自身より何倍もの妖力を誇る権力者の暗殺を請け負う事は、もう大分前から日常茶飯事だ。ただでさえ魔忍というのは明日をも知れぬ命。涼矢としては魅霜だけにそんな危険を背負わせたくはないのだが、任務遂行という現実の前に屈するしかないのがいつも歯痒い。だからせめて、その助太刀には自分が一番に駆けつけると決めている。

 「あなた、今宵の任務はもう終わりですよ。そんな難しい顔しないでくださいましな」

 柔らかく微笑んだ妻が、無邪気に覗き込んでくる。魔忍としての任務を離れた、まっさらな素顔。それにつられて、涼矢も笑みを一つ零した。

 

 

 魔界忍者―――伝説の名盗賊・瑠璃結界の黒鵺が、落命して間もない時期に結成された、魔界のさらに暗黒面で戦いを繰り広げている、極秘の戦闘集団である。魔忍の里を開拓した里長・雹針(ひょうしん)は、もともとは魔界でも指折りの暗殺者だった。一匹狼だった彼が組織を立ち上げたその理由は、いずれ雹針自身が里を大幅拡大し、魔界の新勢力として国を起こす事が目的だからではないかともいわれている。

 建国を目指すものは大抵盗賊団を結成するものだが、雹針の場合は自分の得意分野をそのまま活かした形だ。

 魔界のどんな詳しい地図にも魔忍の里は当然記載されておらず、その場所を特定するのは氷河の国を見つけるより何十倍も困難といわれている。加えて、里長・雹針本人についても謎だらけだ。

 何人もの猛者を一撃必殺でしとめた事と、男であるらしいという事しか一般的にはわかっていない。

 閃達四人は、もとを正せば皆戦災孤児だった。閃と飛鳥は風属性、涼矢と魅霜は氷属性の種族が暮らす集落に住んでいて、それぞれの集落は遠く離れていたのだが、戦力を探して魔界中を旅していた若き日の雹針に潜在能力を見出されて、里に集められたのである。

 ちなみに氷属性の妖怪は、妖力値が高ければ氷女でなくてもその涙は氷泪石となる。また、氷女から生み出される氷泪石の質に個人差は無いが、他の氷属性の妖怪の場合は妖力値が高ければ高いほど、それに比例してさらに氷泪石の美しさが増すという。ただ、どちらにせよ氷泪石自体が希少価値のため、実際に比較された事はない。

 魅霜の氷泪石が氷女のものとは違うと、今まで一度も気付かれなかったのはそのためである。

 

 

 「おーっ、来た来た! お疲れさんだべ〜!

 激闘の余韻冷めやらぬ閃が、空中座禅のまま呪氷使い夫婦を振り返って大きく両手を振った。

 彼と飛鳥の周囲も、まるで雌雄を決した戦場のようになっている。

 「国王さんが使い魔寄こしてくれててよ、たった今オラとウチの人で、任務遂行報告の言霊送ったところだべさ」

 飛鳥が指し示す先、城に向かって飛んでいく小さな魔物の影がひらめいていた。

 「これでもう、殆ど仕事終ったも同然だべな」せいせいしたとばかりに大きく伸びをして、閃がニカッと笑う「あとは、里長に報告するだけだ。そしたらとっとと家帰んべ。チビどもが首長くして待ってっしよ」

 腕白盛りな息子達の顔を思い出し、涼矢は思わず苦笑する。

 「そうだな、最近、こんな時間になっても寝ようとしないと、画魔も手を焼かされているようだ」

 「すっかり夜更かしのくせがついてしまいましたね」

 困ったような魅霜の言葉に、飛鳥が声をあげて笑った。

 「遺伝だべ、遺伝。オラ達が夜型だかんな」

 戦いを終えて、忍者ではなく親としての顔に戻った彼らは、閃が涼矢を、飛鳥が魅霜を抱えて風を巻き起こし、漆黒の夜空へ飛び去っていった。

 

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