司令室にはラジオもTVも設置してあったが、鈴駒も『流石』もそれらをつける気にはなれなかった。会議用の円卓は二人だけで使うにしては大きすぎて落ち着かず、隣接されている書斎に引っ込む。壁一面を覆う高い本棚には、さまざまな書物や資料らしきファイルが雑然と並べられ、入りきらなかった分は床に積み上げられている。鈴駒の背丈をゆうに越えてしまうくらいだ。その間、本の塔と塔の間に挟まれるようにして、鈴駒と『流石』は隣り合って座った。 書斎は室内灯をつけても心なしか薄暗く、本棚を背に座り込んでいると余計に自分達には影が落ちるが、むしろその方が落ち着いた。詰まれた本が外部の音も吸収するのか、静謐な空間がぽっかりそこに空いている気がする。 「・・・・・・こんなトコで本なんか読んでたら、オイラすーぐ眠くなっちまいそうだな。躯も案外、居眠り用にしてたりして。ここに篭ってたら、誰も入ってこないだろうし」 ことさら明るい鈴駒の軽口も、本の塔が吸い取ってしまっているように感じられる。きっとこの声は『流石』にだけ届いて、そこから先へは響けないまま霧散するのだろう。 何だか、このちっぽけな空間は静か過ぎて守られすぎていて、魔界に二人ぼっちのような錯覚に陥りそうだ。 「ね、そういえばさ、ここでオイラがずーっと躯大統領と二人っきりでいたら、事情を知らない奴が誤解しかねないよね。麒麟のオッサン、その辺もうまく誤魔化しといてくれるといいんだけど」 「下手をしたら、魔界始まって以来の大スキャンダルよね」 ぽつり、と『流石』が話題にのってきて、その表情に笑みを乗せる。鈴駒の視覚はその顔を躯として映すが、心にはいつも通りの『流石』の微笑が見えた。・・・・・・が、それはすぐ不安げに曇ってしまう。 「どうしよう、このまま元に戻れなかったら。鈴木さんの事を信用しないわけじゃないけど、でもやっぱり怖いよ」 蜂の巣をつついたような喧騒が収まり、そこから遠ざかって、二人は改めて事の重大さを思い知らされる。パニック状態でいられる内は、まだ良かった。騒ぐついでに混乱を発散できたから。だけど、こうして静まり返った場所で現状を見直してみると、無人島に置き去られたかのような心細さに泣き出したくなる。 隣には鈴駒が居るのに、今の自分は『流石』じゃない。 「あたしね・・・・・・『躯』さんに憧れてる部分もあるの。カッコいいなぁって。凄く強いし堂々としてて、美人で。・・・・・・この、右半身も含めてとっても綺麗な人だと思ってる」 でもね、と『流石』は視線を落とした。 「きっとそれは、『躯』さん本人がこの火傷の痕を誇りに思ってるからなんだよね。中身があたしじゃ駄目」 そこまで言われて、鈴駒はハッとした。先程座る時、『流石』がさりげなく自分の”右側”に腰を下ろした事に気付いて。 「身体の半分に、よりにもよって顔に・・・・・・こんな大きな火傷の痕が残ってるだなんて! あたしだったらつらくて哀しくて耐えられないよ。この身体を誇りに思うなんて絶対無理! あたしは『躯』さんみたく強くなれない、あの人のフリし続けるだなんてできるわけないわ」 『躯』自身にとってはこの傷は勲章だし、その辺りはもちろん『流石』も理解している。しかしそれはしょせん、自分の傷ではないからに過ぎなかった。他人事だから綺麗だと思えたのだ。同じ事が自分の身に降りかかったらなんて、想像もしなかった。『躯』が長い時をかけて昇華した痛みそのものについては、考えてみようとさえしなかった。 気付いてしまった己の浅はかさへの嫌悪と落胆は、元の身体に戻れない可能性と同じくらい、『流石』の胸中で嵐の如く吹きすさんだ。 「話、変わるけどさ」 ふいに、鈴駒がまるでキャッチボールでもするかのように、言葉を放ってきた。 「『流石』ちゃん、もしかして気にしてた? ・・・・・・自分が、オイラより年上だって事」 あ、と思わず声に出してしまった。確かに彼女はつい先程、こう言った。
あたしなんて、ただでさえ鈴駒くんより年上なのに
「そうかも・・・・・・しれない。気にしないようにしてた、つもりだったけど」 気にするほどの年齢差ではないのだが、些細なことほど意外と目に付きやすいものだ。気にしている自分に後ろめたさを覚え、鈴駒に対して申し訳なさを抱き、幸いそれらは本当に小さい事なので見て見ぬフリをしていられた。だけど、とっさの時に瑣末な本音が口を突いて出る。 「鈴駒くんにも気にして欲しくなかったから、自分も気にしてないって思い込んでたのね。あの状況とはいえあんなあっさりボロがでるだなんて・・・・・・ごめんね」 無意識の内に、自分が引く必要の無いラインを勝手に引いていた事を恥じて、流石は消え入るような声で詫びた。すると、鈴駒はとんでもないとばかりにぶんぶんと首を横に振る。 「ちがうんだよ、謝って欲しかったんじゃなくて、その・・・・・・」 照れたように口篭る鈴駒は、薄闇の中でもはっきりと紅潮していた。しかし、彼は意を決したように『流石』の真正面に回りこんで向き直る。 「もし、『流石』ちゃんが今の『躯』ぐらいのトシで火傷の痕があったとしても、オイラはやっぱり、あの時一目惚れしてたと思うんだ。だって、他ならぬ『流石』ちゃんなんだから!」 二人の出会いが運命だったのなら、それは姿形なんかに左右されるものではないはずだ。 「もし、このまま二人の人格が元の身体に戻らなくても、オイラは絶対『流石』ちゃん自身が好きなままだよ。妖力の無力化とかテロリスト対策とか、色々問題は山積みだけど、キミがどんな姿でも何があろうとも、オイラは『流石』ちゃん一筋だからね!!」 鈴駒はあえて、先程の『流石』を引用する形で自分の想いを表現した。だから、流石も思い出す。年齢差への不安なんかより、もっとずっと大きくて強固な己の中の本音を。 それは・・・・・・目の前の少年に対する恋心。 これ一つさえ揺らがなければ、一体何を恐れる事があるというのだろう。 「『鈴駒』くん・・・・・・!」 とうとうこらえきれずに、『流石』は大粒の涙を流しながら鈴駒に抱きつき、何度も何度もしゃくりあげた。震える背中を、鈴駒は慰めるように撫でてやる。今はもう、戸惑いも違和感も感じなかった。彼女は確かに『流石』だ。 嗚咽の狭間で、彼女は必死で喉を震わせながら繰り返す。
ありがとう、だいすき
と、その時だった。遠くから、騒がしく誰かと誰かが会話しているらしい音声が届いた。廊下の間に司令室を挟んでいるので、なおさらくぐもって聞こえるそれは、じょじょに近付いてくるようだ。声の主達を二人が判別するより先に、司令室のドアが開かれたようだった。 「躯ー! いるんでしょー?! 仕事漬けになってないでさぁ、たまにゃ新酒の味見でもしてみなーい?」 威勢よく響いてくる声に、もちろん聞き覚えがある。 「孤光さん?!」 「嘘だろ、よりにもよってこんな時に!」 一瞬で現実に引き戻された鈴駒と『流石』は、お互いの蒼白な顔を見合わせる。そこへ、大慌ての麒麟が飛び込んできたようだった。 「孤光! さっきから何度も言ってるようにだな、躯様は今日もお忙しくてお前の個人的な用事に付き合えん。悪いが、今日はこのまま」 「もー! あんた、本当にさっきから堅苦しい事ばっか言うねぇ。それに、あたし個人の用じゃないよ。あいつもこの新酒解禁になるの、楽しみにしてたんだから。手に入ったら持って来てくれって頼まれてたんだよ〜」 司令室から聞こえてくる声だけでも、孤光が既に出来上がっている事が伺えた。おそらく、彼女はとっくに自分用の酒瓶を空にしているはずだ。 「麒麟さんも、あの人の強行突破は阻めなかったのね・・・・・・。でもどうしよう、鈴駒くん。このままじゃ、孤光さん書斎にまで探しにきかねないよ」 「とりあえず、あの机の下に隠れてようよ。二人ぐらいなら何とか入れそうだし、あとはオイラが気配消せば完璧だって。素面ならともかく、酔ってる時の孤光さんならそれで十分誤魔化せると思う」 酔っ払いとしてのタイプが、酎とそっくりだし。その一言は孤光の名誉のために、自分の胸の中にだけ秘めて、鈴駒は『流石』を促し本と本の間から抜け出そうとした。・・・・・・が 「あ」 慣れない身体で目測を誤ったのか、立ち上がろうとした『流石』の腕が本の塔にぶつかってしまった。元々積み上げ方が適当だったのでいとも簡単にバランスを崩したそれらは、まるで落石のように鈴駒と『流石』に襲い掛かる。かわそうとしたが、そうしたら運悪く、今度は反対側に積まれていた本の塔にぶつかり、同じように崩してしまった。 「きゃあああああ!」 「うっわーーー!!?」 書斎から聞こえてきた悲鳴が、孤光と麒麟に聞こえないはずがない。 「今の躯と・・・・・・鈴駒? 何、あいつ何か手伝わされてんの?」 「ん? んー、まぁ、そんなところだ。つまりだな、鈴駒の手を借りねばならんほど、本日の躯様はご多忙なのだ。よってお前は速やかに・・・・・・」 「っつーかやっぱいるんじゃーん! おーい躯、約束のブツ持ってきてやったよーん」 「おお、おい、待てこら、話を聞かんか!」 焦る麒麟を尻目に、孤光は大きな酒瓶片手にうきうきと書斎に踏み込む。そこでは、 「い、いたたたた・・・・・・」 本の雪崩に巻き込まれ、驚いた表紙に足を滑らせ仰向けに倒れた『流石』が呻いていた。鈴駒も、何か辞書らしきものの角が当ったようで、目から火花が出そうな鈍痛に呻いている。 「ごめんね、鈴駒くん、大丈夫?」 後頭部を打った衝撃で、『流石』は目の前がチカチカしていた。何だか胸元が重い気がするのだが、本でも二、三冊乗っているのだろうか。 「へ、平気平気! どってこと無いって・・・・・・?!」 答えて目の前を確認して、鈴駒は唖然とした。倒れた瞬間、床に顔面強打したかと思ったのに、全く痛みがないどころか何故か柔らかい感触しかしないので妙だとは思っていたのだが、その正体は更なる衝撃を鈴駒の脳内に与える事となった。 「お、オイラこそごめん!!」 自分が『流石』の胸の谷間に埋まっていたことをようやく自覚して、鈴駒は湯気が出そうなくらい真っ赤になりながらとびのく。そして。顔を上げた視線の先に、彼は見た。 炎上したかのような激しい妖気を背負い、それ以上に恐ろしい形相の孤光を。 「鈴駒、あんた・・・・・・!」 酒瓶を握った拳が、怒りでわなわなと震えている。 「流石ってコがありながら躯と、それも百足のこんな場所にしけこむなんて、どういう了見だよ?! ガキのくせに浮気だけは一人前ってか!」 もしかしなくても彼女は、鈴駒が”躯”の胸に顔を埋めていた瞬間を直視してしまったようだ。 「い、いやあのその、これには魔界最深部よりも遥かに深いワケがありまして!」 「問答無用! あたしゃ女心を踏みにじる輩が一番嫌いなんだ! 雷禅も・・・・・・あたしの気持ちを知りながら、人間の女に手ぇ出しやがってーーー!!」 ドスのきいた怒号と共に、さらに力が込められた拳の中で、酒瓶が無残に割れる。 「ちょ、待っ! とりあえず雷禅の事は、オイラ関係無いから!」 「やめて孤光さん、早まらないで!」 「そこどけ躯ー! あんたともあろう奴が、男ごときに騙されんな!!」 「もしもし、煙鬼か? 大至急百足に来い! お前の妻を引き取れーーー!!」
西からの風が、吹き寄せてくる。魔界の曇天が、いつもよりさらに濃度を増している。今夜は雨になるという天気予報を思い出しながら、『躯』は西風を真正面から全身で受け止めた。もうすぐ雨を連れてくるのだろうそれは、こころなしかしめっぽい。 他人の身体とはいえ、全身が生身なのは何年ぶりなのか、彼女自身にも計りかねる。右手をじっと見つめ、その手で右の頬にふれる。血が通い、体温が灯る肌。自ら放棄したことには微塵も後悔は無いが、この感覚は痛いほどに懐かしく感じられた。 「こんな時に、よくもまぁ無防備なままでいられるものだな。無力化しても、根性は変わらずか」 それは振り返らずともわかるくらいに慣れ親しんだ声だったが、『躯』はあえて振り返りその名を紡ぐ。 「飛影」 停止した百足の頭頂部に立ったまま、二人は向かい合った。その時、わずかに百足が身震いするかのように揺れた。足元、百足外壁のさらに下で、何やら一騒動起きているらしかった。 「内部が騒がしいようだが、何かあったのか?」 「さぁな、耳障りだが、気に病む程度の事じゃない」 ふうん、と相槌を打ちながら、『躯』は今の身体についている尻尾をつまんで弄んだ。 「いい毛並みだ、艶もある。マメに手入れしてるんだろうな、『流石』は」 尻尾だけじゃない、髪も、肌も、爪も、生まれ持った美貌と若さに依存せず、常に気を使って繊細なケアを施している事がすぐにわかった。 「後で、やり方を聞いておかないとな。オレが手を抜いたらあいつ、うるさそうだ。それに借り物の身体なら、丁重に扱ってやらないと」 「別にそこまでする必要なんか無いだろう。もともと、事故だったんだ。それともお前は、責任の無い事にまで気を使うような妖怪だったか?」 らしくないぜ、と飛影は皮肉な笑みを口の端に浮かべた。 「・・・・・・それぐらいしか、することが無いってだけさ」 ふっと息をついて、躯は再び風上に身体を向ける。 「人格再交換装置は、鈴木と黒鵺に任せるしかないし、『流石』の姿じゃ仕事にも戻れない。一瞬、久しぶりにどっか町にでも繰り出そうかと思ったが、無力化したとあっては百足を離れるのも不可能だ。『流石』も77戦士として名と顔が知られている以上、この姿でも危険がつき物だからな」 突然の退屈を持て余そうと、所在が無かろうと、とにかく百足にいるしかないのだ。追われていた激務が突然消失し、他人の身体を与えられ、自分の本拠地なのに居場所までなくしたかのような不安定さを嫌というほど自覚しながら。 「ほう、要するに、今の貴様は暇人って事か」 「返す言葉も無い。・・・・・・で? わざわざその暇人を見物に来て楽しいのかよ、飛影」 「別に楽しくはないが、珍しいとは思う。人格交換なんて現象、妖術でも見たことないしな」 「何だ、オレの事を心配してきてくれたんじゃないのか」 いつもよりやや近い目線で、『躯』はからかうように笑ってみせると、予想外の返答に飛影は一瞬面食らった。 「! 誰が、そんな! 『流石』の身体に入ったついでに、奴の頭の中身まで影響したんじゃないだろうな!」 「だとしたらお前の事、飛影くんって呼んでやった方がいい?」 「・・・・・・・・・・殺すぞ」 いつの間にやら手玉に取られ、居心地悪そうに(でもまだ、立ち去るつもりは無さそうだ)『躯』を睨みつける飛影。 そんな二人の頭上から、元気な少女の声が下降しながら接近してきた。 「流石ちゃーん!」 空飛ぶ櫂に乗ってやってきたのは、霊界案内人・ひなげしではないか。 「偶然ね、任務帰り? お疲れ様。飛影さんも、お久しぶり」 当然といえば当然だが、『躯』を流石と思い込んだまま屈託無く笑いかけてくる少女に、『躯』は戸惑いがちに、でもどうにかうまく流石のフリをしようと試みた。 「あぁ、そうだ・・・・・・よ。急にどうした、の?」 「んー、ちょっとね。お休み取れたから、ぼたんと一緒に魔界に遊びに行ってみようかって、話になったの」 聖正神党の事件が片付いておよそ三ヶ月。霊界の事後処理も完全に片付いて、コエンマと『躯』の間では改めて魔界と霊界の間での紳士協定が強化された。それにより、三年前までより格段に霊界人が魔界を行き来しやすくなったのだ。 それでもまだ若い女性が一人で魔界へ来る事は、まずありえない。だからひなげしもぼたんとの二人連れなのだろうが、今の彼女はどうみても一人きりだった。 「ぼたん?」 あの、ポニーテールにしてる方の霊界人か、と思い出しながら、『躯』が問い返すと、何故かひなげしは頬をほんのり紅く染めた。 「あ、あの、ぼたんはね、ちょっと用事が残ってるから先行っててくれって。そ、それにあたしは・・・・・・その、ちょっと黒鵺さんに用があってね・・・・・・」 その時、『躯』はやっと気付いた。ひなげしが持っている小さな手荷物。半透明なパステルブルーのラッピングに、濃い色合いの碧いリボンで飾られたそれの中には、チョコチップやナッツを混ぜたらしいクッキーが詰まっていた。 視線を感じたひなげしが、さらに赤面してわたわたとクッキーの袋を後ろ手に回す。 「ちちち、違うの! これはただ単に昨日、ぼたんとか霊界のお友達に配ろうと思って焼いたら作りすぎちゃって、それであの、余りものって言ったら失礼だけど、黒鵺さん甘党だって言ってたし、疲れた時には糖分取るのがいいって聞いたから、差し入れしようかなと思って・・・・・・」 しどろもどろになってしまってひなげしは、改めて高まった緊張感に胸が張り裂けそうになるのを感じながら、ちょっとだけ友を恨んだ。 (もー、何でぼたんってば一緒に来てくれないのよ〜。こんな所で気を効かせなくたっていいのに!) 「せっかくだから少しでも、二人だけで話しておいで」と、背を押してくれたのは純粋に彼女の好意だとわかっているが。 そんなひなげしに、『躯』は精一杯流石のつもりで声をかける。 「黒鵺なら、配電室。今、そこで鈴木と作業中だけど、それ渡して雑談するくらい、大丈夫だと思う」 「そう、百足に帰ってからもお仕事だなんて、忙しいのね。・・・・・・流石ちゃん、一緒に来てくれるかな?」 「ごめん、こっちはこっちで用事あるから」 どうやら、覚悟を決めるしか無さそうだった。深呼吸して櫂に乗り、ひなげしはもう一度浮上して、「じゃあ、またね」と、正面玄関に下りていく。 「霊界にも、色ボケしてるのがいたか」 すぐさま飛影が毒舌を吐いたが、本人に聞こえいないようにしているだけ、彼なりの気遣いがもしかしたらあるのかもしれない。 「まぁ、いいじゃないか。可愛いもんだ」 その時ふと、『躯』は入れ替わる直前、流石に聞きそびれた質問を思い出した。
お前、ちょうど飛影と同い年くらいか?
別段、深く気になった事ではない。ただ、急に聞いてみたくなっただけだった。 「・・・・・・オレが今の『流石』やお前くらいのトシの頃だったかな、百足が完成したのは」 「ずいぶん若い内の大出世だな。まぁ、それくらいでないと雷禅と二大勢力は張れないか」 「外見年齢としては、の話だが」 急に落ちた声のトーンが、『躯』本人のものに聞こえて、飛影はハッとは顔を上げた。 思い出した。かつて、彼女の意識に触れた時に、知った事。 妖怪は種族によって寿命がバラバラだ。短くて数百年、長いとゆうに一万年以上。『躯』はもともと後者よりの種である事に加え、痴皇の下に居た頃に受けた手術のために、成長が遅れる体質にされた。 痴皇好みの年齢の姿を、一年でも長く保つために。 だから『躯』が一国の女王となった時、見た目こそ年端もいかない少女に見えたが、本来はその時にちょうど成人していたくらいだったのだ。 蔵馬や黄泉が生まれる前から、二大勢力の一人として君臨している彼女が、彼らよりも若く見えるのはこのためである。 「酸をかぶった事も、闘いの道を選んだことも、今まで踏み越えてきた選択全て、一つも後悔はない。・・・・・・それでも、最近はたまにふと考える。もし、オレにもまともな少女時代なんてもんがあったら、その場合オレの周りにはどんな世界が広がっていたのかと」 復讐防止として、痴皇に植えつけられた偽の記憶。あれが、もしも偽りではなく日常生活だったなら。戦う事も部下を統べる事も知らずにいたなら。 そんなもう一つの人生が、『躯』の脳裏を掠めるようになったのは、第一回目の魔界統一トーナメントが終わり紳士協定が結ばれ、呼吸をするくらい当たり前だった勢力争いが終焉を迎えてからだった。さらにはっきりと思い描くようになったのは、ここ数ヶ月。聖正神党の一件をきっかけに、『流石』やひなげしと知り合って以降。 くるくると鮮やかに表情を変え、感情が揺れ動くまま素直に行動し、恋に一喜一憂を繰り返す。時にそれは幼稚にも見えるが、それ以上に可愛らしくいじらしい。『躯』には、ことさら彼女達が眩しく見えた。 自分にももしかしたら、彼女達と同じように生きていた可能性があったのだろうか。 「そしたらあんな凝った手術も受けなくて、ついでに生まれるのがもっと遅くて・・・・・・例えば、お前と近い時期だとしたら・・・・・・」 自分が今の、流石くらいの年齢だったら。飛影と同い年だったら。 もっと早く、戦力増強のためのスカウト以外の理由で出会っていたのだろうか。上司と部下ではなく。 「愚問だ、くだらん」 淡々と切って捨てる飛影に、「言うと思った」と『躯』は苦笑する。そうだ、考えても仕方のないことだというのは分かっている。彼にとってはあくまでも、今現在自分の目の前にある世界が全てであって、仮定の世界なんて入り込む余地が無いのだろう。 「むしろ、つまらんじゃないか」 「え?」 「『躯』の過去が本当にどこかで少しでも狂いがあったなら、オレもお前も”今”に辿りつけん。確実に、こうして共に百足の頭に上っている事もありえないんじゃないか? それだけじゃない。『躯』が大統領になることも、三竦みも、トーナメントも、何もかもが変わってくる。どんな風に変わっていたのか考えるのは面倒だが、きっとオレ達が実際に経験したそれよりもつまらんものになっていることだけは確かだ。この目で直接見て、この手で直接触れる以上に勝るものが、どこにある?」 仮定の世界がどんなに素晴らしくても、自分達の実体験には遠く及ばない。それだけ隙間なく、密度の濃い時間を経てきた自信がある。 「飛影、お前・・・・・・・・・」 「何だ。まだ何か愚問でも吐く気か」 「そこまでの長台詞、言おうと思えば言えるんだな。自己新記録更新したんじゃないか?」 「おちょくってるのか貴様!!」 真面目に話していたのにからかわれ、飛影はつい噛み付くような勢いでムキになってしまう。素が出た反応につい吹き出しながらも「すまん」とすんなり詫びた『躯』は、リラックスしたようにぱたん、と軽く尻尾を振った。
人格再交換装置が完成したのは、翌日の夕方の事だった。思いのほか早く完成したのは、鈴木本人の頭脳はもちろん、黒鵺が助手として優秀だったためである。ただ、夜を徹した作業のため二人とも、(特に二日連続徹夜の鈴木が)疲労の色は隠せないようだった。 癌陀羅に帰った修羅以外で、自体を知る者達が再び集合した司令室に運び込まれたそれを、あらゆる角度から観察しながら、時雨が問いかける。 「二つの椅子を繋げたようにしか見受けられんが・・・・・・これで、本当にお二人の霊魂が本来の身体に戻るんであろうな?」 「一刻も早く元に戻ってもらわねば、困る。由々しき事態なんてもんじゃない」 昨日、ちょうどこの場所で起きた孤光との、想定外なバトルを思い出したのか、麒麟が重く深いため息をつく。 装置は、『躯』と『流石』の座高をさらに頭一つ分こえる背もたれのついた一対の椅子、という形状だ。さらに背もたれの先端には半円の金属板が取り付けられ、その金属板同士が何本ものケーブルで繋がっているのである。 「理論上としては、問題無い」 鈴木が、電源となるリモコンの最終チェックを終えて、慎重な声で言った。 「ただ、あくまで人格再交換を目的に作ったからな。それぞれの身体に異なる霊魂が宿っている異常事態を、元に戻すためのものだ。つまり、最初から身体と霊魂が一致している者達同士を”交換”するという、異常事態の方も引き起こせるのかどうかは、まだわからん。それこそ、再交換が成功しない限りは」 「つまり、まだ人体実験はしてねぇって事。っつか、やりようがねぇって言った方が正解だな」 補足して、黒鵺は申し訳無さそうに『躯』と『流石』振り返った。 「悪いが、ぶっつけ本番って事だ」 緊張して、思わず固唾を呑んだ『流石』の手を、鈴駒がぎゅっと握り締めて「大丈夫だよ」と語りかける。 「鈴木って、美意識やセンスはかなりアレだけど、頭いいのは確かだもん。今回は黒鵺とタッグを組んでたんだし、失敗するわけないよ」 「そ、そうよね。鈴駒くんがそう言うなら、きっと成功するよね!」 「・・・・・・・・・一部、微妙に引っかかりを感じたんだが、まぁいい。『躯』は? このまま装置起動って事で、構わないか?」 鈴木から確認され、『躯』は短く「あぁ」と頷くにとどめた。迷っていても仕方が無い。これが唯一の手段なのだから。 ななめ後ろに立つ飛影が、振り返らずともいつも通りの仏頂面で、この事態を見守っているのがわかる。彼は励ましの言葉なんて死んでも言わないだろうが、それでいい、と『躯』は思う。任務以外の事には無精者で、めったに他人の事情に踏み込もうとしない飛影が、こうして呼ばずとも来てくれただけで十分だった。 「では、始めるぞ。二人とも、座ってくれ。姿勢は真っ直ぐ、頭が半円金属板の真下になるように」 指示通りの位置に『躯』と『流石』がつくと、リモコンを持つ鈴木の手に力が入る。静かに深呼吸をして自身を落ち着かせ、電源ボタンに指を当てた。 「これから起動させる。絶対動くなよ」 一部の隙もなく、痛いほどに張り詰めた短い静寂が下りた後、それが部屋の床に沈んで溶けるように消えたタイミングを見計らったかのように、鈴木は装置の電源ボタンに添えた指に、力を込める。 カチッ、という無機質な機械音が鼓膜に触れたかと思った直後、その鼓膜を突き破るかのような轟音が響き、眼球を潰さんばかりの激しい光が明滅した。 「・・・・・・・・・チッ、燦閃玉(『ONLY WISH』参照)ほどではないにせよ、とんでもない光だな」 悪態をつきながらも、百足を巡る電力なだけの事はある、と飛影は妙に納得せずにいられない。 予想以上の強烈な光線に、一同はしばしの間目をあけられないくらいだった。その間に、一瞬失神していたらしい『躯』と『流石』も覚醒した。 「う〜・・・・・・ん・・・・・・」 どちらからとも無くかすかな声が漏れて、鈴駒がハッと顔を上げ、戸惑う。成功したのかどうか、まだ判定できない。どちらに向かって呼びかければいいのかわからないのだ。 目を覚ました二人が、慌てたように自分の身体を見下ろし、お互いの顔を見合わせ・・・・・・その内の一方がいち早く反応した。彼女は自慢の”尻尾”をぴょこ、と動かし嬉々とした表情で立ち上がる。 「鈴駒くん!! あたし戻った!」 もはやお約束というか何と言うか、流石はまっしぐらに鈴駒に抱きついていった。 「やったーーー! 良かったね、流石ちゃん!」 一気に緊張の糸がほぐれ、恋人達は無邪気にはしゃぎあう。見た所、妖力も本来のそれに戻ったようだ。きゃっきゃっ、と二人の世界に没頭しているのに苦笑を一つ零し、躯も装置から立ち上がった。 「躯様、お加減はいかがですか?」 未だ用心深そうな時雨に、「問題無い」と片手を挙げて答え、躯は鈴木と黒鵺に向き直る。 「二人とも、恩に着るぜ。やっぱり、自分の身体が一番だ」 「あ、そうだった、あたしもお礼言わなきゃ! お二人とも、本っっっ当にありがとうございます!」 「持つべきものは、有能な助手って事だねぇ」 「鈴駒・・・・・・いいかげん、今度は聞きとがめるぞ」 余計な一言にカチンときた鈴木を、まぁまぁ、と黒鵺が笑いながらなだめた。 「一件落着なら、それでいいじゃねぇか。それより・・・・・・この装置、どうする?」 「どうって・・・・・・」 今まで考えの範疇からあえて外していた問題を目の当たりにして、鈴木は口篭りながら装置を振り返る。 「再交換がうまくいったという事は、単なる交換も可能だと照明された。しかし・・・・・・別に使い道ないしなぁ。しかも交換の場合、やっぱり妖力の無力化現象は避けられないだろうし」 「当たり前だ。使い道なんぞ、あってたまるか」飛影がため息をついて装置を睨みつける「あんなわけの分からん事態に巻き込まれるのは、もう二度とごめんだ」 麒麟ももっともらしく頷いた。 「発明品としては素晴らしいし、今回の事故解決には大いに役立ってくれたが・・・・・・」 「仕方ない、我ながら画期的なアイテムだと思うけど、こいつは解体した方が良さそうだな。資材だけ、今後別の発明の時にリサイクルしよう」 もったいないけどなぁ、と名残惜しそうに装置に手を触れさせながら、鈴木は一人感慨深そうに呟いた。会心の出来栄えだっただけに、ついつい未練が残る。 「ところで、オレから一つ注意があるんだが」 と、急に躯が一同を見回した。 「今回、オレと流石が入れ替わった事、まだしばらく機密事項にしておいてくれ。一時的とはいえ、無力化した身体に急に本来の妖力が戻ったせいで、まだちょっと妖気が不安定なんだ。お前もそうだろ、流石?」 「え? えぇ、まぁ、言われてみればそんなような気もしますけど・・・・・・」 急に話を振られて、流石は少しへどもどしたが、聞かれるがまま同調した。 「要するに、病み上がりの状態だ。用心のため、落ち着くまで知らない者達には決して明かさないように。いいな」 「はっ、承知つかまつりました。ではさっそくですが躯様、昨日の内に癌陀羅の諜報機関から寄せられました、新たなテロリスト情報をご確認下さい。こちらの書類にまとめてございます」 麒麟から手渡されたそれに目を通し、躯が一日ぶりに大統領の顔に戻った。 「幸い、緊急指令を出すほどじゃないな。しばらくはこの地帯を警戒パトロールするにとどめ、相手の動きを見る。全員、今日のところは解散していいぞ」 その言葉で、一件落着を改めて実感した一同は、それぞれがホッと胸を撫で下ろした。思った以上に早く解決したため、拍子抜けしたふしもあるかもしれない。 麒麟と時雨が慇懃に一礼して、司令室を出て行く。その後に続くように退室したのが飛影だ。「全く、人騒がせな」と口先ではぶつぶつ言っていたが、その面差しにはうっすらと安堵の笑みが浮かんでいたのを、躯だけが見逃さなかった。 「流石ちゃん、今からでも人間界行こうよ。明日になったらまたウチの班も任務あるだろうしさ」 「そうよねー、時間は有効に使わないと! 昨日の分、きっちり取り戻そうね」 「じゃあ鈴木、後でね。オイラ今日、帰り遅いから」 そう言うと、二人は手に手をとって、何なら背後に花でも背負っているかのような足取りで出て行く。 「あ〜、気ぃ抜けたら、急に眠くなってきたな。結局貫徹だったし」と、黒鵺が大きく伸びをした「頭脳労働で起きっぱなしってのは、戦い続けてる状況よりキツイもんがあるぜ」 「何言ってる、オレなんか二日間連続だぞ」 鈴木がヤケ半分に言った。肩の力が抜けると、昨日よりもさらに強い睡魔に襲われた。六人衆邸に帰る前に、仮眠室を借りて一眠りしたい気分だ。黒鵺も似たような考えなのか、鈴木を「そうだよな、お疲れさん」とねぎらった後、おもむろに携帯電話を取り出して、こんな話をしながら司令室を出て行った。 「あ、蔵馬? 悪ぃんだけど、今日そっち行くの少し遅くなりそうなんだ。・・・・・・や、任務とは違うんだけど、まぁ一仕事あったかな。・・・・・・気にすんな、無事終了したから。日を改めて話すよ」 おそらく彼も、自室に戻ってベッドに倒れこむつもりなのだろう。そう思うと、鈴木はなおさら自分の瞼が重くなったように感じた。 「躯、すまんが仮眠室貸してもらえないか? でないとこの場で爆睡してしまいそうだ」 「その前に、一つ交渉させてくれ」 まるで、この司令室に鈴木と自分が残るのを待っていたかのように、躯は真剣な眼差しになった。対する鈴木は、急に交渉などと言われ、とめどない波のように無限に覆いかぶさってくる眠気と戦いながらも、どうにか姿勢を改める。 「交渉、とは何の?」 「この、人格交換装置についてだ。こいつはオレが買い取る」 これを聞いたとたん、鈴木の意識が睡魔の波を突き破った。まるで悪夢から覚めた時のように、核が早鐘を打ち始める。 「買い取るって・・・・・・いきなり何を言い出すんだ! 破棄すると決めたばかりだろう!」 「許可した覚えは無い。というか、破棄は禁ずる。大統領命令だ」 有無を言わさず鈴木を退ける躯は、よく見るといたずらを思いついた子供のような面差しで、装置をちらちら気にしているではないか。 「・・・・・・躯、お前まさか。この装置で他の者達の人格を入れ替えて、遊ぼうって魂胆じゃ・・・・・・?」 「魂胆も何も、他にどう使うんだ?」 ちっとも悪びれず、しれっと言い放った大統領に、鈴木は一瞬口をあんぐりあけ、だがすぐ我に返って猛反対した。 「おもちゃじゃないんだぞ! 大体遊び感覚で人格を入れ替えるだなんて、個人の尊厳に関わるじゃないか!」 「元に戻せるんだから、問題ないだろ。無力化したって、百足の中にいれば安全だし。オレだって長時間そのままにしておくつもりは無いさ。ちょっと息抜きに協力してもらうだけだよ」 「い、息抜きって・・・・・・」 「大統領職ってのは、想像以上にデスクワークが多くてな。最近は手合わせくらいじゃストレス解消もままならん。そろそろ別の気分転換方法が必要と思ったんだ。入れ替えの組み合わせ考えるだけで、結構楽しいぞ。装置の存在が広く知られる前に、色々試さないとな」 「製作者としても一妖怪としても、断固反対する! って、まさか貴様、さっき自分や流石が病みあがりとか言って、今回の事態を口止め延長した理由はそれか!」 「そこまで察してんなら、この際固い事言うなって」 「いーや、反対と言ったら反対だ! 大統領命令だとしても、こればっかりは聞けない。第一、この交渉にのったとバレたら、オレまで被害者達に恨まれ・・・・・・」 「報酬は特別ボーナス及び、お前のラボの改築費用全額肩代わり、ついでに癌陀羅で一番人気の最新美容系商品一揃いって事でどうだ?」 「心ゆくまで遊び倒してくれて構わない!!」
後日。再び百足の司令室にて。 突然呼び出されたかと思ったら、奇妙なデザインの椅子に半ば強引に座らされ、死々若丸は憮然として目の前に立つ躯を睨み上げた。 「そろそろ、一体何の用でこのオレを呼びつけたのか、説明してもらおう。それと、何故失敗ヅラまでここにいるのかもな。全く、任務でもないのにワケがわからん」 「じゃかあしいわ! ワケわかんねーのはオレ様の方だっつーの!! 自分の国の総理大臣にすら会った事ねーのに、魔界の大統領からお呼びがかかっちまってんだぞ!」 ケーブルで繋がった隣の椅子に、死々若丸と同様に座らされた桑原が、牙を剥く勢いで怒鳴る。 「まぁ、二人ともそう焦るな。すぐ済むから。本当に、一瞬だからさ」 実は内心、躯はかなり気分が高揚しているのだが、見事にそうと悟らせないまま、ポケットに隠している人格交換装置のリモコンに手を伸ばす。これを押した時、自分の目の前でどんな珍妙な事態が広がるのか、それを想像する彼女はある意味、トーナメントの時より高いテンションに血潮を躍らせている。 「せっかくの貴重な体験だ。お前達も満喫してみろよ」 珍しく明るい表情で微笑みながら、躯は電源ボタンを探り当て、高まる期待に後押しされるかのように指にそっと力を込めた。 |