第三章・ひび割れる命

 

 

虐鬼の泉から漂ってくる毒霧は、見た目は普通の霧の色と変わらず、無味無臭だという。なので霧の恐ろしさが知られていなかった時代には、何も知らずにここへ踏み込んだ妖怪達が次々に犠牲になっていたらしい。

 苔さえ生えることのできない、殺風景極まりない岩場を、黒鵺は一人歩いていた。

 一歩一歩と歩を進めるたびに、足を叩き潰されるかのような衝撃が、脳天まで一瞬で突き上げる。崩壊の最終段階が目の前だと、これでもかというくらい実感させられる。

 だけどもう少し。もう少しだ。妖怪大量虐殺を阻止するための二本柱の内の一本が、あともう一息で完成する。

 ・・・・・・ふと耳元で、先ほど聞いた陣の叫び声が繰り返された気がした。

 『もし消えちまったら、蔵馬の風はこの先ずっとずっとずーっと、泣きっぱなしだべ!!

 そんなこと無いと思うけどな。最悪そうなったとしても、陣達や浦飯達が一緒にいてくれたなら、蔵馬はまた笑えるようになるはず。だからこそ、消滅というリスクを背負う気になったのに。実際には、哀しませるだけになっちまうのか?

 オレの命がついえた、あの夜の繰り返しになる?

 かつて父から譲り受けたペンダントを下げていた胸元に、黒鵺は無意識の内に手を触れていた。

 あれから千年以上たってもまだ、蔵馬の中でオレという存在の大きさや価値が変わっていないのなら、本来は喜ぶべき事なんだろうけど・・・・・・でも。

 もどかしさと切なさによる胸の奥の痛みは、崩壊によって走る亀裂よりも鋭い気がした。

 ふと、空間が広がったような感覚を覚えて、思考に沈むと同時に視線も落としていた黒鵺ははっと前方を確認した。いつのまにか、霧がいっそう濃くなっていた。

 岩場が途切れ、まとわりつく毒霧の向こう。灰色の平坦な大地に、ぽっかり浮かんだその泉は、まるで砂漠で見るオアシスの幻影のように現実離れして見えた。

 本当に、土と水しかない。草木も水草さえも生えていない。当然、泉の中に通常だったら生息するはずの魚や虫はもちろん、微生物すらそこには皆無だろう。

 猛毒の霧を発生させ続け、有機物だろうが無機物だろうが一切合切を溶かしてしまう、死の泉。底まで覗き込めそうな、不自然なほどの透明度は、まるで精密に加工した水晶をさらに液状化させたように見えた。

 霧は、母体となっている泉から離れるにつれて毒素を薄れさせていくというから、それが唯一の幸いだ。もしその性質がなかったなら、正聖神党が姦計を巡らすまでもなく妖怪達は絶滅していたに違いない。

 ともかく、やっと着いた。

 ようやく安堵して、黒鵺は胸の前に手をかざす。

 「開け、我が内部けっか・・・・・・」

 バキン! ビキビキ!

 頭の中から響くような、その鈍い音を追いかけるように、今度は今まで聞きなれなかった音が、黒鵺の中から外界へとほとばしった。

 カシャーーーン・・・・・・!

 ガラス窓が叩き割られたかのような音と共に、黒鵺の背中の両翼と右腕が、付け根の部分から砕け散ったのだ。

 真紅の細かな破片がいくつもいくつも舞い散って、血の雨のように黒鵺の視界を染めた。

 「・・・・・・!!

 もはや悲鳴すら上げられない黒鵺の目の前で、ついさっきまで自分の右腕と羽だっただろう真紅の欠片達が、大地へ到達する前に儚く消えていく。

 気がつくと、その視界が一転していた。自分が前のめりに倒れたのだと、やっと理解した。喉の奥がひきつれて、潰れた呻き声しかあげられない。

 無いはずの血の気が一瞬で引いたかと思いきや、これももうすでに失せたはずの血潮が、沸騰したかのような錯覚を覚えた。

 右の肩を左腕で押さえ、砕けて消えた右腕の断面が、濡れたような紅でぼんやり発光しているのを見る。

 「もう、少し・・・・・・」

 掠れた音が、ようやく喉から搾り出される。黒鵺はうつぶせになり、左手をがさがさの大地について懸命に上体を起こした。

 「もう少し、なんだ。あとちょっとだけでいい、持ちこたえてくれ!

 おぞましい、宝剣・蛇那杜栖。正聖神党を制しても、この凶器の存在が残っていては駄目なのだ。連中の残党や、もしかしたら今度は妖怪が、蛇那杜栖の悪用を目論むかもしれない。魔界にもこの武器の存在が知れ渡った以上、その危険性は決して無視できないのだ。

 再び内部結界を開こうとした黒鵺だが、その瞬間、背後に剥き出しの殺気を感じた。

 「―――?!

 とっさに横へ転がり受身を取る。よろめきながら立ち上がる黒鵺の目に映ったのは、無残に抉り取られた地面と、その中心に立つ見知らぬ妖怪だった。

 大振りな三又の矛を構え、オレンジ色の鱗に覆われた肌の巨漢。

 「誰だ、てめぇは?!

 左手に白銀の鎌を構え、誰何の声をあげる黒鵺を振り返り、男は矛を真っ直ぐ向けて睨みつけてきた。

 「我が名は鯱。瑠璃結界の黒鵺よ、宝剣・蛇那杜栖を残して消え去るがいい!

 男が死者で、自分と同じく器に霊体を入れた状態だとすぐにわかった。そして、名前にも聞き覚えがあることに気付いた。

 「思い出したぜ、蔵馬の前に癌陀羅の軍事総長だった奴か。貴様はオレより深い階層に堕ちたと聞いたが・・・・・・。誰の手引きかは、聞くのは愚問か。なぁ、不知火?

 いるんだろ? と声をかけると、意外にあっさり大岩の影から不知火が姿を現した。

 死者ではないにせよ、器を使用する霊界人にもまた、霧は効かないのである。

 「・・・・・・貴様の内部結界は、術者の死、この場合は消滅に伴い解除され、収納されていた蛇那杜栖は外界に解放される」

 淡々と語りながら数歩歩き、不知火は二人の死者を同時に視界に捕らえながら立ち止まった。その表情は、冷静さを保ちきれずに憎悪がはっきりと滲み出して歪んでいる。

「崩壊によって妖力が弱体化し、しかも利き腕と羽根が消えた今の貴様ならば、かつて癌陀羅ナンバー2の座にあった鯱ほどの力量で、十分対抗できるはず。我らの革命を阻み狂わせた、忌まわしい悪鬼は今ここに滅せよ!!

 負の感情に彩られたその言葉の後半を、黒鵺はほとんど聞いていられなかった。矛を構え直した鯱が真っ直ぐ飛び込んできたのだ。

 後方に跳んでかわし、残った左手で白銀の鎌を持つ。消失した羽根の跡と右腕の付け根が、燃え上がるように熱かったけれど、その苦悶は飲み込んで。

 「逃がすか! オレが極楽へ上がるための踏み台となれ!!

 「三年しかもたなかったって事かよ、笑わせるぜ。地獄歴千年をなめんな!!

 連続で素早く突き刺そうとしてくる矛をかわし、または自分の鎌で弾き返しながら、黒鵺は高みの見物を決め込んでいる不知火を一瞥した。

 詳しいいきさつまでは知らないが、どうやら鯱を殺害したのは蔵馬らしいから、彼に恨みを持つ鯱を自分に対しての捨て駒として飼ったその人選は、なかなか面白い。

 ガキン!!

 振り下ろされた三又の矛を、白く煌いた鎌が受け止める。両者が一瞬睨み合って、またはなれた。

 「思ったより、いい働きを見せてくれるじゃないか、あの鯱という奴」

 不知火が、さも楽しそうに呟いた。

 地獄で見つけた時、鯱がいともあっさり交渉に乗ってきた時には、拍子抜けすると同時に若干の不安もあったのだが、これなら期待通りの成果を挙げてくれるだろう。

 一度口車に乗せて器を与えてしまえばこっちのもの。不知火に従わなければ、鯱には消滅という末路しかないのだから。もっとも、従ったところでその末路に変わりは無い。蛇那杜栖がこの手に戻ったら、まず最初にその刃の犠牲者としてやろう。

 せいぜい、名誉に思え。その思考ごと消え失せるがいい。

 もうすでに勝利を手にしたかのような不知火の自信に呼応するかの如く、あの痛ましい音が鈍く響き渡る。不知火はそれを、己に対する喝采のように聞いた。

 パキン!!

 「ぐあぁ・・・・・・っ!!

 黒鵺の肩のすぐ下まで、真紅の亀裂が迫っていた。耐え切れずに蹲ったその隙を、鯱が見逃すはずも無く、至近距離で「もらった!」と振りかざす。

 膝を突いた体勢のまま、どうにか黒鵺は鎌で受け止めようとしたが、その時左手が、砕け散りこそしなかったものの新たな激痛に襲われて、あっさりと鎌を泉の方へ弾き飛ばされてしまった。

 すると、鎌が水没すると同時にボコボコと水面のその部分が沸騰したように泡立ち、しゅうううっっと音を立てて白い蒸気が吹き上がりすぐおさまった。確実に、鎌が融けきったのだ。

 それを横目で捕らえながら、黒鵺はさらに繰り出される攻撃をよけて、内部結界から別の鎌を取り出そうとした・・・・・・が。

 「―――うぅっ?!

 結界を開こうとするや否や、弓で射抜かれるような鋭い苦痛が胸を貫いた。

 立ちはだかるその痛みを突破できない。もはや、結界さえ操れなくなっている。崩壊が早すぎる。

 足の感覚も麻痺してきた黒鵺が、とうとう完全に膝をついた。体の、器のどこにも力が入らない。亀裂同士の摩擦が耳について、何も聞こえない。

 それでも意地で顔を上げると、高々と矛を振り上げた鯱がそこに立っていた。勝ち誇った笑みの少し上で、矛の先端が主と一緒にぎらりとこちらを見下ろしている。

 「終ったな」

 その一言を口にしたのは、鯱なのか不知火なのか。

 限界と絶望に上下から心を押し潰された黒鵺には、もはやどうでもいいことだった。

 終わり? ここで? オレは、負けるわけにいかないのに。

蔵馬―――――!!

 声にならない絶叫があがった、正にその瞬間。生命力に溢れた風が、吹きぬけた。

 

「修羅疾風脚!!

 容赦無く陣に蹴り上げられた鯱は、気がついたら泉の上空に浮かんでいた。蹴られた時の衝撃など、気にしている暇は無かった。そのさらに上へすでに陣が回り込んでいて、組み合わせた手を振り上げると、鯱の頭部めがけて渾身の力で叩き込んだのだ。

 ドボーーーン!!

 瞬く間に泉の深い深い所まで、鯱が沈んだ。吹き上がる蒸気と飛沫を、陣は風で吹き散らす。

 「陣?! バカ、お前どうして・・・・・・!!

 「嫌な風吹いてっし、妖気のぶつかり合いがあったからよ。じっとしてらんなくなっちまっただ!

 霧をちょっとでも吸い込んだら、あるいは触れたら、一瞬で全身に毒が回ると教えたのに。この事態に驚いたのは、もちろん不知火も同じだった。生きた妖怪が足を踏み入れられない場所だからこそ、この機を待っていたのだ。

 「何にせよ、鯱が使えないのでは話にならぬ! ここはひとまず」

 撤退とばかりに身体を反転させた不知火だが、その真正面。凍矢が行く手を遮るように立ちはだかっている。

 「お前も消えろ、不知火。腐った野望と一緒にな!

 既に彼の両手には、冷気のつぶてが集められていた。

 「魔笛霰弾射!!

 以前より威力もスピードも増した凍てつく弾丸が、あっという間に不知火を蜂の巣状に撃ち抜きながら泉へ向かって吹き飛ばした。

 「ぎゃあああああああ!!!!!

 凄まじい断末魔をあげた不知火が、水中の鯱から発せられる蒸気を散らすようにして、泉へ落下した。それを見届け、陣は地上に戻りながら叫ぶ。

 「今だべ、黒鵺! 蛇那杜栖を捨てるだ!!

 凍矢まで来ていたことに、驚愕している暇は無さそうだった。黒鵺は改めて精神を統一させ、胸の前に手をかざす。

 「開け、我が内部結界!

 先ほどと同じ激痛が全身を蝕んだが、それでも黒鵺は必死で内部結界を開いた。さっきのように失敗できない。今度こそ、これだけは。

 もはや自分のものではないような左手を叱咤しながら、懸命に宝剣を掴み出すと、黒鵺はそれを不知火達が落ちたのと同じ場所めがけて放り投げた。魂を切り捨てるというその大剣が、水面下に飲み込まれたタイミングを狙って、泉のふちまで駆け寄った凍矢が両手をかざして目一杯の冷気を送り込む。

 周囲の気温もぐんぐん下がって、霧が氷の粒に変わってぽろぽろ落ちる。その頃にはもう、虐鬼の泉は分厚い氷のバリアに余すところ無く覆われつくしていた。

 鯱と、不知火と、蛇那杜栖をそこに閉じ込めて。

 「この氷は、オレから解除せず放っておけば少なくとも一週間はこのままだ。妖力を孕んでいるから、鯱と不知火の幽体離脱も阻める。これで、蛇那杜栖も正聖神党の計画もおわ、り」

 足元の感覚がおぼつかず、視界がぐらりと上下した。と同時に、割れるような激しい頭痛に襲われ凍矢は絶句する。

 陣も同様にくらくらと眩暈がして、脳を直接殴られているような衝撃を感じた。

 「・・・・・・! ってぇ・・・・・・。そーいや初期症状は、眩暈と頭痛だったっけか」

 「急いでここから離れるんだ! お前らの妖力ならすぐには死なねぇだろうが、解毒が一分でも遅れたら命取りになる!

 器の完全崩壊が近いと本能が告げているが、彼はそんな事お構い無しだった。自分のために、こんな場所へと元魔忍の少年達が来てしまった事の方に、よっぽど動揺している。

 「そっだな。用も済んだし、とにかく百足に戻るベ! しっかりつかまってろよ!

 自分の声さえガンガンと脳髄に反響し、かな釘で引っ掻き回されているかのようだったが、陣はつとめて元気な声を出し、左右それぞれに黒鵺と凍矢を抱えて飛び上がった。

 

 

 一秒一秒が長く感じられるのは、いつもより飛翔速度が落ちているのは、三人分の重量で飛んでいるからではない事に陣は最初から気付いていた。

 意外なほど何の変哲も無い、かつて同じ組織にいた忍び仲間(と認めたくは無いのだが)が司っていた霧よりも、さらに無力でインパクトも薄いように見えたのに、そこに潜んでいた毒は想像以上に悪辣だった。

 核が一回脈打つごとに、血管内を巡る毒はさらに濃度を増しているようだ。

 もう既に自分も凍矢も、第二段階の症状でもある呼吸困難が起こっていた。

 「陣、オレだけでも下ろせ。百足の巡回経路は分かってるんだから、あとは自分の足で行く!

 一人分の重みがなくなれば、それだけ飛ぶ際の負担は軽くなるはず。それも分かっていたけど、陣は黒鵺の提案を即答で却下した。

 「そいつぁ、できねぇ」

 ぜえぜえと、喉の奥から病人のような乱れた呼吸が搾り出され、だけど黒鵺を抱える左腕に込められる力は強まった。

 「絶対に、オメを連れて帰るだ。約束・・・・・・したんだべ」

 途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、陣は右側に抱えた凍矢が気になった。今の黒鵺とのやり取りの最中で、彼が全く何も反応しなかったのだ。通常通り喋るのが苦痛だとしても、凍矢の性格だったら相槌の一つくらい打ってきそうなものなのに。

 それに何だか、せわしなく上下する呼吸の感覚が、さらに早まったように聞こえる。

 「凍矢? オメは大丈夫け?

 その一言の語尾に重なるようにして、陣と黒鵺の視界に生々しい紅が割り込んだ。

 「がっ・・・・・は!!

 手で覆うくらいでは到底せき止められないくらいの鮮血が、凍矢の肺や胃の底から駆け上がり吐き出されたのだ。その血は、彼を抱えている陣の首や頬にまで飛び散り、染めた。

 「凍矢!!

 うっかり陣は空中で静止しかけたが、何とかそれ以上速度を落とさぬまま飛行を続けた。

 ごぼっ、と鮮血で喉の奥を遮られたような音を何度か繰り返して、凍矢はあっという間に喉はもちろん胸元までもべっとりと紅く染めてしまった。

 口元を押さえていた右手が、陣の肩につかまっていた左手が、力を失ってだらりと垂れ下がる。そんな凍矢を抱える腕に必死に力を込めて、陣は叫んだ。

 「もうちっと頑張ってけろ! 百足までもう一息だべ! なぁ、聞いてっか? 死ぬでねぇぞ、凍矢ぁ!!

 その切迫した声に引き戻されるかのように、凍矢は白濁しかけた意識を浮上させる。

 「大、丈夫だ・・・・・・これしきの事・・・・・・」

 か細い呼吸の下、普段は毅然としているはずの声が、途切れ途切れに震えている。

「まずい、吐血は毒霧の末期症状だ」

 黒鵺が顔をしかめた。

 「でも妙だな。陣、霧の発生地帯に突っ込んだのは、二人一緒だろ? 妖力差がよっぽど開いてない限り、症状の進み方も同時のはずなんだが・・・・・・」

 何気なく黒鵺が口にした疑問に、まだ吐血まで至っていないはずの陣まで、顔から血の気を失った。

 「白狼、だ」

 飛行速度はそのままなのに、陣は己の腹の底に泥のような重力がズシンと沈みこんだのを感じた。その重みの名は、後悔。

 「凍矢以外で百足を足止めするには、完全形態の白狼さ呼ばなきゃなんねぇ。そん時かかった負担が、まだ回復しきってない内に、毒霧を吸い込んじまったから!

 しかも陣が合流するまで、凍矢は通常形態の白狼を召還し続けていたのだ。メモの指示通り。表情や妖気の波長には表さなかっただけで、実はそうとうの疲労を抱えていたに違いない。そもそも彼はまだ、白狼と契約を結んで日が浅いのだ。本当に慣れるのはトーナメント初日がギリギリだと、以前、本人がそう言っていたではないか。

 「オラがあんなメモ、渡したから・・・・・・! 凍矢、すまねぇ!

 「バカ、謝るな・・・・・・」

 小さく呟くのが精一杯の唇から、新たな血が伝う。呼吸一つさえ重労働のようで、瞼が急に重くなってきた。朦朧とする意識に懸命にすがりつきながら、凍矢は不規則な息の間から付け加える。

 「もう、手は・・・・・・打ってくれて、る」

 

 

 『躯様、解毒治療準備二名分、完璧に整いました。後は、本人達の到着を待つだけです』

 「わかった。時雨、お前はそのままそこに待機してろ。搬入は九浄と痩傑に任せる」

 躯が屋内無線を切ると同時に背後を振り返って、心配そうな眼差しを向けていた小さな獣を見下ろした。

「これでいいのか? 全てお前のご注文通りにしたぜ」

「ありがと! ありがと!

ぱっと表情を輝かせて、子狼形態の白狼がぱたぱたと尻尾を振った。

実はこの状況も、白狼の特殊技能がなせる技、緊急召還だ。契約した術者に命の危機が迫っている場合、瞬時にその状況と最善策を判断して速やかに実行に移す事ができる。ただしこの場合、出現する姿は子狼形態に限られる。そしてその行動は、術者の意識に自動的に伝達される。だが。

! ・・・・・・還らなきゃ。還らなきゃ」

急に半透明になった自分の体を、白狼は不安げに見下ろした。術者救済のための最善策を遂行できたら、その瞬間に緊急召還は解除される。どんどんその姿が薄れていく中、白狼は何かを思い出したかのように、躯を見上げて叫んだ。

「さっきごめんね! さっきごめんね!

百足を凍結させた事を詫びているらしい。躯が「気にするな」と告げると、白狼は安心したようにまた、尻尾を振って見せた。

一瞬小さな冷気が渦巻き立ち上り、それと同時に白狼の姿が完全に消え失せた時、流石も人間界の鈴駒からかかってきた携帯電話の通話を切った。

 「浦飯くん達、異次元砲の発射を解除できたって! 魔界直通ワープ航路で、もうすぐこっちに戻ってくるみたいよ」

 「じゃあ、正聖神党も当然片付いたんだな?

 「うん、完全壊滅だって。人質は全員無事に助かったらしいわ」

 これを聞いて棗は、椅子の背もたれに寄りかかって目を閉じている霊界人の少女二人と、躯お抱えの邪眼師、そして元妖狐の青年を見回し、司令室の隅っこに折り重なって倒れ後頭部にこぶをこさえた人間と、旧友の息子を一瞥した。

 「後は、こいつらがコエンマとか言う奴を連れてきて、陣と凍矢の解毒が終ればやっと大団円ってわけね。・・・・・・まだしばらく気が抜けそうにない、か」

 「にしてもあの二人、よりにもよって、虐鬼の泉の毒霧に飛び込んじまうとはな」

 九浄が、いつになく深刻そうな表情で呟いた。

 「オレは毒のことってよくわかんねぇんだけど・・・・・・マジで治せんのか?

 「時雨は魔界屈指の名医だ。信用しろ。奴ならオレの半身だって、目を閉じてても完治させられるはずだぜ。オレが治療を命じればの話だが」

 躯はその言動に余裕さえ混ぜてみせた。

 その時、壊されたままの窓から空の様子を伺っていた痩傑が、一点を指差して叫んだ。

 「戻ってきたぞ! 陣達の方だ!

 それを聞いた一同が、ハッとして振り向くや否や、ラストスパートをかけた陣と彼に抱えられた黒鵺に凍矢が司令室内に飛び込んできた。

 一瞬、室内の空気を全とっかえする勢いで突風が巡り、吹き抜ける。

 血塗れの凍矢と、ほぼ全身に亀裂が走って片腕と両翼の無い黒鵺を見て、流石が悲鳴をあげた。

 「時雨は?!

 呼吸困難のために、陣の声はすり減らしたかのように歪んでいた。

 「凍矢を、時雨んトコに! 早く!!

 「わかってるって、まかしとけよ」

 想像を超える惨状に九浄さえも息を飲んだが、ついに意識を失った凍矢を抱きかかえると、すぐに司令室を飛び出した。

 「陣、お前もだ、急げ! ・・・・・・? どうした、この血は。怪我もしてるのか?

 肩を貸そうとした痩傑に、陣は間隔が狭い呼吸を繰り返しながら首を横に振った。

 「んにゃ、凍矢のだべ。オラはまだ、自分で―――」

 どくん。

 内腑を、抉られるかのような衝撃。身体の奥から、不快な熱と錆びたような味が唐突にせりあがってきた。

 「陣!!

 黒鵺が叫んでいる。すぐ近くに彼は居るのに、何故か遠くから響いてくるようだ。

 「ぐっ、がふっ・・・・・・!

 燃える塊のような血を吐いて、立ち上がりかけていた陣がその場に崩れ落ちた。

 すんでの所でそれを受け止めた痩傑に、黒鵺は続けて叫ぶ。

 「急げ! 時間が無い!

 痩傑は頷きながら陣を抱えあげると、九浄の後を追って司令室を出て行った。

 二人分の足音が遠のくに比例して、司令室にはしばし沈黙が下りる。だが、器のひび割れと亀裂同士の摩擦が、なおさら耳についた。

 黒鵺は窓際の壁に背中を預け、片膝を立てて座り、もはやほとんど力の入らない左手をそのままだらん、と床に向けて下げた。

 「ちょっと、あんたはいいの? 見た目、一番ボロボロに見えるんだけど」

 座ったまま動こうともしない黒鵺に、棗が駆け寄って手を貸そうとするが、彼はゆるゆると首を横に振る。

 「医務室なんざ無駄だ。現世の医療は一切効かねぇ。それより……」

 今もなお、精悍な輝きの消えない眼差しが、司令室の中心に立つ女性を見上げた。

 「あんたが躯? 陣と凍矢は、助かるのか?

 「あぁ、時雨の腕にかかれば、確実に」

 「霊界の状況は、どうなってる?

 これには流石が、先ほど躯達に伝えた内容を、黒鵺のためにもう一度繰り返そうとした。

 だが、まさにその瞬間。司令室の隅っこが、急に騒がしくなったのだ。

 「いっっってぇええええ!! 案の定、まだ後頭部がいてぇ!!!

 「てめ、何だって重なってんだ、コラァ! さっさとどきやがれーー!!

 幽助と桑原の霊体が肉体に戻り、意識も覚醒した。

 「・・・・・・説明より先に結果がきたわね」

 安堵と呆れ半々で、棗がため息をつくのと同時に、蔵馬と飛影の霊体も戻ったのか、二人は目覚めるやいなや立ち上がる。直後にぼたんとひなげしも続いた。

 「蔵馬!!

 反射的に名を叫んだが、黒鵺にはそれが精一杯だった。足に全く力が入らない。しかも、大声を出した拍子に胸から喉元にかけてビシッと、大きくひび割れた。思わずその部分を押さえて呻く彼の左側に、何よりも懐かしい存在が駆け寄って膝をつく気配がした。

 「黒鵺・・・・・・! そんな、もう崩壊がここまで・・・・・・・?

 まさか、こんなに酷い状態だとは思わなかった。生身の身体だったなら、とっくに命が無いのではないか。これほどの苦痛と危険を、彼はずっと背負ってきたのだと思うと、胸の奥を捻り潰される思いがした。手を貸すのもためらってしまう。うっかり触れたら、その瞬間にバラバラと手の付けようがないほど崩れ去ってしまいそうで、怖い。

 「ちょっと、コエンマさんはどうしたの?!

 「魂保護のための道具を、探してる最中で・・・・・・ジョルジュさんや、あやめさん達も手伝ってるはずだから、きっとすぐに・・・・・・!

 「っつーか躯! そっちこそ、陣と凍矢は?!」幽助の怒鳴り声が反響した「何でそこに血だまりができてんだよ? あいつらに何かあったのか?!

 「虐鬼の泉に接近したせいで、毒霧にやられたんだ。だが今、時雨の所で解毒中だから心配要らない。あとはもう、コエンマが間に合うか否かだけが問題だ」

 幾人分もの切羽詰ったやり取りを背後に聞きながら、蔵馬はひびによる激痛に苦しむ黒鵺を、覗き込んだ。

 「聞いた通りだ、もうすぐコエンマが来てくれる。そうしたら魂を保護してもらえて、お前も助かるから!!

 「よか、った」

 注意深く聞いていなければ、そのまま聞き逃してしまいそうなほど、衰弱した声だった。つらい響きが鼓膜を打つのをこらえ、蔵馬は一度下唇を噛み締める。

 「あぁ、もう少しの辛抱だ。・・・・・・・だからそれまで、どうか」

 持ちこたえてくれ、と続けようとした蔵馬の耳に、黒鵺が紡いだ新たな言葉が届く。

 それは、ついさっきの一言よりも、僅かながらに力の戻った声だった。

 「お前達が、無事に戻ってくれて・・・・・・本当に、良かった」

 ゆっくりと顔が上げると同時に、今や重い荷物のような左腕を、黒鵺は懸命に持ち上げる。首まで侵食した亀裂は、彼が蔵馬の方へ向き直ろうとしただけでピシピシと鋭い音を立てたけれど、そんなもの黒鵺は気にしなかった。

 蔵馬が、ここにいる。手の届く場所にいる。

 その事実だけで、崩壊の痛みも消滅の危機をも凌駕するような、温かな優しい感情で満たされる気がした。初めて直接目の当たりにする姿にも、初めて耳にする声にも、微塵も違和感を感じない。切ないほどに、懐かしい。

 ただ、昔のように蔵馬を引き寄せ、その頭を撫でてやったつもりだけど、上手く掌や指が動かない。昔の銀髪とは手触りも違うのだろうが、それすら感じ取れない。そんな哀しい方の事実も、つきつけられたのだけど。

 「・・・・・・・・・会いたかった」

 千年という年月をも超える、万感の想いが紡がれる。無数の言葉を尽くしても表現しきれないはずなのに、出てくる言葉は酷く単純で。

 「本当は、ずっと会いたかったんだ」

 結局、あの屋根裏で、陣に見透かされた通りだった。 

「置き去りになんかして・・・・・・約束破ったりして、本当にすまねぇ」

 蔵馬の表情がくしゃりと歪んで、ずっと堪えていた感情がとうとう堰を切った。溢れ出す。心も、涙も。もう、止められなかった。

 「・・・・・・お人好し・・・・・・!

 冷たい亀裂に自らの体温を分け与えるかの如く、蔵馬は黒鵺の左腕に触れた。そっと、包み込むように。そこに頬を押し当てれば、ひびの隙間に彼の涙が沁み込んでいく。

 「どうして、お前はいつも・・・・・・初めて逢った時から、ずっと!!

白銀の光がまばゆく閃き、銀髪の妖狐が現れた。だけどそれは、かつて幽助達が暗黒武術会や魔界統一トーナメントで見た妖狐と、同一の存在にはとても見えなかった。その涙は、嗚咽は、叫びは、見聞きする者達の魂を掴んで揺さぶる。

 「何だよ・・・・・・まだ、泣き虫直ってねーのか? 子狐」

 「誰のせいでぶり返したと思ってる?!

 ひび割れる音が、ひっきりなしに響く。どんどんペースが上がってるように聞こえた。

 「嫌だ、消えるな、二度もお前を喪うのは嫌だ!!

 蔵馬がぶんぶんと激しく首を横に振ると、とめどなく溢れ続ける涙が左右に千切れた。

 こんなことのためじゃない。彼と自分が出会ったのは、こんなに残酷な永別を迎えるためなんかじゃなかったはずなのに。二人の間には、壮大な夢が輝いていたのに。あんなにも。

 「置き去りにしたのは・・・・・・オレが先だ。謝るべきなのも、オレの方なんだ」

 涙の向こう、かりそめの器とは思えぬくらい、在りし日のままな優しさを湛えた紺色の双眸の中に、彼と共に生きた頃の自分の姿がある。

 「例え極悪非道に堕ちようとも、黒鵺を忘れた事なんて無かった。思い出さない日はなかった。オレもずっと会いたかったんだ! 叶わぬ願いとわかっていても!

 存在するはずの無い面影を、無意識の内にずっと探していた。

 「蔵馬・・・・・・もういい」

 どうしようもない歯がゆさが、黒鵺の胸を穿った。

 蔵馬を哀しませるつもりなんか、昔も今も毛頭無いのに、どうして自分は肝心な時にうまく立ち回れないのだろう。

 「もう、オレのためになんか、泣かないでくれ。ただ、これだけはわかって欲しい。かつて・・・・・・」

 

ビキビキビキ!!

 

 穏やかな深い声を遮る不協和音。ついに亀裂は黒鵺の喉を通り越して、顔はもちろん髪の毛一本一本までにも及んだ。

 「黒鵺!!

 視界が、まるで叩き壊された鏡を見るようにひび割れて、光景が上下にずれた。目の前の蔵馬までも。だが黒鵺は、きしむ唇をこじ開けるようにして、一番伝えたかった言葉を綴る。まるで、抱きしめるように。

 「蔵馬と共に過ごした日々は・・・・・・全て、余すところ、無く・・・・・・幸せ、だった。お前が、いて、くれたか、ら・・・・・・あ、逢えて・・・・・・良かっ、た・・・・・・」

 自分ではもう、己の言葉さえろくに聞き取れなかった。蔵馬には、正確に伝わっただろうか。

 視界から、蔵馬も百足の司令室も消えた。突然、金色の光一色に染め上げられたのだ。それと同時に、足元から器が弾けて空気中に霧散していくのが分かった。

 何も聞こえないはずなのに、一気に己が音を立てて崩壊していく瞬間を、確かに聞いた。

 その感覚を最後に、黒鵺の意識が、完全に途絶えた。

 

 

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