第九章・愛し君へ

 

 

 躯の大統領就任直後、癌陀羅の宮殿の奥に設立された諜報機関本部。司令官である黄泉は、そこに隣接した執務室を持っている。デスクで諜報員達から寄せられた報告書をチェックしている彼の携帯に、陣からの着信があったのは、蔵馬と黒鵺が悠焔に向かって間もなくの事だった。最初黄泉は、陣が悠焔について何か勘づいたのではないのかと思った。宮殿を出る直前に、蔵馬から「オレ達が悠焔の過去を読むことはもちろん、そこに行った事自体誰にも言わないでくれ。特に、陣には絶対だ」と言われていたので、とっさに適当な言い訳を二、三個ほど用意したくらいだ。だが幸い、陣が言わんとしているのは黄泉の勘を外れていた。

 とはいえ彼の口から語られたのは、決して楽観して聞ける類のものではなかったけれど。

 「なるほど、一週間後に四強吹雪の命日、か。雹針が全ての決着をつけようとしているのは、お前の言う通りその日が最も可能性が大きいだろう」

 陣と凍矢の両親が絶命したというその日は、雹針にとっても大きな意味を持っているに違いない。二人にとってとは、全く違う形で。

 『まだ想像の段階だけんど、雹針がオラを処刑するんだとしたら、そのタイミングを狙ってるとしか思えねぇだ。とーちゃん、かーちゃん、涼矢さん、それに魅霜さんが死んだのと同じ日に、凍矢の姿でオラを殺す・・・・・・あの外道がやりたがりそうなもんだべ』

 超人的聴覚を持つ黄泉には、陣と一緒にいる六人衆の面々はじめ、他の77戦士らの声や息遣いも聞こえた。「悪趣味極まる、としか言えんな」と苦々しいため息をつく鈴木。「斬る! あやつの本体は絶対にオレが斬り刻んでくれる!!」と喚いているのは小鬼状態の死々若丸だ。鈴駆と流石、それに息子・修羅の憤慨丸出しなブーイングが、重なっている。荒々しく壁を殴りつける音・・・・・・この乱暴加減は酎か、それとも九浄か。

 「さらにオレの想像を付け加えさせてもらうなら、雹針は同時にこの戦争に勝利者として終止符を打つつもりだろうな。裏切り者の処刑を見せしめに、魔界の覇権を奪う。インパクトの大きさとしても効果的だろう」

 携帯電話越しに、陣の息を呑む音が聞こえた。魔界の命運を左右するカウントダウンも、一緒に聞こえ始めてきた気がする。

 『何にせよ・・・・・・もうあんまり時間がねぇ。凍矢助けられる期限も、そこが限界のはずだべ。オラが処刑されて77戦士が負かされちまったら、あいつのために動ける奴はほとんどいねぇ。幽助と蔵馬、それに桑原が助太刀してくれたとしても、そう簡単に勝ち目があるとは思えねぇだ』

 それ以前に、魔界が雹針の手に落ちたら人間界はもちろん、霊界にも最大の危機が訪れる。雹針は三界を牛耳る覇王にならんとしているに違いない。躯や黄泉、77戦士さえどうにかできれば、魔忍に敵はいなくなる。

 『ただ、期限がはっきり特定できたっつーことは、対策立てるための参考にもなるはずだべ。今の時点じゃ、何をどうすればいいのかオラの頭じゃわかんねぇだけどな』

 未だに、魔忍の里の現在地さえ割り出せていない。圧倒的にこちらが不利だ。

 『躯がまだ目ぇ覚まさねぇし、まとめ役として頼れんのは黄泉しかいねぇ。とにかく里を見つける事を、引き続き最優先で頼むべ。オラ達も百足の修復作業が終わったら、里捜索に専念させてもらうだ。そのためにもよ、作業急ぎてぇから、そっちでの用事が片付いたらこっちさ来てけろって、蔵馬と黒鵺に伝えてくれねぇだか? なるべく早めに頼むだよ』

 「あぁわかった。遅くとも日付が変わる前には、百足に到着できると思う」

 『おう、何かわかったら、すぐ連絡してけろな』

 そこで、通話は終了した。電波の途切れた携帯を片手に、黄泉は小さく息をついた。

 蔵馬は悠焔に、陣には見せない方がいいだろう過去があるかもしれない、と推測していた。そのために、雹針はわざと妨害妖波をしかなかったとも。そして一週間後に迫った、四強吹雪の命日。

 何かを危惧しているようだった蔵馬。その理由がわかった気がする。繋がってほしくない点と点が繋がってしまうかもしれない。

 

 

 妖力を封じる手枷で戒められた魅霜は、ほんの少し怯えた風を装いながら、下級兵に前後を挟まれた状態で野営地を歩いていた。それとなく観察してみると、下卑た好奇の眼差しや、あからさまな口笛が自分に向かって飛んでくる。ついこの間まで、それぞれ傭兵として個人活動していた感が拭えないというより、わかりやすすぎて驚いた。隊としての統率や結束がこれっぽっちも感じられない。一万人という人数に安心してしまっているようだった。

 確かに、魔忍もずいぶんとなめられたものだ。穏やかな性分の魅霜にさえ、いささか腹立たしい。雹針は珍しく警戒を強めていたけれど、どうやら杞憂のようだ。

そのまままた少し歩くと、野営地の中で、最も大きなテントが見えてきた。そこに通された魅霜の前に、蛾渇公国の即席総司令官がふんぞり返っていた。妖気の波長からして、確かにここに集められた兵士達の中では最強なのだろうが、それだけだ。長年の軍隊仕込みのそれとは思えない。

 「総司令官、つれてきましたぜ。世にも珍しい氷女だ!

 心身ともに鍛え上げられた本場の軍隊なら、敬礼もせずに上官に向かってこのような口の聞き方など、言語道断だ。しかし、そこは臨時で群がった烏合の衆。総司令官も全く気にせず、さっそく不躾かつ無遠慮な目線で魅霜を嘗め回すように観察し始めた。

 その動きに合わせて、頭に生えている複数本の角がテント内に影を落とし、揺れていた。

 「氷河の国さえ未だ謎に包まれているってぇのに、そこの住人にこうも簡単にお目にかかれるとはなぁ。いやぁこいつは、幸先良さそうだ」

 大股で近寄ってきた総司令官は、ぬらぬらした光沢を放つ三本指の手で、魅霜の顎を掴み上向かせる。粗暴な両眼に睨みつけられ、その眼光に怯んだように震えて見せながら、魅霜はこれまで何度も繰り返してきたお決まりの台詞を口にした。

  「私の涙がお望みならば、いくらでも差し上げましょう。ですからどうか、乱暴な事だけはお許し下さいまし。あなた様に心から忠誠を誓いますから、なにとぞ、御慈悲を・・・・・・」

 ほぉ、と総司令官が嬉しそうに口角を上げた。台詞もお約束だが、それを聞いた者達の反応も似たようなものだ。早く済ませて、子供達の所に帰りたい。そして、旅立つための準備を。

 氷女の演技を続けながら、密かにそんな事を考えていた魅霜を覗き込むように、総司令官がぐぐっと顔を近づけてきた。どこか得意げな面差しで。

 「そうやって、何人暗殺してきたんだ? 呪氷使い魅霜」

 一瞬降りた沈黙。魅霜にはそれが、永遠のように長く感じた。ふだんなら途切れることの無い彼女の精神力が、ふつりと完全に叩き折られた。瞬きよりも短いが、しかしそれこそが戦場では命取りになる。魅霜は強引に自らを叱咤して動揺を押し隠し、切り返すための言葉を捜した。

 「・・・・・・何をおっしゃっているのか、よくわかりません。誰と間違えておいでですか? 私は」

 「なかなかの女優だが、もはや名乗るだけ無駄だぜ。しかし氷女は美人が多いって聞いたが、魔忍のくの一も十分イケてるじゃねぇか」

 げひひひ、いやらしい笑い声が眼前に降りかかるが、もはや魅霜にはほとんど聞こえなかった。 

 正体を見破られた。こんな、寄せ集めの集団でいい気になるようなお山の大将如きに。何故? 一体どこから情報が漏れた? 自分達に落ち度は無いはずだ。そもそも今回は、里のほとんどの忍者達にさえ知らせていない極秘任務だというのに。情報漏えいなど、これまでで最もありえないはずなのに。

 とりあえず、自分が最悪な状況に置かれている事は理解した。

 彼女は今、妖力を完全封印された無防備な、しかも身動きすらまともに取れない状態だ。顎を掴んでいるこの不気味な手がちょっと力を加えるだけで、魅霜の華奢な顎骨は砕けてしまうだろう。

 万事休す。その言葉の意味を、初めて直に感じた。

 「こりゃあすげえや!!」そばに控えていた兵士の一人が声を上げて笑う「魔界忍者・四強吹雪の一人を、こうもうまい事ふんじばれるとはなぁ」

 「妖気封じたままでも、泣きゃあ氷泪石流すんだっけ?」別の一人が既に頭の中で皮算用を始めた「総司令官、一稼ぎしましょうよ! 本物の氷女のと比べて価値が違うのかどうかはわかんねぇが、高く売れるのは確実だと思いますぜ」

 「馬鹿、慌てるな」

総司令官は余裕しゃくしゃくで、今度は魅霜の顎を掴む手に少し力をこめた。関節が体内で軋む音が聞こえる。苦痛ではなく屈辱で表情を変え、こんな状態でも気丈に自分を睨み上げてくる呪氷使いに総司令官は面白そうに笑みを深める。

 「それ以上の報酬は、すでに保障されてるだろ。ナンバー2の閃含めあと三人もいるんだから、さっさと次の行程に移るとするぞ」

 「何の話をしているのですか・・・・・・!

 唇をこじ開けるように、魅霜は鋭い声を飛ばした。発声しにくいが、さすがにこのまま黙ってはいられない。

 「誰が貴方がたを買収したのかも気になりますが、それよりあと三人ですって? 我が夫と親友達の事ですか? 彼らに危害を加えるのは、この私が断じて許しませんよ」

 「許しませんよ、だぁ? はは、冗談にしちゃ笑えねぇなぁ。力も自由も奪われた囚われの身に、一体何ができるってんだ? てめぇを生かすも殺すも、俺のさじ加減しだいだぜ」

 「殺したければ、さっさとお望み通りになさいな」

 それでも魅霜は、凛としたいつもの心を崩さない。それだけは、決して揺るがない。

 「この身が死に絶え朽ち果てようとも、私の大切な人達を傷つけるなら、地獄の底からでも呪い殺してみせますよ。あなたが私を手にかけたその瞬間に、証明して差し上げます。さぁ、やってごらんなさい!

 今の魅霜は、完全に無力のはずだ。しかしそれが信じられなくなるほどの気迫。その場にいる全員が気圧されて絶句した。兵士の一人は、本当に彼女を拘束できているのかどうか、その両手を戒めている妖具を確認するほどだ。

 しかし。次の瞬間、ばさりと音を立ててテントの入り口から新たに誰かが入ってきたとたん、彼らの間に一気に安堵が広がった。

 「こ、これはどうも、お世話んなってます」

 総司令官が、明らかに媚を売っている。誰だ? この合同軍のトップは、とりあえずこの男のはずなのにこうも下手に出ているという事は、もしや彼らの買収主か? 妖気を封じられた魅霜には、相手の妖力のほども妖気の波長もわからない。顎を掴んでいた手が僅かにゆるみ、どうにか目線を後ろに捻る。

 

再び、沈黙。時流の静止・・・・・・そして、終わりの始まり。

 

 「魅霜、遅いな」

 涼矢が隠し切れない不安とともに呟いた。閃と飛鳥が顔を見合わせる。二人も、涼矢と同じ事を考えていた。

 いつもならばとっくに、雹針の妖術によって作成された、魔界忍者にしか視認できない発光弾が空に打ち上げられているはず。なのにまだ、見慣れた光の弾丸が陰鬱な魔界の空を貫く気配がしない。それどころかいつの間にやら、野営地自体からそこにいる者達の気配が感じられなくなっていた。

 「なぁ、やけに静かでねぇか? 灯りはまだついてっけど、そこに誰かがいるような感じがしねぇだよ」

 飛鳥の表情に不審そうな影が差す。彼女の言う通り、距離としてはかなり離れているここでも、兵士達の動きやざわめきといった漠然とした雰囲気くらいはわかるはずだ。なのに、いつのまにかそれすら無い。野営地は変わらず存在するのに、まるで空っぽだ。その場所で、空間の中で、誰かが動いている気配が無い。

 「・・・・・・まさか、軍の連中消えちまったんけ?

 閃が空中座禅を解き、態勢を整える。

 「妖気消して潜んでるってようには思えねぇだ。あの野営地、もしかして今誰もいねぇんじゃ・・・・・」

 「そんな馬鹿な! 一万もの兵士がオレ達に気付かれないまま、どうやって雲隠れするって言うんだ」

 涼矢が即座に否定する。一万どころか、例えたった一人でも、野営地を離れていたとしたら彼らが見逃すはず無いのだ。絶対に。

 「第一、魅霜は? 野営地に何かしら異変があったのだとしたら、あいつが真っ先に気付いて発光弾を打ち上げているはずだろう?

 「あるいは、もしかして・・・・・・」

 あってほしくない可能性に、飛鳥が思い当たった。

 「今の魅霜は、オラ達に連絡とれねぇ状況にある、とか・・・・・・」

 外れる事を切に祈りたい仮定だが、だからといって目をそらすわけにはいかないようだ。三人は魔忍となって初めて、魅霜からの合図を待たず強行突入することに決めた。

 

 注意深く物陰に隠れながら野営地に接近してみたが、やはり兵士達の気配は一切感じられない。近づけば近づくほど、空虚さばかりが押し迫ってくる。 とりあえず一番外側のテントの様子を伺い、小窓から中を覗いてみたが、やはりも抜けの殻だ。隣のテントも、またその隣のテントも。

 ついに三人は身を潜めることをやめ、堂々と野営地内部に姿を現してみたが、何の反応も返ってこない。妖気を隠すことすらやめたのに、だ。

 「何なんだべ、一体?!」閃が頭を抱えた「一万の兵士が、本当にどこにもいねぇだ。隠れ場所なんかあるわけねぇのに、なして?!

 「こんな不気味な雰囲気、初めてだべさ」飛鳥が薄ら寒さを感じ始める「灯りもつけっぱなし、飲みかけの酒ビンやくいかけのモンも残されてるだよ。隠れたとかどっか離れたとかじゃなくて、兵士達がいきなりごっそり消えちまったみてぇだ」

 「ここで、何があったというんだ? しかも、オレ達が見落としたとは・・・・・・」

 まさか、魅霜もどこか、自分のあずかり知らぬ所へ消えてしまったのか?

 涼矢が弾かれたように駆け出した。とにかく、野営地を隅から隅まで調べつくさなければ。疾走する彼を、閃と飛鳥があわてて追う。だが彼らの足は、野営地の中心部分に差し掛かった地点で早々に止められた。広場のように開けたそこの真ん中に、祭壇のようなものがしつらえられている。自分達がいた丘の上からは、総司令官用の、最も大きなテントの死角になっていたようだ。

 その上で、氷女の衣装を剥がされ、忍び装束に戻った魅霜が仰向けになっていた。意識が無いようだ。しかし彼女の姿を見つけるのと、おびただしい血の匂いに気付くのと、どちらが先だっただろう。

 言葉もなく駆け寄った涼矢達は、想像もしなかった惨状に心も体も打ち砕かれたような気がした。

 小柄で細い魅霜の両手のひら、左右の二の腕、両足の甲と膝の部分、そして腹部のど真ん中に、細長い黒水晶が矢のように突き立てられているではないか。それら全てが魅霜の身体を貫いて、祭壇に縫いとめているのだ。

 「魅霜!!

 割れたような涼矢の絶叫で、閃と飛鳥はようやく我に返った。彼に続き、大急ぎで祭壇に飛び上がると、魅霜の体から黒水晶の矢を引き抜こうとするが、どんなに全身で力をこめてもびくともしない。まるで根を張っているかのようだ。

 「魅霜! 魅霜しっかりしろ! 目を開けてくれ! すぐに助けるから!!

 涼矢がここまで取り乱すさまを、閃も飛鳥も、そして魅霜ですら、今まで一度も観たことが無かっただろう。 

 「惨い事、しやがって・・・・・・! 魅霜、てこずってごめんな。絶対、何とか、してやんべさ!

 右膝に刺さった矢に集中して、飛鳥は必死で引き抜こうとするが全く微動だにしない。四人の中で最も力のある閃でも、どういうわけだか少しも動かせなかった。三人とも、矢を強く握り締めすぎた勢いで手の平に己の爪が食い込んだのも気付かないくらい無我夢中だが、それでも黒水晶の矢のようなそれは、魅霜の身体を貫いたまま。じくりじくりと、また新たに鮮血があふれ出す。

 「ちくしょう! ただの数合わせかと思ってたら、まさか魅霜がこげな目にあわされっとはな!

 左二の腕に刺さっていた黒水晶をいったんあきらめて、閃は涼矢と同時に腹部に刺さった方を先に引き抜こうと二人で力を合わせてみたが、それでも抜けない。

いくらなんでも、これはおかしい。もしや、ただの黒水晶ではない? ふと、涼矢がそう思い至った瞬間、か細い声が彼の鼓膜に触れた。

 「あ、あなた・・・・・・?

 消え入りそうなその響き。涼矢が聞き逃すはず無かった。

 「魅霜! 気がついたのか。助けに来るのが遅れてすまない。もう少しの辛抱だ。必ずお前を」

 「逃げ、て・・・・・・早く、逃げてください・・・・・・閃と、飛鳥も・・・・・・は、はや、く」

 「何言ってる? オレ達全員、一蓮托生と約束しただろう?!

 左手で黒水晶の矢を掴んだまま、涼矢は右手で魅霜の頬を撫でてやった。

 「だから、そんな寂しい事言ってくれるな。決めたんだ、もう二度とお前を一人にしないと」

 「そうだべ! 逃げなきゃなんねぇなら、なおさら魅霜だけ置いてけねぇだよ」

 親友を安心させようと、飛鳥はことさら明るい笑顔を浮かべて見せた。

 「第一オメがいなくちゃ、涼矢は昼も夜もあけねぇかんな。オラと飛鳥じゃ手に負えねぇべ。一緒にいてくんなきゃよ!

 閃も声に力をこめて励ましたが、魅霜は哀しそうに首を横に振るばかり。喉元までせり上がる血にむせながら、それでも声を絞り出す。

 「駄目・・・・・・駄目です。私の、息が・・・・・・あ、ある内に、ここを、離れ、て、ください・・・・・・」

 弱弱しい動きに合わせて、彼女の瞳から零れた涙が一粒氷泪石となって、祭壇に転がった。

 かつん

 そのかすかな音を合図にしたかのように、魅霜の声がさらに力を失い、目蓋が重そうに震えた。

 「・・・・・・はや・・・・・・く・・・・・・も、もう・・・・・・まに、あわ、な」

 「魅霜、魅霜!! あきらめるな! 人間界に行くんだろう、凍矢達も一緒に! お前がこんな所で死ぬな! これからもっとオレと共に、生きてくれるんじゃないのか!!

 縋るように切迫した涼矢の声が、閃と飛鳥の胸にも痛々しく響いた。それこそ矢で射抜かれたような痛み。

 「・・・・・・凍矢・・・・・・ま、守って・・・・・・あなた・・・・・・涼矢・・・・・・あい、し」

 不自然に途切れた言葉。再度閉ざされた双眸。最も来てはならないはずの瞬間。数え切れない程の戦場を踏み越えてきた彼らには、聞きたくなくても聞こえてしまった。生命が完全に力尽きる音。声鳴き断末魔。

 「―――み」

 茫然と妻の名を涼矢が呼ぼうとした刹那、黒水晶が鈍く発光したかと思うと、ピキピキ音を立てて細かいひびが走り、あっさり崩れ落ちてしまった。あんなに奮闘むなしかったのが嘘のように。それに驚くまもなく、今度は祭壇の下に黒水晶と同じ色の魔方陣が現れた。ブウン、と唸りをあげるような音と共に、今度はそれが光を放つ。その光は一瞬で広がり、まるで生き物のように地面を走った。

 光は野営地の外側まで走りぬけると、今度は上に移動する。そして半円のドーム状に野営地ごと覆い包んでしまった。閃達がいる祭壇は、ちょうどドームの頂点の真下に当たる。

 「これ、結界だべか?

 空を覆った不気味な壁を見上げる飛鳥とは対照的に、閃は地面に描かれた魔法陣が気になった。

 この紋様のパターンに、何故だか見覚えがある気がする。しかし、彼が記憶を手繰り寄せる間もなく、その場の状況が一変した。

 祭壇を中心にした広場。その地中から、砂煙を巻き上げて消えたと思われていた兵士達が次々と出現し始めたではないか。耳障りな嬌声を上げながら、どんどんどんどん沸いて出てくる。見る間に広場は、いや野営地はおよそ一万の兵士達で埋め尽くされ、広場中心の祭壇にいた閃達は完全に取り囲まれてしまった。

 「い、一体何が―――?!

 「あんた! あれ! あの紙!

 飛鳥の指差した方に目を凝らすと、兵士達の足元には何枚もの白い正方形の紙が散らばっていた。広場に敷き詰められた絨毯のようなそれら一枚一枚に、魔方陣が書いてある。しかもそれらは、閃達の目の前であっけなく煙のようにかき消え、ただの白紙と化していった。兵士達は地中から現れたのではなく、土を薄くかぶせて隠されていた魔法陣から飛び出してきたのだ。おそらく、野営地から消えたのも、同様にこの魔法陣を使ったに違いない。兵士達の間で順番を決めて、怪しまれないよう少人数ずつ。使用後に残る白紙を、うまい事隠しながら。

 それにしてもこれは、まるで・・・・・・

 「・・・・・妖怪軍団、いや、陰陽師どもの魔方陣?!

 思い出した。以前、人間界遠征した時。陣と凍矢を拉致していった妖怪軍団が使用したという、瞬間移動の術そのものではないか。それに、奴らのアジトの至る所にも正体不明の魔法陣が描かれていた。あれ自体は何の効力があるのかわからなかったが、今正に自分達の足元にある魔法陣の描き方とそっくりだ。

 蛾渇公国とあの妖怪軍団、もしくは陰陽師らに接点でもあったというのか? そんな情報、どんなに調べても出てこなかったのに。わけがわからない。

 「かの四強吹雪が、袋のねずみとはザマぁねぇな。おっと、もう三人だっけ?

 ずい、と一歩前に進み出た総司令官らしき妖怪が、得意満面で声高らかに嘲笑した。

 「一万人対三人。奇襲できないままの正面対決じゃ、もう結果は見えてるぞ。命乞いくらいは聞いてやってもいいぜ」

 下っ端の兵士達から、どっと笑い声が起こる。楽しそうな口笛まで混じっている。閃と飛鳥の胸の奥に冷たい嵐が吹き荒れ、同時に血潮は燃え滾り頭に上った。

 「何が命乞いだ、くだらねぇ!」だん! と一回足を踏み鳴らし、閃が吼えた「それするハメさなんのはどっちか、嫌ってくらいわからせてやるだ!

 血を吐く勢いの怒声を聞きながら、飛鳥はきり、と歯の奥を軋ませる。

 こんな、こんなふざけた連中のせいで、魅霜は。最期の瞬間まで仲間を、家族を案じていた彼女が。こみ上げそうな涙を飲み込む。閃も本当は堪えているはずだ。魅霜を想えばこそ、泣いてはいられない。その前に、しなければならない事がある。

 「魅霜をこげな目にあわせた事、地獄で後悔するといいべ! 土下座しても許さ・・・・・・」

 叫ぼうとした飛鳥と閃の背後で、突き刺すような冷気と殺気が立ち昇る。哀惜、絶望、そして底知れぬ怒りが、そこで渦を巻いている。その中心で涼矢は、事切れた妻の両手を胸の前で組ませてやっていた。その動作だけは、切ないほどに優しい。立ち上がると同時に、彼は右手に呪氷剣を現出させた。

 「どうせ後悔するのなら」絶対零度の声。低く静かな絶叫「この世に生まれた事自体を、悔いた果てに死ね」

 

 魔界の片隅。全く人里の無いそこに突如膨らんだ、黒水晶の結界。その内部だけが、凄絶な戦場となった。逃げ場の無い閉ざされた空間は、そこだけが切り取られたように異質で、荒涼とした殺風景な周囲とは正に別次元であった。

 怒号が、悲鳴が、血しぶきが飛び交う。上空で主に空軍と死闘を演じていた閃は、すぐに飛鳥とはぐれ、涼矢を見失った。それに地上からも攻撃がとんでくるため、方向感覚さえ危うくなる。

 魅霜を喪い、不利な戦況に立たされて脳内が沸騰したが、妙に冷めた一部分が違和感を覚えた。

 いくら一万の兵に囲まれたといえども、間に合わせの烏合の衆相手に、自分達がここまでてこずるのはありえない。氷女として潜入する魅霜は、大抵妖気を封じられてしまうから、その状態の彼女が予想もつかないような卑劣な罠を仕掛けられたというのなら、囚われてしまったのはまだ納得できる。

 だが、閃も飛鳥も涼矢も最初から戦闘可能状態だった。むしろ、激情が闘志にさらなる火をつけていて、全くの手加減無しで妖力を振るっている。なのに、なかなか敵に致命傷を与えられない。相手の攻撃が、嫌に重い。戦闘は自然長引き、ダメージと疲労が着実に積み重なっている。

 ふと、閃の脳裏をある予感がかすめた。

 妖力が、弱まっている。目に見えない第三者の力によって、抑圧されている。渾身の力をこめた精一杯の一撃も、何だか分厚い緩衝材を間に挟んでいるかのように、手ごたえが鈍い。

 それを自覚した直後、予感が確信に変わる一言が聞こえた。兵士達の内の誰かが、舌打ちして吐き捨てたのだ。

 「しぶてぇな! これで本当に妖力三分の一かよ!!

 反射的に、閃はドーム状の結界を見上げた。まさか、これのせいか。

 魅霜が息絶えたとたん、砕け散った黒水晶の矢。描き出された魔法陣。そしてこの結界が現れた。魅霜は、自分の息がある内に逃げろと言っていた。思い出して、閃はぞくりと背筋を悪寒が走るのを感じた。振り払うように、手近な敵に修羅旋風拳を叩き込む。

 まさか、もしかして。この結界は、ターゲットとする妖怪――すなわち、閃と飛鳥と涼矢――の妖力値を三分の一に弱めるためのもので、魅霜は妖術完成のための生贄だったという事か。だから、彼女の死がスイッチとなって結界が発動したのか。

 「ふざけやがって・・・・・・!!

 それでも閃は、絶望しない。飛鳥と涼矢がここまで思い至ったかはわからないが、きっと二人もあきらめないはずだ。こんな卑劣な連中なら、それこそ負けられない。弔い合戦なのだ。他ならぬ、魅霜のため。

 「この程度じゃ、ハンデにゃなんねぇだぞ!! 簡単に勝てねぇなら、なぶり殺しにしてやるだけだべ!!

 額から流れる血で視界が霞んでも、閃は戸惑わずに宙を舞う。そうして戦っていると、自分のものではない風の動きと、冷気の気配を感じる。そのまま死ぬな。負けるな。

 祈りにも似た叫びは心中のみのものか、それとも実際に声に出していたのか、すでに閃は自覚できなくなっていた。

 

 それから、どれほどの時間がたっただろうか。日付はとっくに翌日へと塗り替えられ、暗雲垂れ込める魔界の空も、夜が明けたとわかり始める頃。黒水晶のドームの中が、不気味なほど静まり返っていた。

 意識を取り戻した閃が最初に自覚したのは、暗さと重さだった。目を開けているのに視界は閉ざされたままで、上から重苦しい圧力がのしかかっている。自分がうつ伏せに倒れていると気がつくのにさえ、少々の時間を要した。

 どうやら閃の上には、兵士達の死体が複数折り重なっているらしかった。内臓まで圧迫されているようで、息が苦しい。

 とにかく這い出すためもがこうとして、閃は声にならない悲鳴をあげた。今まで経験したことも無いような激痛が、全身を駆け巡る。脈動に合わせてじわじわと浸透してくるようだった。

 派手に、やられちまったか・・・・・・

 思わず漏れた苦笑すら引きつる。閃はバラバラに引き裂かれそうな苦痛に耐えながら、懸命に死体の山から這い出した。視界が開けてようやく、自分の有様が見えた。忍び装束の殆どが鮮血で染まり、未だべったりと湿っている。どうやらまだ、出血は止まっていないらしい。痛みの範囲も広すぎて、もはやどこに傷口があるのかがわからないほどだ。おそらく何本か、骨も折れている。

 「飛鳥」

 しゃがれた声を振り絞って呼んだとたん、閃は激しく咳き込んだ。がぶっ、ごふ、とくぐもった音と一緒に血の塊を吐き出す。折れた骨の内の一部は、アバラ骨だったようだ。おそらくそれのせいで肺も損傷したらしい。のどの奥からひゅうひゅうと聴き慣れない音がする。

 自分がこんな状態なら、飛鳥と涼矢はどうなってしまっただろう。とにかく探さなくては。立ち上がろうとして、失敗した。右足も使い物にならなくなったようだ。辺りを見回すと、手を伸ばしてようやく届く範囲にこん棒のような武器が転がっている。杖の代わりにしては重いし使い勝手が悪いが、この際どうでも良かった。

 死屍累々。正にそんな事がぴったり似合うそこは非常に足場が悪く、一歩進むのも苦労したが、それでも閃は立ち止まろうとしなかった。もはや感覚の無い右足を荷物のように引きずりながら、妻と親友達の名前を呼びながら、満身創痍の体に鞭を打つ。ややして閃は、あの祭壇らしきものの残骸を発見した。複雑に木材を組み合わせて作ってあったが、すでに見る影も無い。もしやと思って残骸の中心を覗き込み、そこで完全に動きを止める。

 あぁ遅かった。生まれて初めて、心底後悔した。

 涼矢が、すでに息絶えていた。閃よりも若干肉付きの薄い背中を埋めつくすように、剣に槍、短刀、矢に加えて斧まで突き刺さっている。よけられなかったのではない。涼矢はあえてよけなかった。その答えは、彼の腕の中にある。

 魅霜を、抱きしめていた。彼女の亡骸は、あの黒水晶が刺さっていた箇所以外に傷は殆ど無かった。涼矢が守り抜いたのだ。彼はここを動かず、魅霜がこれ以上傷つけられないよう兵士達を迎え撃っていた。自らの背中を盾にして、退路も断ち切って。最期には、強く抱きしめて。顔だけ見たら、二人ともただ眠っているだけのようだ。

 だけど、この一瞬に至るまで、涼矢はどんな死闘を演じたのだろう。惨憺たる背中から想像するよりもっと、それは過酷だったに違いない。

 「魅霜をもう、一人にしねぇって、言ってたもんなぁ・・・・・・」

 涼矢はやっぱすげぇべ。まるで彼らが生きていた頃のように、閃は語りかけていた。返事などもう、二度と返ってこないと知りながら。

 魅霜は幼い頃から心根の芯こそ強かったが、小さくてやせっぽちでおまけにとてもおとなしくて、本当に魔忍として戦場に出られるのか、子供心に閃は心配だった。あたかも、兄になったかのような気持ちで。そんな魅霜をいつでもそばで庇い、守っていたのが涼矢だった。初めて逢った頃、女の子と間違えて顔面に氷の塊を叩きつけられた。呆気にとられる魅霜の隣で、飛鳥が腹を抱えて笑っていた。

 醜く淀んだ救いようの無い闇の中でも、四人でいたから笑っていられた。戦って強くなる事を、嬉しく思えた。それは彼らを支える力にもなるから。血なまぐさい戦闘のためだけではないのだと。

 だけど今、自分達は血と死体に埋めつくされた戦場のどん底にいる。涼矢と魅霜は、そこで物言わぬ屍となっている。

―――――なしてだ。なしてオラ達、こげな所にいるんだべ。

 ふと気付いたら、涙が止まらなくなっていた。哀しい。寂しい。辛い。悔しい。心細い。体の傷よりも痛烈な悲鳴が、心から噴き出している。苦しい。苦しい。

 せめて、涼矢の背中を侵食した武器の数々だけでも取り除いてやりたかったが、閃にはそんな余力さえ残っていなかった。だけども、ずっとここで立ち止まっているわけにもいかない。まだ飛鳥が見つかっていない。

 戦いの最中に見失ってしまったけれど、そんなに離れていないはずだ。その確信を支えに、親友二人をいっぺんに喪った絶望から己を奮い立たせる。涙と、顔についていた血を一緒にぐいと拭って、閃は再び歩き出した。

 「飛鳥!                                                                                              

 肺を引き千切られそうな痛みにも構わず、閃は精一杯の力を込めて、この世で一番愛おしい名前を叫ぶ。どうか、どうか今度こそ間に合ってほしい。飛鳥の顔が見たい。声が聞きたい。まるで何十年何百年も離れていたかのように、彼女が恋しかった。それ以外の言葉を喪ってしまったかのように、閃は飛鳥の名を呼び続けた。

 気が遠くなるほどさまよって(だけど実際には、大した距離をもう、彼は歩けなかったのだけれど)、閃の耳がようやくか細い声を拾い上げた。その声が正確に何と言ったのかまで、聞き取れたわけではない。だけど、その声の主が誰なのかを、閃が聞き間違えるはずなど無かった。

 「飛鳥・・・・・・飛鳥だべ! どこだ?!

 「あんた・・・・・・こ、こ」

 斜め右前方に、視線が引き寄せられる。

 地面が丸く大きく抉られているのが見えた。よろけながらそのふちにたどり着くと、クレーターの中心で飛鳥が倒れている。杖代わりにしていたこん棒を捨て、閃はほとんど転がり落ちるようにしてクレーターの底に下りた。

 「オメ、生きててくれたんだべな! 今助け」

 声が途切れた。だけど、閃の腕は止まらなかった。自らを苛む痛みも忘れて、閃はただ無我夢中で飛鳥を助け起こし抱きしめた。今の彼女が背負っている苦痛激痛を思うと、そちらの方がよっぽど辛かった。自分が死んでもいいから、妻を苦しめる全ての痛みを丸ごと引き受けてやりたかった。

 「・・・・・やっぱり、あんた、来てくれただか・・・・・・」

 いつもの弾むような声が、掠れて沈んでいる。飛鳥の戦った敵達の中には、よっぽど鋭い爪や牙を持った者が複数いたらしい。体のそこかしこを無残に削られ、噛み千切られて、酷い箇所は骨までのぞいている。左耳から首筋にかけてもざっくりやられてしまい、頚動脈を切断されたようだ。閃が駆けつけたときはもう、飛鳥はおびただしい血の海の中だった。

 致命傷。嫌でも、そんな言葉が浮かんでしまう。そんなの認めたくない。信じたくないのに。

 「涼矢は・・・・・・?

 「魅霜と、同じトコだ」

 「・・・・・・そっか」

 閃の言葉と声のトーンから、全て悟ったかのように飛鳥は頷き、涙を一粒こぼした。

 そのの呼吸が急速に浅く、狭く、衰えていく。

 「四強吹雪の飛鳥が・・・・・・こげなみすぼらしい、有様になっちまうとは、なぁ・・・・・・」

わざと冗談めかすように、飛鳥は笑って見せようとした。だけど、夫の流す涙が頬に落ちるのを感じて、うまくいかなかった。自分だけは、この人を哀しませてはならなかったのに。

「正直、あんたにだけは見られたくなかったけんども・・・・・・どうしても、一目だけでも、会いたくて・・・・・・オラの名前呼んでくれてる声、聞こえちまったら、たまんなくなってよ・・・・・・」

「なしてそげな哀しい事言うだ? 第一飛鳥がみすぼらしいなんて、んな事あるわけねぇべ! オメはいい女だ。魔界はもちろん、三界合わせても一番いい女だ! オラになんかもったいねぇくれぇの、極上の女だべや!!

当たり前になってしまっていた至福を、今、思い知らされた。

「飛鳥を嫁コにできて、オラぁ幸せだ」

 そこまで言い切った閃はしかし、人生最悪の喪失に直面する。彼の言葉全部が飛鳥の耳に入ったかどうか、既に定かではなかったからだ。気がついたら、飛鳥は息を引き取っていた。目を開けたまま。それはきっと、夫の声を一字一句漏らさず聴き止めようとしていたため、だったのだろうけど。閃はそこから先言葉を失い、しばらく動かなかった。だが、飛鳥の目を閉じさせるとその亡骸を必死で担ぎ上げ、感覚の無い右足までも酷使してクレーターを這い上がる。

 皮膚が、肉が裂け、骨には新たにひびが入る。だけど閃は悲鳴を噛み殺して上りきり、再びこん棒を杖代わりにして、涼矢と魅霜が眠る祭壇までどうにかこうにか戻ってきた。二人の傍らに、飛鳥をそっと横たわらせる。

 「ちょっくら、ここで待っててくんろ。絶対迎えに来て、ちゃんと弔ってやんべ。・・・・・・チビ共の事、オラに任せるだよ」

 いつまでも、涙に暮れているわけにいかない。子供達を守れるのは、もはや自分だけなのだ。あの子達の才能を私利私欲のために飼い殺し、食い潰そうとしている雹針から守れるのは。

今はとにかく、一刻も早く里に帰って治療に専念しなくては、閃の命も危うかった。涼矢、魅霜、そして飛鳥の死を、どうやって息子達に伝えるべきか、それすら考えがまとまりそうに無い。出血のせいで意識が、視界が、うっすらかすみ始めていた。

 それを少しでも晴らそうと、閃は一度目を閉じ、軽く頭を振ってみる。改めて、瞼を開ける。

 すると最初に彼の視界に映ったのは、目を閉じる前には見えなかったものだった。それ自体は青白く尖っているが、紅い液体に彩られ、生々しく滴っている。遅れて、深手のせいで鈍っていた感覚が追いついた。背中から胸にかけて、生まれて初めて感じる強烈な違和感。呼吸や血流を塞き止められたようでもあり、断ち切られたようでもある。

 「あ・・・・・・!

 我ながら情けないくらい、声がひしゃげたが、閃はそんな事すら気付けなかった。自分の胸から、明らかに核の埋まっているだろう場所から、鋭利な氷が「生えている」。いや、この体を、一瞬で貫かれたのだ。

 「雹、針・・・・・・?

 背後に立つ妖気は、たとえ見えなくても、瀕死状態だろうと、間違えようが無い。くく、と喉を鳴らすあの独特の笑い方。そして、声。

 「陣が産まれて間もなくだったか。お前達、私が殲滅を命じた者達を全員見逃していたな」

 得意げな響きが、淡々と続く。

 「見くびられたものだ。この私が、何も知らないとでも思ったか。お前達がいずれ裏切る可能性を、危惧しないとでも思ったか」

 さらに深く氷の槍を突き入れられ、閃のなけなしの呼吸がひきつれた。

 「いくらなんでも、四強吹雪全員と正面対決するほど、私は無謀ではない。ずっと機会を伺っていた。お前達の尻尾を掴み、まとめて片付ける機会をな。そうしたら、おあつらえ向きの依頼が来た」

 人間界遠征の事か。

 「陰陽師どもと妖怪軍団の買収は、予想以上に都合よく決まってくれたぞ。今回の、傭兵部隊と同じくらいにな。もっともあの時の目的は、お前達の本性を確認する事のみだったがな。・・・・・・アジトの壁にも、魔法陣が描かれていただろう? あれの効力を教えてやろう。盗聴だ」

 ――どーせ、魔忍になんかなんねぇもんな!

 あの時、アジトで紡いだ己自身の言葉がフラッシュバックした。他にも涼矢と、そんなような会話を交わした気がする。子供達を助けたら、もうそのままあの村に住み着きたいとか、叶う事なら里に戻りたくないとか。息子達がなかなか見つからない不安を、紛らわすように。もしかしたら、飛鳥と魅霜も。

 次の瞬間、閃の視界が反転した。槍を引き抜かれ、転がされたのだ。貫かれた箇所からどくんどくん、と弱った脈動に合わせてさらに血が流れ出ていく。飛鳥の横顔が近かった。名前を呼ぼうとしたら、血の塊に阻まれた。

 「凍矢も陣も将来有望だ。彼らは近い将来、四強吹雪に変わる新たな精鋭部隊の一員になるだろう。傭兵部隊全滅に乗じ里を移転して、しばらく大人しくしていれば蛾渇公国の報復も回避できる。だから、安心してくたばれ」

 明滅する意識。だけど雹針の声だけは嫌にはっきりと浮き彫りになっている。それを頼りに閃は急速に重くなった瞼を開いて、視界に力を込める。雹針の長衣の裾が翻った。紙の擦れる音。また、瞬間移動か。

 「・・・・・・・・・魔忍の里・ナンバー2は伊達ではなかったようだな。核を貫いてやったのに、まだ死なないとは。確認に来ておいて、正解だ」

 はいつくばった閃が、長衣の裾を掴んでいる。その命はもう風前の灯だというのに、そうとはとても信じられないような握力で。しかしそれ以上に彼の眼差しが、こんな状態でも鮮烈で勇ましく燃えているではないか。

 「オメの、好きになん、か・・・・・・させねぇ・・・・・・オラ達の、チビ共だべ・・・・・・あいつらの未来、光・・・・・・オメなんかに奪わせねぇだ!

 

とーちゃん、とーちゃん! オラ知ってるだぞ。本当は黄泉よりも躯よりも雷禅よりも、とーちゃんが魔界で一番強ぇんだべ。だからオラ、大きくなったらとーちゃんより強ぇ男になんだ! あ、でもオラがこんなん言ってた事、凍矢には内緒な。あいつはあいつで、涼矢さんが魔界最強の男だと思ってっからよ。そりゃー涼矢さんも強ぇけんど、やっぱとーちゃんが一番だべさ!!

 あぁ、そうだべ、陣。とーちゃんは強ぇんだ。だから、絶対にあきらめねぇ。全身怪我だらけでも、核を潰されても、どうって事ぁねぇだよ。絶対帰っから。オメと凍矢はとーちゃんが守ってやっから。光ある世界まで、連れてってやっから。飛鳥と、涼矢と、魅霜の分まで。ぜった

 

 

 

自分の幼き日にそっくりな息子の笑顔。妻と同じ髪の色。

 

浮かんで

 

消えた

 

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