第八章・捨て去られた歴史

 

 

両の掌で、すっぽり覆えるほどの透明なカプセルの中は、薄い朱色の培養液に満たされている。その中心を、細いコードに繋がれた小さな、だけど確かに脈動を刻んでいる臓器が頼りなく浮かんでいた。

宿主から切り離された、凍矢の核。カプセルを通して、微かな彼の温度を感じ取れるような気がするのは思い過ごしだろうかと、雹針は口の端を浮かべた。

 力も命も、覇王眼さえあれば全て手に入る。復讐も思うがまま。

 「・・・・・・果たして、どれほどの血の雨が降ったのやら」

 語調は変わらないが、本体の声はやはりさらに重々しいと、怪我の治療を済ませて間もない吏将が近い記憶を呼び起こしながらひっそり比較していた。

魔界忍者の隠れ里。どこへ移転しようとも、里長・雹針の屋敷は里の最奥に建てられる。隠し罠はその時々によって作り変えられるが、屋敷の位置や中の間取りはずっと変わらない。

謁見の間に控え、雹針自身と向き合いながら、それぞれの経過報告を確認した所だった。

「爆拳は捕らえられたか。おそらくは、癌陀羅の諜報機関によって拘束されるだろう。まぁ、奴一人程の戦力なら大した損失にはならん」

眉一つ動かすことなく言い放った雹針だが、それはただの無表情ではない。吏将にも計り知れぬ姦計や思惑渦巻いているのを隠すための、いわば仮面。本体に戻っても素顔を見せる事はない。それが雹針だ。

 「それはそうと、魔界整体師・時雨をしとめそこなった事、誠に申し訳ありません。両腕を潰すのが精一杯でした」

 「なら、さして問題は無い。時雨は77戦士にとって同志であると同時に、重要な回復役だ。その時雨が戦闘不能で本業にも支障が出ている状況は、我々にとっても好都合。お前の力量で潰された腕ならば、癌陀羅の医療技術をもってしても、そうそう簡単には治せまいて」

逆に吏将は、早ければ明日にはもう戦線に復帰できる。覇王眼によって使える妖術の幅が数倍広がった雹針は、回復術や効果覿面の薬湯の開発も可能になっていた。

「それにどうやら、躯も死ななかったようだ。使い魔からの報告によると、つい先ほど救出されたらしい。陣か黒鵺が、泉の事を思い出したのだろう」

その割りに、雹針は少しも悔しそうには見えない。表情を隠しているのではなく、うっすら微笑みさえ浮かべている。明らかに楽しんでいる。それを怪訝に思う吏将に気付いてか、雹針はもう一段階笑みを深くして言った。

「暗殺者時代は、いかに効率よく且つ手早くターゲットを殺すかが全てだったが、時間をかけて嬲り殺しというのもまた、悪くない」

 魔界を敵に回したも同然なこの戦争の最中、雹針は新たな遊びでも見つけたかのようだ。いやそもそも、かれはこの戦いを戦争だと言う認識すらしていないかもしれない。雹針はただ、自分以外の全てを屈服させたいだけだ。争う、と言う段階はもう飛び越えたつもりなのだろう。

吏将は戦慄した。雹針は勝利を確信して進んでいるのではない。すでに勝者の座を手中に収めた上で、反抗分子を摘み取ろうとしているのだ。

「ところで、吏将」

背後から、呼びかけられた。雹針だ。しかしその声は本体ではなく、凍矢の身体から発せられたものだった。

 不意打ちで移動した声に驚き、弾かれたように振り替える。雹針が話している間、部屋の入り口で人形のようにじっと立っているだけだった凍矢の本体を借りて、『雹針』が続けた。本体と同じオッド・アイに、鋭く射抜かれる。

 「見た目が凍矢でも、中身が私ならば、素直に従う気になれるようだな」

 声も無く硬直した部下に、『雹針』はくく、とかすかに喉を鳴らした。

 「里長、突然何を・・・・・・」

 「今更シラを切る必要もあるまい。陣のように風など読まずとも、お前の本音はわかっていた。誤解するな。あの頃も今も、とがめるつもりは毛頭無いぞ。むしろ、お前の魔忍としての適正やプライド、そして貪欲な野心は高く買っている」

 「・・・・・・もったいないお言葉です」

 冷静さを取り戻して答えながらも、吏将は真に受けてはいなかった。雹針の言葉に嘘はないにしても、これは賛辞というよりむしろ忠告に近かった。こちらの内心を、かねてから里長様はお見通しだったのだ。雹針は潜在能力を大幅に引き出す妖術を施す際、当然吏将にも毒を仕込んでいたのだが、だからといって決して気を緩めているわけではない。それを実感した。

 「それはそうと里長、次なる段階へまもなくお進みになられますか?

 その問いに答えたのは、本体の方だった。

 「しばし待て。そろそろ、向こうが何かしら動いてくれそうだ。ひとまずその結果を見てからでも、遅くはない」

 先ほど、使い魔からもたらされた情報を思い出して、雹針はほくそ笑んだ。

 

 

霊界から派遣されていた医療チームを伴い、なおかつ陣の神風を用いて虐鬼の泉へ急いだ一行だったが、幸い泉の霧が届く範囲から外れた地点で躯を発見した。あの深手で、自力のみで泉の危険地域から離れられたのは、言うまでも無く躯だったからこそだろう。

 しかし、見つけた時彼女はすでに末期症状まで進み、意識も無かった。応急処置のみ施して、今度は癌陀羅に急行する。百足はほとんどの機能が麻痺しているため、当面使えない。時雨と酎にもその旨を連絡して、癌陀羅の国営病院に搬送する事になった。

その道中、飛影は一度も口を開かなかった。言葉はもちろん表情も凍りついたかのようで。ただ、血の海に倒れ伏して動けない躯に真っ先に駆け寄り、抱き起こしたのは彼だった。邪眼ではない生来の双眸は、複雑に揺らめいたかと思うと、触れただけで切れそうなくらい鋭くなる。

 そして病院に到着すると、百足の右腕を回収した痩傑達が待っていて、すぐさま腕の接合手術と時雨の治療が行われようとしていたのだが。この時、思わぬ形で一同は躯の意外な『弱点』を知る運びとなった。

 

 「腕が、接合できない?!

 ひっくり返ったような声を出したのは、陣だった。

 先程躯の手術が終了し、なおも意識が戻らない瀕死状態の彼女は、ICUこと集中治療室に移された。複数の点滴や機材に繋がれ囲まれて、ベッドに横たわる躯は、自発呼吸さえできない状態で酸素マスクも取り付けられている

 そんな、誰も想像できなかった姿にされた躯を、陣をはじめとした5人と、一足先に治療を終えた飛影、そして麒麟と周がガラス越しに見つめている。黒鵺達は、煙鬼の班や諜報機関と協力して、百足の修復作業にあたるためついさっき癌陀羅を後にしたばかりだ。

 思ったより早く、執刀医が手術室から困惑した表情で出てきたから、全員嫌な予感は感じていた。

 「え、それってどーいう事だべ? 手術で縫い合わせりゃいいんでねぇのか?

 医療知識など皆無の陣は、いまいち状況が想像できず、あたふたと畳み掛けた。執刀医も眉間に皺を寄せつつ、背後の手術室と陣達とを交互に見比べながら、話し始める。

 「厳密に申し上げますと、表面上の縫合はできたんです。だけどどういうわけか、内部が・・・・・・筋肉や神経が繋がろうとしていません。これは私個人の憶測ですが、どうも、その、躯殿の自己回復力が、まったく働いていないようなのです。その上、解毒もなかなか進みません。あのお方なら、まさか最悪の事態にはならないと思いますが」

 「虐鬼の泉の毒霧って、そんな症状もでるんだったっけ?

 首を傾げた鈴駆に、陣は即座に否定した。

 「んにゃ、それは無かったはずだべ。時雨からも、そーいう話は聞かなかったし」

 「しかし、自己回復力が働いていないとは、由々しき事態だぞ」麒麟の声が重々しく響いた「躯様程の妖力値で、回復力が無いなどありえん。そこいらの雑魚妖怪ですら、相応に備わっているんだ」

 「ってぇ事はもしや」酎が口を挟む「こいつぁ雹針の妖術か何かのせいって事か?

 「敵の自己回復力を妨げる呪いだとでも? 確かにありそうな気はするが・・・・・・」

 死々若丸が同調しかけた所で、「いや、違う」と別の声が割り込んできた。時雨だ。両腕を同時に三角巾で吊り下げられ、まるで拘束衣でも着させられているかのようだった。

 「癌陀羅の病院に運び込まれたなら、もはや知られるのは時間の問題だろう。躯様に適切な処置を施してもらうためにも、あえて拙者の口から明かさせてもらいたい事がある」

 「時雨は、躯の自己回復力の理由を知ってるのか?

 思わず問いかけた鈴木をふっと一瞬見上げながら、飛影はかつて触れた躯の意識を思い出す。正確には、知っているのは時雨だけではなかった。飛影もまた、躯がここに搬送されるとわかった時から、どんな名医も彼女を満足に治療できないと知っていた。知っていたが、あえて言わなかった。

 言った所で現時点では、どの道躯を直接治せる医者は癌陀羅はもちろん、どこにもいないし、何よりその『理由』を言いたくなかったのだ。できれば忘れてしまいたかった。躯に、そんなものがあるなどと。

 「躯様を治療できる設備は百足にしかないし、主治医が務まるのは拙者だけだ。それ以外だと、大幅に完治が遅れてしまう。現在の所は、生命維持が精一杯だろう」

 「そりゃまた、一体どうして?!

 まだ状況が見えず、焦れたように周が言った。時雨は意を決したように顔を上げ、だけどまだ躊躇を隠し切れないまま、苦しそうに唇をこじ開ける。

 「躯様の体質のせいだ。あれほどの戦闘力をお持ちでありながら、どういうわけか自己回復力だけが非常に微々たるものなのだ。おそらく、幻魔獣より格段に低い」 

 愕然とゆらく空気。息を呑んだ音は、誰から漏れたのか。想像もしなかった事実に、誰もが一瞬言葉を失った。だが冷静に思い返してみれば、納得のいく事もある。過去二回行われた魔界統一トーナメント。いずれの時も、医務室で躯を見かけることはなかった。時雨が試合の無い時に診察するか、それが不可能なら癌陀羅のすぐ近くに停泊させてある百足に戻るかしていたのだ。

「百足の医療カプセルは、そもそも躯様の体質に合わせて開発されたものだ。拙者もあの方の勅命で、何年もかけて研究を重ね、専門の医療方法を開発した。雹針がそこまで承知の上で、カプセルと拙者の腕を破壊したのかどうかまではわからんが・・・・・・移動要塞百足が、躯様の生命線でもあるという事くらいは、察知していたのかも知れぬ」

 さらに加えるなら、躯の自己回復力が致命的に損なわれた原因は、彼女が過去に玩具奴隷だった頃、立て続けに受けさせられた違法手術の副作用のせいだった。もちろん、そこまで知っているのは躯の意識に触れた事のある飛影ただ一人だ。

 「躯の意識が戻るまで、結構かかるってことか?

 やっとの思いで口を開いた周に、時雨が苦痛を交えた表情のまま頷いた。

 「せめて拙者の腕が完治するか、百足の機能が回復するかのどちらかが叶えばいいのだが、現時点では双方難しいようだな・・・・・・口惜しい。不可抗力とはいえ、肝心な時に百足を離れていたとは、何たる失態か!

 ぎり、と音が聞こえそうなくらい歯噛みして、時雨は止められない悔恨の勢いそのままに、壁に額を打ち付けた。

 「今すぐ雹針の首を刈り取って、躯様にお捧げしたいくらいだというのに!!  たとえご回復が叶っても、もはや躯様に合わせる顔など無い・・・・・・!

 「それでもお前は、この病院に残ってあの方をお守りするのだろう?

 かちゃ、と麒麟の鎧の繋ぎ目がかすかに鳴いた。

 「当面の指揮は、黄泉に代わってもらうしかなさそうだな。ここが癌陀羅ならすでに聞こえているであろうが、一応必要な手続きはせねばなるまい。我々の班は、病院ごと躯様を警護すると。周と飛影も、異論は無いな?

 「ねぇよ、班長さん。あいつがボスである以上、それくらいの義理は果たしてやるさ」

 「好きにしろ。どうせあの霧使いが使えんなら、拷問した所で里の所在地など吐かんだろうからな」

 「さらっと怖い事言ってるよ、こいつ・・・・・・」

 抑揚の無い飛影の言葉に、鈴駆はついつい戦慄を隠し切れずに呟いた。

 「でもまぁ、飛影達がここにいてくれるのは安心だよね。大型病院抱えてる都市で、しかも黄泉の統治下だから、万一の事あるとシャレにならないし」

 そうだな、と鈴木が頷いた。

 「オレ達は百足に行って、煙鬼や黒鵺達を手伝おうと思ってる。百足の修復を少しでも早めたい。内勤乗組員が全滅した以上、こっちに人数裂いてでも警護しなければならんしな」

 鈴木の技術力があれば、確かに心強い。癌陀羅には新たに鉄山の班を呼び寄せ、彼らと交代で鈴木達は百足へ移動することになった。

 「不本意だが、我々はこれでまた身動きとりづらくなったからな」死々若丸が憮然とした表情で腕を組んでいる「改めて体勢を建て直し、今後どうするか考え直さなければならんだろう」

 「っかー! こっちから状況ひっくりかえしてやりてぇのに、ちっともままならねぇぜ」

 苛立ちを精一杯噛み殺しながら、それでも酎がつい声を荒げた。

 「陣、じれってぇだろうがな、早まった真似だけはしてくれるなよ。しやがったらまた、鈴駆が泣くぞ」

 「! だ、誰が泣いたんだよ、このモヒカンアル中親父!!

 真っ赤になって否定する鈴駆を見て、つい陣の表情が緩んだ。雹針に対して、無意識に殺気立ち憎悪を燃え滾らせていたのを、酎に見抜かれていたのだろうか。自覚していたよりも自分は、思っている事が顔に出やすいタイプらしい。

 「心配いらねって。向こうが操血瘤つけたテロリスト何人飼ってるかわかんねぇ以上、こっちも味方同士固まって数を確保しなきゃなんねぇことくらい、承知してるっぺさ」

 「だったらいいけどよ。これからいっそう、戦況がすげぇ事になってきそうだしな」

 「ってかオイラ泣いてないってば! 流石ちゃんにそんなガセネタ吹き込んだら、マジで許さないからね!!

 「わかった鈴駆、オラはわかってんべ。オメまでそんなカリカリすんでねぇ。んじゃあオラ達そろそろ、百足さ移動すっかんな。何かあったら、連絡してけろ」

 後半は飛影達に向かって話しかけ、陣は仲間達と共に待合室を後にした。5人の背中が廊下の角に消えた所で、周がふっと肩の力を抜く。

 「一人欠けてるだけで、ずいぶん物足りねぇ感じがすんのな。やっぱあいつら、六人衆がしっくりくるぜ。・・・・・・正直、お前らはどう思う? 凍矢の身体から雹針の核を生きたまま切り離し、もう一度凍矢本人の核を戻せると思うか? 戦って勝てばいいってわけじゃねぇんだぜ」

 「・・・・・・繰り返しになるが、拙者の腕と百足の医療設備が修復されれば、理論上は可能だ」

 時雨が慎重に言葉を選びながら話し始めた。

 「しかし問題は、いかにして雹針の核のみを排除し、凍矢の核を見つけ保護するかという事。どちらかでも失敗した場合・・・・・・凍矢は・・・・・・生還できぬだろう」

 陣達がその場にいたなら、口が裂けても言えない事を、時雨はようやく口にした。本当は全員が危惧していた事だ。はっきりと言葉にしてしまうのが、憚られていただけで。その時、ずっと口を閉ざしていた飛影がふいに低く声を紡ぎ出した。

 「そもそも躯は、何故ここまで痛めつけられたんだ?

 質問だが、回答を求めているようには聞こえない。己の内の自問自答が、行き場を失いつい口をついて出てきただけのように感じられた。

 「まがりなりにも、魔界統一トーナメント優勝者だぞ。見た目が凍矢の身体だからといって、かつての宿敵相手に手加減やましてや油断などするはずない。にも関わらず、この状態だ。これほどのダメージの深さは、回復力が欠落しているからだけじゃ説明つかないぜ」

 認めるのは癪だが、と前置きした上で麒麟が口を開く。

 「覇王眼のもたらす力が、我々の予測を凌駕していたという事だろう。今の雹針なら、躯様と最初に一戦交えた当時よりもさらに上手く使いこなせているのかもしれない。というか現時点では、それくらいしか、考えられん」

 「フン・・・・・・要するに、覇王眼の威を借りているという事か。くだらん奴だ。その程度の器で、この戦いの主導権を握っているつもりなんだろうな。久々に、本気で虫唾が走る」

 容赦なく吐き捨てつつも、飛影はだが、とさらに付け加えた。 

 「オレの推測、いや勘にすぎんが、一応言っておく。多分雹針には覇王眼以外にも、まだ隠し玉があると思うぜ」

 「隠し玉?」周が問い返した「もしそんなもんがあるんだとしたら、その隠し玉にこそ、躯が今回負かされた理由があるってわけか?

 「麒麟の仮説以外に、別の可能性を捻り出すとしたら、そんな所だろう。・・・・・・どの道、黒鵺の結界が効かないんじゃ、あの時百足の司令室で何があったのかは、証明できんがな。躯の意識が戻らん限り」

 今までで一番強い妨害妖波に阻まれた、と、黒鵺はまるで自分の落ち度であるかのように唇を噛んでいた。

 この時周と麒麟は、共に同じ回想を巡らせていた。躯を発見した時、普段は鉄面皮とも取れる飛影の面差しが、一瞬だが確かに崩れた。不安と動揺。喪失の恐怖。もし病院への搬送が遅れていたら、取り返しのつかない事態になっていたら、彼は今頃どうしていただろうか? 

 それは幸いにも回避できたが、躯がこの状態になったのを目の当たりにして、飛影はこれからどうしたいのだろうか。

 「何を考えている?」とは、誰も聞けなった。それは愚問だ。いつも以上に感情を押し殺し、閉ざしている彼に何を聞いても、無言の一瞥がかえってくるだけだとわかっていた。

 

 

 百足で煙鬼、痩傑らの班と六人衆が合流してまもなく、黒鵺だけが癌陀羅に緊急で呼び戻されることになった。ちょうど、誰の班がどこから呪氷の除去作業を行うかの、配置確認と時間帯設定を打ち合わせている最中だった。しかも呼び出しをかけてきたのは、蔵馬だ。

 『急ですまないが、今すぐ来て欲しい。黒鵺の結界、蘇空時読結界の力がどうしても必要なんだ。それを使って、確認しなきゃならない事がある』

 早口で硬質な声が含む切迫感は、尋常じゃなかった。一応仲間達の了承を得た上で快く送り出され、黒鵺は急いで宮殿に向けて飛び立った。

 頼まれた通り、ひとまず謁見室に入るとやはりそこには黄泉もいた。呼び出された場所が宮殿だから、黄泉が関わっていないはずないとは思っていたが、蔵馬はどこの場所の過去を自分に読ませようとしているのだろう。

 「今から、悠焔に行こうと思っているんだ。黒鵺にはそこの過去を読んでもらいたい。黄泉も一緒に来てくれ。お前の聴覚も必要なんだよ。万が一、オレ達以外の誰かに悠焔の土地での過去を見られないように」

 他の誰かが、もし妖気を抑えたり隠したりして接近しても、心音や脈拍まではごまかしようがない。黄泉の超人的聴覚なら、容易に捕らえられる。だが、黄泉は申し訳なさそうに首を横に振った。

 「悪いが、オレが癌陀羅を離れるのは無理だ。諜報機関に加え、躯が回復するまでは77戦士統括も緊急で兼務する事になったからな。ただでさえ77戦士の間にも魔界にも、更なる混乱が広がっている。少しでも和らげなければいけない今、オレが本拠地を空けるわけにはいかない」

 黄泉の言い分は最もだ。凍矢を乗っ取られ、百足を襲撃され、躯は意識不明の重体。防戦一方どころか、相手のいいようにどんどん攻め込まれている。これ以上の混乱もダメージも、命取り。それに先代大統領・煙鬼は戦士の一人として任務についているので、臨時とはいえ大統領職に戻っては、彼の班が大幅戦力ダウンしてしまう。黄泉にまとめて統率してもらうしかないのだ。蔵馬は納得して、「わかった」と短く答えた。

 「それにしても、ずいぶん警戒しているのだな」黄泉が怪訝そうに眉根を寄せる「悠焔で昔、何があったというんだ? 郷土史と照らし合わせても、あの街でそれほど重要な事があったとは思えんが」

 「厳密には、悠焔という街じゃない。街ができるよりもっと前の事だ」

 言いながら蔵馬は、腕に抱えている古く分厚い歴史書にこめる力を、少し強めた。そこに書かれている内容が流れ出ないよう、塞き止めているかのようだ。

 「本題に入る前に聞きたいんだけど、黒鵺。イチガキの死体発見現場や百足の司令室みたいに、雹針は77戦士に見られたくない自分達の情報を隠蔽するために、妨害妖波を使ってるけど、だったらどうして暗黒鏡を使ったあの現場にはそれが無かったんだ? 一連の事件の黒幕が自分だと、知られる事がわかってないはずないのに」

 思いもかけない話題を振られ、一瞬黒鵺は面食らったが、とりあえずそこでの事を思い出しながら答えた。

 「どうしてって・・・・・・雹針自身はあの場に居なかったからじゃないのか? 自分の動きを誰にも悟らせないため、あの時点では里を離れたくなかったんだろ」

 「いや違う。妨害妖波をしきたいだけなら、そのための妖具か何かをイチガキに渡せばいいだけだ。あいつだって、それくらいは使えるはず。だけど雹針はそうしなかった。何故か? 答えは一つ。知られても構わなかったからさ」

 その場の空間が、嫌な色の空気に塗り替えられた気がした。また一歩事実に近付く代わりに、自分達がよくない状況に置かれている事を思い知らされるような。

 「むしろ、知らせたかったんだ。裏で糸を引いている本当の敵が魔忍の里だと、雹針だと教えたかったんだよ。躯や77戦士はもちろん、誰よりも陣に対して。彼と凍矢への制裁を始めるために!

 驚愕よりも怒りで、黒鵺は頭が真っ白になった。つまり雹針は彼の能力を遠回しに利用していたのだ。陣と凍矢に制裁を与え、躯に報復する足がかりとして、自分の存在を誇示していた。

 彼らを、あんな目に合わせる事を目的に。雹針は黒鵺の、彼の一族が誇りとしていた力を。

 ただでさえ、肝心な情報に限って妨害妖波に阻害され、せっかくの結界が役に立たないというのに加え、もし蔵馬の考えで当たりならこれは、とんでもない屈辱だ。

 「舐めやがって!」無意識に手が、胸元のペンダントを握り締めていた「我が一族の結界を、悪趣味ついでのオモチャ扱いかよ! あぁでも・・・・・・画魔が不安がってた理由が、ようやくわかった気がするぜ」

 精悍な面差しが悲痛な色に染まるのを、蔵馬は胸をかきむしる思いで見た。

 「僅かながら、雹針の性質は読めてきた」黄泉も険しい表情になってきている「それで、悠焔がどう絡んで来るんだ?

 本題を促され、蔵馬は一度歴史書に視線を落とした。戻してから、改めて口を開く。

 「雹針が吏将を使って襲わせ、自らも初めて陣やオレ達の前に姿を現したあの土地。悠焔の街ができるよりも遥かな昔。ある日突然、1万人もの妖怪達の死体の山に埋め尽くされていたんだそうだ」

 「1万人だと?!

 黄泉が思わず顔色を変えて叫んだ。

 「そんなケタ違いの殺戮が、あの土地であったのか? しかし、今までそんな話は聞いたこともない。国同士の戦争だったのなら、必ず情報が回るはずだが・・・・・・」

 「第一、当時はまだ定住地になってなかったんだろ? なのにどうしてそんな大人数――ちょっとした街の人口ぐらいの妖怪達が集まってたんだ?

 不自然すぎる、と黒鵺が訝るのも無理は無かった。確かに通常ならばありえない。

 「あの地方の歴史を辿っていて、旧雷禅国はもちろん、癌陀羅の国立図書館の地下書庫まで調べさせてもらったんだけど、1万人大量死について記述されていたのは、この一冊だけだ。どういうわけだか隠蔽されていた。しかも発表後間もなく絶版に追い込まれている。どこから誰の力が及び、そうなったのかは不明。本当なら、もっと大きく扱われているはずの歴史的大事件なのに」

 硬質な早口で紡がれる言葉の羅列から、蔵馬が抱える不吉な予感が滲み出ているようだった。

 「もしかして、雹針が悠焔を襲撃させた事とその大量死に、何か関連があるというのか?

 黄泉のそれは、質問というより確認に近い。そういう風に聞かれることまで想定していたかのように、蔵馬ははっきりと頷いた。

 「物的証拠は、まだ無いけどね。それを確かめるために、黒鵺の結界が必要なんだ。・・・・・・オレの推測が当たっているなら、おそらく悠焔に妨害妖波はしかれていないはず」

 「なぁ、蔵馬」

 先程からずっと疑問に思っていた事を、黒鵺はとうとう口にした。

 「どうして、今ここに陣がいねぇんだ? 雹針が絡んでるなら、あいつは無関係じゃねぇだろ。まぁお前の言う通り妨害されてないんだとしたら、またバレても構わないような・・・・・・逆に見せ付けたいような過去が、悠焔にあったって事になるんだろうけどよ」

 「正に理由はそれさ」

 蔵馬の声音が微妙に震えたのを、黄泉はもちろん黒鵺も聞き逃さなかった。彼は何を推測したというのか。

 「陣にあの土地での過去を見せる事は、雹針の術中にはめるも同然かもしれないからだ。起きてしまった事実は変えられないけれど、せめて奴の思い通りにだけはしたくない」

 洞察力には定評があるし、蔵馬本人も自信を持っている。しかしこの時ばかりは、それを恨めしく思った。いっそ気付かなければ良かったかもしれない。雹針の得意満面な顔が、頭をよぎらずに済んだかもしれない。だけど、それでは駄目なのだ。読めた以上は、確かめなくては。そこに、どんな真実が待ち受けているとしても。

 

 

 小高い丘の上から蛾渇公国軍の野営地を見下ろし、飛鳥が首を傾げた。

 「何だべ、ありゃあ。旗持ってねぇだし、鎧の柄やデザインもバラバラでねぇの」

 かなり距離があり、真夜中だが、野営地に灯っている明かりだけではっきり見て取れるほどだった。事前に情報を聞いていなければ、思い思いに武装した妖怪達の集団としか思えない。とても、一国に仕えている兵士達には見えなかった。野営地に張っているテントにも、蛾渇公国の紋章は描かれていない。これも、様式は統一されていなかった。

 「蛾渇公国の正規の兵というよりむしろ、国を挙げて大量採用した傭兵といったところではないでしょうか」

 氷女の変装を完了させた魅霜の推察に、涼矢がなるほどと頷いた。

 「思えば、雅淘との戦争を控えているのだったな。本来の軍隊を1万も動かしたとあっては、その隙を付け込まれると危惧したかもしれん」

 「要するに、大群とはいえ寄せ集めの傭兵どもで、魔忍の里さ潰しにかかろうってのけ?

 空中座禅の閃が、見るからに不愉快そうな表情を浮かべている。

 「里自体にゃ未練さねぇだけど、見くびられてんのはムカつくだな」

 「でもまぁその分、リーダー格消しときゃ後の仕事が楽なはずだべ。人間界遠征ん時の妖怪軍団より数は多いけんど、統率されて無きゃ烏合の衆だべさ」

 と、飛鳥になだめられ、それもそうかと閃は思い直した。思ったよりすんなりと最後の任務を遂行できそうだ。

 「これが終わったら、とうとう雹針か」涼矢が静かな声で呟く「そしてその次に、人間界だな」

 魔忍の里も、唯一絶対の支配者・雹針を欠いたら致命傷だ。その傷口こそが、彼らや子供達の未来への突破口となる。

 「大丈夫、きっと上手くいきます。まずはこの場を、こなしてしまいましょう。そろそろ、潜入してまいりますね」

 閉塞的な氷河の国を脱出したはいいものの、さまよっている所を奴隷商人に目をつけられ、さらにそこから逃げ出してきたというこれまで何度か使ってきた設定で、氷女に化けた魅霜が部隊のトップに近付き暗殺する。

 四人にとって、慣れた手順だ。

 「今回は、陸空軍合同だと言っていたか。双方をまとめる総司令官が、ひとまずのターゲットになるな。これも散々経験してきたパターンだが・・・・・・魅霜、くれぐれも気をつけて行け」

 「はい、ご心配無く」

 いつものようににっこりと微笑んで、魅霜は一人、丘を降りていった。囮役の彼女は、大抵先陣を切って危険地域に足を踏み入れる。だけどそれももう、今宵で最後だ。

 「心配事の種、一つなくなるのも時間の問題だべ」

 空中座禅をやめて、なぁ? といたずらっぽく笑った閃が、涼矢の肩に肘を乗せてその顔を覗き込む。

 「そうだな。こんな風に魅霜を送り出すのは、もううんざりだ。人間界へ脱出したら、雹針亡き後でも追い忍は来るだろうが、それでも危険度としては遥かにマシだ。二度と魅霜を一人きりにさせない。凍矢共々、オレが守ってみせるさ」

 「ありゃ、意外に素直だなや」

 からかうつもりだった閃は、意外そうに目をぱちくりさせた。

 「こんな時にまで、何子供みてぇな事してんだ」飛鳥が腰に手を当てて呆れてみせた「あんたもオラに対して、何か気のきいたセリフでも言ってみてけろ、一言くらい。ほら」

 「い、いやほらって! オメこそ何言い出すんだべ!

 逆に自分が焦らされる羽目となった閃が、わかりやすく頬を紅潮させた。面白そうだと、涼矢はあえて黙って静観をきめこんでいる。

 「魔忍引退前の、最後の任務の夜だんべ? 記念日みたいなモンでねぇか。任務直前の景気づけも兼ねて、たまには熱烈な言葉でも言ってみたっていいんでねぇの」

 そういえば昔、結婚の時もこうして飛鳥に迫られた気がする、と頭の片隅で思い出しながら閃は、おたおたと目を泳がせる。

 「ね、熱烈とか言われても・・・・・・オラの一番の苦手分野だべさ〜。うーーーーえっとえっと・・・・・・あ」

 そうだ、と何やら思いついたらしい閃がやっと顔を上げて宣言した。

 「それはだな、人間界さ無事脱出した時に言ってやんべ!

 「脱出した時?

 「んだ! そっちの方が、よっぽど記念日でねぇか。楽しみは、先にとっとくもんだ!

 「ふ〜〜〜ん。そっかぁ、脱出記念日か。悪くねぇべな。って事はぁ、先にとっとく分よっぽど熱烈にキメてくれるって期待してもいいんだべ? じゃなきゃお預けの意味ねぇべさ」

 「へ?

 「待たせるからには、それなりの覚悟してんべな。楽しみにしてるだよ、あんた」

 もしかして、もしかしなくても。自分は自ら事の難易度を引き上げてしまったのだろうか。振って沸いた『宿題』に、閃が頭を抱えるより早く、涼矢が含み笑いで言った。

 「その場しのぎにすらなってないぞ。子供達の浅知恵の方が、まだ使えそうだ」

 

 

 百足内の内勤乗組員達の遺体は、諜報機関の参加もあって順調に運び出せたが、そこかしこを覆い閉ざす呪氷の除去作業はどうやら夜を徹して続ける事になりそうだった。医療カプセルにしろエンジンルームにしろ、氷を取り除かなければ修理不可能。しかも力任せにただ氷を叩き壊せばいいというものではない。機材やシステムがこれ以上のダメージが負わないよう、呪氷のみを根気良く削り、剥がしていかなくてはならなかった。

 「どんなにがんばっても、本格的な修復作業は明日以降になりそうだな」

 細かい作業に慣れている鈴木も、さすがに肩が凝ったのか、左右それぞれを大きくぐるりと回した。

 「何の用事か知らないけど、黒鵺が癌陀羅からこっち戻ってくる時、蔵馬にも来てもらったらどうよ? 手先の器用さでいったら、あいつらも鈴木に負けないしさ」

 ようやく医療カプセル一つ分を氷漬け状態から救出し、鈴駆がう〜んと背伸びを一つ。

 内勤乗組員が全滅してしまった今、エンジンルームを直した所ですぐに百足を動かせない。あえて定位置のままにして77戦士達が交代で守りながら、医療関係の設備を最優先で復旧させる事になっている。躯の回復ももちろんだが、百足の医療カプセルは貴重だ。癌陀羅の病院もいつ危険に晒されるかわからない。一日でも早く起動させる必要があった。

 「にしてもこの辺って、オラみてぇな素人でも繊細な機械ばっかだってわかるべ。雹針が急いで潰したがったわけだ」

 移動要塞百足の襲撃は、どう考えてもリスクの方が大きい。あの時、確かに77戦士が誰も居なかったとはいえ、痩傑らが来る前に目的を達せられる保証などないのだ。間に合わなかったら、返り討ちにされるだけ。

 魔忍側は、雹針以外は上忍で隊を固めていただろうが、それでも吏将や爆拳といった部隊長クラスが居なかったはず。陣と凍矢が里を去った後、新たに任命していたとしてもそのレベルはたかが知れているだろう。つまりあの時魔忍側、厳密には呪氷使い部隊側には、雹針以外に躯や77戦士に対抗できる使い手は存在しなかった。にも関わらず、雹針は襲撃を決行しその結果、一つ残らず彼の思い通りとなってしまった。

 ふと、陣の作業の手が止まる。

 雹針は、あの時司令室で何をしたんだ? 躯相手に、どんな手を使って戦ったというのだ?

 陣本人は知る由も無いが、彼は飛影と同じ事を考え始めていた。雹針には、覇王眼以外にも何かある。今の段階で手の内全てを見せているはずが無い。爆拳はもちろん、吏将さえ知らないような奥の手をまだ隠し持っているに違いない。

 そもそも、わからない事が多すぎる。時間が過ぎるごとに増えていっているようだ。

 「ええい、性に合わん!

 陣の思考を断ち切るかのように、小鬼状態の死々若丸が声を荒げた。魔哭鳴斬剣では氷の下のカプセルや精密機材まで破壊しかねないため、細かい部分に張り付いた呪氷を針でつつきながら取り除いている途中だった。

 「里の所在地さえわかれば、吏将が万全でない隙をついて急襲かけられるというのに! 時間がもったいないぞ」

 「まぁまぁ死々若、体勢整えなきゃいけないのは、こっちも同じなんだから気を静めろ」

 「気持ちはわからねくもねぇがな。戦争状態だってぇのに、オレまだガチンコ勝負やってねーし。・・・・・・そもそも、雹針とどう戦えば凍矢を取り戻せるのか、未だに見当もつかねぇだろ」

 死々若丸を宥める鈴木を横目に、酎がため息をついた。それを合図にしたように、沈黙が降りる。

ここの所ずっと、闘志も意気込みもから回るばかりで、これっぽっちも凍矢に近づけない。むしろ遠くなっている気がする。彼の不在は、これで何日目だろう。いつになったら自分達は元の六人衆に戻れるのか。とはいえ今の、雹針に乗っ取られた状態の彼と出くわすのは、正直怖かった。陣と死々若丸から聞かされた話の内容に絶望すると同時に、二人が見せた痛々しい表情や声が突き刺さるようだったのを思い出す。

 その事についてあまり考えないように、話に出さないようにして互いを鼓舞してきた五人だったが、凍矢の居ない空白はどうしたってうめられっこない。不意打ちのように、急に寂しくなる。 

 次につなげる言葉が見つからないまま、鈴木は視線をさまよわせ陣で止める。脳内で今も鮮明に響く声がある。

 

 『そうなったら、止めねぇでくれな。誰にも加勢なんかさせんでねぇぞ』

 

 本当に、避けられないのだろうか。雹針の方は100%確実に陣を処刑目的にしているだろうし、凍矢の身体から雹針の核を取り出す必要がある。だけどだからといって、本当に陣は雹針と・・・・・・よりにもよって凍矢の姿をした相手と戦わなければならないのだろうか。

 僅かにうなだれた陣の背中は、見ているこっちまで心細くなりそうだ。

 「お疲れー、ちょっといいかな?

 孤光の明るい声が飛び込んできた。まるで救いの手が差し伸べられたかのように、その場の空気が和らぐ。

 「そろそろ休憩入れようと思うんだけど、あんた達もどうよ? 嫌でも根詰める事になっちゃうしさ。そんで休憩あがったら、持ち場交代しない? 仕事内容は同じでも、ちょっとは気分変わるだろ」

 「そうだな。体力は消耗しないが、神経が疲れてきた所だ」

 真っ先に鈴木が賛成して、他の四人もすぐに続いた。なんだか急に、呼吸がしやすくなった気がする。根だけでなく、息も詰まっていたようだ。

 とりあえず、百足の中で最も広い闘技場に集まる事にして、陣達はカプセルルームを出た。破られた窓から、魔界の夜を吹きぬける冷えた風が吹き込んでくる。

 びゅうう、と鳴き声のような音が陣の耳元を掠めた。鼓膜を揺さぶるそのノイズの中、自分の名を呼ぶ凍矢の声が混じっていたような気がして、反射的にふりかえる。だけど視線の先には、無残な姿にされた窓の向こう、夜闇に沈んだ魔界の風景が果てしなく広がっているだけだ。

 そこに手を伸ばして、探して、突き進んで辿り着くのは、里か、凍矢か、それとも雹針か。

 「あ」

 夜空に折り重なる雲の群れを眺めていた陣の唇から、短い音が零れ落ちた。ずっと絡まったままだった糸が、ふいに解かれたようにやわらかく、どこか頼りなくも聞こえるそれが、鈴木達の足を止める。

 破壊された窓の向こうの景色を見つめたまま、陣は微動だにしない。いや厳密には、彼が今見ているのは眼前の光景ではなかった。まさに吹き抜ける風のように、陣の記憶を揺さぶった衝動の行方。

 「・・・・・・わざとだ」

 今度は、はっきりと芯の通った声。低くかすかに震えている。

 「雹針の奴、わざとこの時期狙って・・・・・・って事は・・・・・・」 

 「陣?!

 明らかに様子の一変した風使いの視界を遮るように、小鬼が宙を飛んで突進した。

 「雹針がどうした? お前、今何に気付いたんだ?!

 ようやくハッと我に返った陣は、しかしそれでもどこか茫漠とした面差しのまま、何とか死々若丸と目線を合わせた。

 「ここんとこのゴタゴタで、うっかりしてただ。もうすぐ、あと一週間で、今年も・・・・・・」

 「今年も?

 何かを恐れるように言い淀んだ陣に、死々若丸が食い下がった。

 

 「今年も、またやってくるんだべ。とーちゃん達の、命日が」

 

 

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