第七章・謀略の残骸

 

 

 Z-34地点。遠く彼方まで見渡せそうな、なだらかな草原を縦断するように大河が流れる、肥沃な土壌。時期によっては遊牧民が流れてきて一時的に集落を構える事があるらしいが、この時期はちょうど無人地帯になっているようだ。

 今頃そこに、蛾渇公国の軍隊は、陸・空合同の一大野営地を構えているのだろう。

 閃、飛鳥、涼矢、魅霜は、ざっと段取りを確認してから地図を丸めてしまいこんだ。誰からともなく立ち上がって廊下を出る。二つ分先の部屋の前で、静かに障子を開けると、それぞれの子供達が安らかに寝息を立てていた。

 二家族の家は、互いが目と鼻の先にある。任務で里を離れる際は、必ずどちらかの家で子供達が寝泊りする事になっていた。今夜は、涼矢と魅霜の家の方。

 凍矢は相変わらず寝相がいいが、陣は一度布団を蹴飛ばしたらしく、傍らに控えている画魔が整えている所だった。

 「お支度はすみましたか。ずいぶんとまた、急な任務ですね」

 里長の屋敷から帰ってくるなり忍び装束に着替え、緊急の作戦会議を行っていた四強吹雪を見上げ、画魔は小声で一礼した。

 「今夜は、どちらまで?

 「悪ぃけんど、今回のは極秘って事になってんだべ」

 画魔と同じく声を潜めて答えた飛鳥は、陣の傍に膝をつき、起こさないよう気をつけながら、自分と同じ色をした息子の髪をすくように撫でた。その隣に、閃。涼矢と魅霜もいったん腰を落とし、凍矢の寝顔を愛おしそうに見つめた。

「慌しく決まった任務だが、何、夜が明ける前に戻ってこられるだろう」

 「えぇ、時間をかけるつもりはありません。それより画魔、今夜はもう、貴方もお休みなさい」

 夜闇の中に浮かぶ魅霜の優美な微笑みを目の当たりにして、内心どぎまぎするのを必死に隠しながら、画魔は軽く首を横に振った。

 「オレなら、まだ平気です。よく寝てるように見えても、実はこの子達眠りが浅い時もありますから、もう少し様子を見ています」

 「まぁそりゃそーだけどよ、あんま無理すんでねぇぞ」

 閃は胡坐を書いた状態から片膝を立て、そこに肘を乗せながら、陣から目を離さないまま言った。

 「オメにゃ、毎度毎度世話かけっぱなしだっただべな。修行より、子守の方が厄介でねぇの?

 「厄介だなんてそんな・・・・・・。オレが言うのもなんですけど、陣と凍矢はもう、弟のような存在ですから。苦に思う事なんてありませんよ」

 「嬉しい事、言ってくれるでねぇか」飛鳥が安心したように笑った「じゃあ陣と凍矢も、いい兄貴に恵まれてんべ」

 柔らかな、包み込むような、幸せな空気が束の間流れる。僅かなそれをもっと味わっていたかったが、時間がそれを許さない。さて、とまず涼矢が立ち上がる。名残惜しさを少し滲ませるようにして。

 「そろそろ行かないとな。これ以上は、子供達を起こしてしまうかもしれん」

 えぇ、と魅霜が頷いて夫に続いた。

 「寝顔からして、きっといい夢を見ているでしょうから。その夢が覚めない内に、全部済ませてしまいましょう」

 閃と飛鳥も互いの視線を交し合ってから静かに立ち上がった。

 「本当に厄介なのは、今回の任務だべなぁ。とっとと片付けるに越した事ねぇだ」

 「そんじゃ、そろそろ行くべ。画魔、うちの旦那も言ったけんど本当に無理すんでねぇぞ」

 「はい、大丈夫です。行ってらっしゃいませ」

 画魔に見送られた四強吹雪は、障子を閉める前にもう一度陣と凍矢の寝顔を振り返った。そこが閉ざされた後、庭で風が呼ばれる気配。彼らが飛び去り、風が収まり、再び完全な静寂が訪れる。

 そうなってから初めて、画魔は自分の脳裏に何か引っかかっているのを感じた。手繰り寄せてみるとそれは、ほんのついさっき、何気なく閃が紡いだ一言。

 

 オメにゃ、毎度毎度世話かけっぱなしだっただべな

 

 「・・・・・・・・・『だった』?

 

 

 さらに濃度を増した霧をうっとうしそうに斬り払い、飛影は舌打ちした。爆拳一人に狙いを定めようとすると、余計に土の巨人達が邪魔に感じる。ただでさえ森の中だから、障害物が多いというのに。それにしても、あとからあとから際限無く巨人達を召還し続けながら、吏将は何をしているのだろうか。まさか人形遊びだけが目的でもあるまい。

 いや、待て。もしや連中の目的は、筆頭戦士である自分より、むしろ―――

 「時雨! 返事を」

 飛影が叫んだのを合図にしたかのように、後方から妖気が激しくぶつかり合う気配を感知した。一人は間違いなく時雨。もう一人は・・・・・・数年ぶりでもはっきりとわかる、狡猾なあの男のもの。

 襲い来る巨人達の攻撃と、霧を隠れ蓑に仕掛けてくる爆拳をかわしながら、何とか邪眼に妖気を集中させる。時雨とはかなり距離が空いてしまっていた。麒麟と周もこの戦闘に気付いているはずだから、二人の内のどちらかでも加勢に行ければいいのだが。

 そう。自分の方には必要無い。

 「おうおう、どうした邪眼のおチビさんよぉ!!

 霧の壁は反響作用でもあるのか、爆拳のからかうような声が前後左右を跳ね回っている。無遠慮に響くそれに、飛影は顔をしかめた。認めたくは無いが、本当に頭痛がしてきた。

 「どうしたもこうしたもあるか・・・・・・終わらせるだけだ」

 肉眼で確認できるほど近くに、一本の『元』大木がそびえている。巨人の攻撃のとばっちりを受けたため、途中で無残に折られ崩れたのだ。そのまん前に立った飛影は、呼吸を整えて爆拳の動きを測る。背後から、近づいてくる。そろそろ本格的にこちらを攻撃するつもりか。

 暗黒武術会で、幽助と対戦した時も確かこんなパターンだったな。馬鹿め、二番煎じで惨敗するつもりか。

迫る気配をぎりぎりまでひきつけてから、飛影は激しい黒炎を剣から両手に移した。大体の位置さえ把握していれば、全て霧を晴らさずとも攻撃できる。

 「邪王炎殺煉獄焦!!

 

 

 ドオオオオオン・・・・・・!

 

 尋常ではない轟音と地響きが、空気をきしませた。風が怯えてる、と陣は感じ取った。仲間達が立ち止まるのにつられて、彼も空中で停止した。複数の巨大な妖気がぶつかり合った衝撃は、あまりに激しすぎる上にまだ少しここから遠い事もあってか、どれが誰のものなのかすら、判別しづらい。

 「やっぱ戦争だぜ、こいつぁ・・・・・・」

 酎が眉間に皺を寄せて唸った。

 「まだどっちが有利なのかも、わかんねぇな」

 「何にせよ、オイラ達にとっても危険なのは確かだよね。・・・・・・もちろん、退く気は無いけどさ!

 気合を入れ直した鈴駆が、改めて両の拳を硬く握り締めた。

 「土使いの方だろうと霧使いの方だろうと、今度こそ叩き斬ってくれるわ!

 移動スピード優先のため、小鬼状態で飛行していた死々若丸が、牙を剥く。

 彼らの言葉を聞く内に、自然と鼓舞された陣は呼吸を整えて妖力を一気に高め始めた。

 「よっしゃ、そんじゃあもっと急ぐだぞ。神風!!

 足元から立ち上ってきた大量の風にすくわれるようにして、酎、鈴駆、そして鈴木も上空へ浮かび上がる。かと思うと、六人まとめて猛スピードで滑空していった。

 「お、おい陣、無茶するな!」鈴木が慌てて叫んだ「神風なら確かに早いけど、戦闘が控えてるんだぞ。妖力温存も優先しておけ!

 「こっからなら、大して遠かねぇべ。どってこたねぇ! あいつらと戦う分の力なら、十分すぎるくらい有り余ってるだよ!!

 負けずに叫び返した陣は、さらに風を集めて自分達を目的地へと、一直線に押し流した。

 

 

 そこで何が起こったのか、自分の身に何が起きたのか、飛影は全くわからなかった。全身を襲った衝撃と、目もくらむ光に襲われて、ほんの一瞬だが意識が飛んだ。すぐさま引き戻したそれを掴んで、必死に体勢を立て直そうとしたが、四肢が言うことをきかない。強引に、まずは腕に力を入れる。

 ぐるり、視界が動いた。そこに飛び込んできたのは、もうもうと立ち上る煙。そしてその向こうで、人影が二人分倒れ伏しているのが見えた。 

 「周・・・・・・麒、麟?

 呼びかける飛影の唇も、頼りなくわなないた。彼自身も満身創痍で這い蹲っている状況だ。体中から関節がみしみしと悲鳴を上げているのが感じられる。強い攻撃妖力をまともにくらい、外傷はもちろんのこと内出血も酷かった。周と麒麟も同じ状態なのが手に取るようにわかる。それぞれの呻き声が聞こえた。どうやら死んではいないようだ。

 さらによく見てみると、飛影達三人が倒れている中心では地面が抉れて新たなクレーターが形成されていた。ようやく状況が飲み込めた。飛影、周、麒麟はお互いに向かって同時に技を放ってしまったらしい。つまり、知らず知らずのうちに同士討ちをするよう仕向けられていたようなのだ。だが、どうやって。

 「ひゃははははは!! まんまと引っかかりやがったな。77戦士様とあろうお方々が、ずいぶんお粗末なこって」

 四方八方から霧の壁に跳ね返りつつ、爆拳の嘲笑が鳴り響いた。

 「自慢じゃねぇけどよ、オレの霧は幻影を見せる事はもちろん、術者の妖気を霧の壁に反射させる事もできるんだぜ〜。三つの地点に同時にオレの姿を見せて、妖気を跳ね返らせながら誘い出し、お前らが相打つようにしたってわけだ」

 飛影の身体の奥が、屈辱に震えた。完全に、してやられた。悔しいが、上手い手でもある。いくら覇王眼で本来より数段上の妖力を身につけたといえど爆拳では、飛影達にしてみれば大したレベルアップではない。暗黒武術会の時点で、いともたやすく幽助から完膚なきまでに叩きのめされていた程度だったのだから。

 だから爆拳は、性能の増えた霧を利用して、自分のではなく敵達の妖力を利用して罠を仕掛けたのである。

 「お、おのれ下衆が!

 剣を杖代わりにして、麒麟が立ち上がった。彼と周は主に火傷が酷いようだが、それでも二人とも戦意は喪失していないようだ。

 「一本とられたのは認めるが」周がぐるっと肩を回す「これで終わりじゃねぇぞ」

 飛影も剣を構え直し、そこに漆黒の炎をもう一度纏わせた。

 「どうやら、死にたいようだな」

 静かな、だけど底知れぬ怒りを孕んだ声に一瞬怯んだか、爆拳の嘲笑が少しやんだ。しかしすぐにまた濃い霧が漂い始め、飛影達の視界を覆いつくす。

 「笑わせんな! 筆頭戦士合わせて、てめぇら三人とも血祭りにあげてやるよ!!

 何重にも折り重なって響きまくるその不快な声が、耳をつんざき脳髄を蝕んでいくような気がした。その痛みに集中力を削がれないように、飛影は邪眼だけを開いて精神を研ぎ澄ませようとした。しかし、決定的ダメージを食らった直後なためか、先ほどよりも上手くいかない。

 でかい図体のくせに、爆拳はそこら中をちょこまか走り回り跳び回りながら、こちらの隙を伺っているらしかった。その間も、耳障りな笑い声がガンガンと暴れて飛影達の脳内をかき乱す。それを計算済みの上で、敵はことさら大声で笑っているのだろう。 

 今すぐ黙らせるには、危険を承知で黒龍波を撃つしかないのか。あの技には追撃効果もある。狙いさえ定めればいい。

 躯からは生け捕りが原則と命じられているが、そろそろどうでも良くなった。一発でも負担の大きい黒龍波だが、麒麟と周がいるのだ。自分の負うダメージが増したとしても、さして問題は無い。それより、孤立しているであろう時雨の方が気になった。彼と吏将の戦闘はどちらに軍配が上がったのだろう。

 

 

 凄まじい轟音に驚いて、時雨は思わず振り返った。土巨人達の攻撃に応戦している内に、いつのまにか班員達から遠く引き離されてしまっていた彼は、その巨人達の根源ともいえる妖怪と一対一で戦っている真っ最中だ。それでも、振り返らずにはいられなかった。

 凝り固まり、まるでドームのような形を成した霧の中。あそこには飛影と麒麟と周が閉じ込められている。

 「ほぉ、珍しく爆拳のもくろみがうまくいったか」

 感心ではなく、明らかに馬鹿にしたような言い方で、吏将は口の端に酷薄な笑みを浮かべた。修羅念土闘衣を装着した、全身凶器の状態だとさらに凄みを増している。

 「もくろみ? どういう事だ。一体、あそこで何が起きた?!

 「フン、貴様がそれを知る必要は無い。それより、交渉続行といこうか」

 吏将が雹針から命じられていたのは、魔界屈指の整体師でもある77戦士の抹殺が第一ではなかった。だからこそ余計に、時雨はこの男との戦いを避けられなかったわけなのだが。

 「いいか、これがラストチャンスと思え。躯の配下なんぞ辞めて、我らが里長に仕えると誓ってみせろ。里長は、お前の技術を高く買っておられる。イチガキより遥かに有能だと期待なさっているんだぞ。これに応じれば、望むだけの優遇や報酬を与えられると何度も言っているのに、一体何が不満だ?

 「くどいぞ、たわけが!!

時雨は一喝した。

 「さっきから言わせておけば、何たる侮辱! 拙者がお仕えするのは未来永劫、躯様ただお一人のみ! 今や、魔界の大統領として君臨するあのお方を支えられる、光栄な任についているというのに、それを捨てろと? 馬鹿も休み休み言え!!

 燐火円磔刀を構え直し、力強く断言した時雨に、吏将はやれやれと大げさに肩をすくめて見せた。

 「実に惜しい。それほどの忠誠心をぜひとも里長に捧げて欲しかったものだが・・・・・・交渉決裂か。ここまで相容れぬとあっては、諦めるしかあるまい」

 重心を低く構え、吏将は改めて臨戦態勢を取る。

 「味方にできぬのなら、お前は非常に面倒な存在だ。躯側に、核移植が可能であろう医療技術を持つ者がいるのは、好ましくない。・・・・・・最悪の場合は処分も致し方ないと、仰せつかっている」

 「望むところだ。躯様に仇なす輩は、何人たりとも容赦せん!

 一瞬で空気が限界まで張り詰めた。どちらも微動だにしないが、最大限に神経を研ぎ澄ませて相手の隙を伺っている。お互いがお互いに、いつでも飛びかかれる姿勢のまま、時間が止まったかのような沈黙が降りた。

 どちらも次の一撃で決着をつけようとしている。硬直していた空気が、ふとかすかに揺れた。それを合図にしたかのように、次の瞬間、時雨と吏将が同時に相手の間合いに飛び込んだ。

 激しい金属音。燐火円磔刀と修羅念土闘衣の間に、二人の目線の間に、火花が散る。

 鋭い音を立てて、何かがひび割れる音。鈍くこもった、何かが砕ける音。そして、飛び散った鮮血。

 時雨も吏将も、同時に膝をついた。前者は燐火円磔刀を叩き折られ、両腕の骨が付け根から指先までまんべんなく砕かれてしまっている。後者は後者で、土の鎧が無残に粉砕された上に、左肩から右脇腹までかなり深く切りつけられた。お互い命こそ落とさなかったものの、ほとんど相打ちだった。

 やはり、一撃で殺せるほど甘い相手ではなかったかと、同時に思った。しかも吏将は、激突しあった瞬間に時雨にとどめをさせないと悟り、彼の魔界整体師としての生命線とも言える両腕粉砕に目的を切り替えていた。

 その判断と周到さは、百戦錬磨の時雨さえも舌を巻かずにいられない。

 「時雨! 生きてるか?!

 聞き覚えのある威勢のいい声と同時に、球状のエネルギー弾が吏将めがけて飛んできた。それが酎の攻撃によるものだと時雨が理解した瞬間にはもう、吏将は寸でのところでそれをかわし、受身を取りつつ魔法陣を広げて飛び込んでいた。この深手で、しかも増えてしまった敵を相手にするのは不可能と判断したのだろう。

 「ちっ、取り逃がしちまった」

 惜しかったと、酎は心底悔しそうに歯噛みした。小鬼状態の死々若丸が、キーっと苛立ちついでとばかりに白紙となった元魔法陣をビリビリに破きまくっている。

 「時雨、その腕は・・・・・・」

 鈴木が思わす息を呑んで、時雨の隣にしゃがみこむ。両腕ともありえない方向にひしゃげ、指も全部捻じ曲がっていた。

 「大した使い手だった。あの一瞬で燐火円磔刀を破壊するにとどまらず、拙者の両腕をここまで正確に潰すとは・・・・・・情けないが、早急に百足に戻り治療しなくてはならんな」

 「急いでそうしよう! 飛影の所にも陣達が間に合ってるはずだから、もう心配いらな」

 鈴木の言葉は、猛烈に吹きつけてきた突風によって遮られた。これ以上なく攻撃的で、明確な憤怒と憎悪を孕んだ風。あやうく飛ばされそうになった死々若丸は、慌てて青年姿に変わりこれをしのいだ。

 「向こうに寄るか。オレが言うのもなんだが、生け捕りが原則だろう? 飛影達は無傷かどうかわからんし、鈴駆だけでは多分荷が重い」

 荷の意味が何なのかは、わざわざ説明しなくてもわかるはずと言わんばかりに立ち上がり、吹きやまない風を全身に浴びながら、死々若丸は鈴木らを促した。

 「酎、オレは死々若丸と一緒に行って来る。お前は時雨を百足まで送ってくれ」

 風の根源に向かう二人の背中を見送りつつ、酎は手を振って答えながら携帯電話を取り出した。百足の現在位置を確認するためだ

 「おう、了解〜。んじゃあ、さくさく行こうかねぇ・・・・・・あん?

 「かたじけない、酎。・・・・・・おいどうした?

 液晶画面を凝視する酎に、時雨は怪訝そうに尋ねた。

 「いやな、この時間帯なら69層辺りを回ってるかと思ってたんだけどよ、意外に進んでねぇなと思ってな。まぁ予定は未定だし、こんな状況だからスケジュール通りなんて無理か。ただこっからだと結構遠いからよ、おめぇさんしんどいだろうが、ちいっと頑張ってくれや」

 実際これまでも何度か、似たような事はあった。だから酎も時雨もさして気に留めず、そのまま百足へと移動し始めたのだった。

 

 

 飛影は、陣の事をただの能天気と思った事は一度も無い。彼の言動や行動にはいちいち毒気を抜かれる事こそあるが、陣が秘めている戦闘本能の強さは自分と大差無いだろうと考えていた。しかしそれでも、眼前に展開している光景は意外だった。

 普段の童顔はいずこかへ消え去り、死々若丸をも凌駕する鬼の形相で、怒気と殺気を隠そうとしない陣の姿にお目にかかれるとは、夢にも思っていなかった。

 飛影達を血祭りにあげると宣言していたはずの爆拳は、その油断と奢りが災いした。直後、陣による修羅疾風脚の急襲をまともにくらいふっとばされ、大木にぶち当たって昏倒しかけたところを、一瞬で飛び込んできた陣の右手のひらによって、顔面を鷲掴まれたのだった。額が、こめかみが、みしみしと鼓膜の奥で不吉な音を立てている。視界はほとんど塞がれているが、それでも陣がどんな表情で自分を睨んでいるのかは、手に取るようにわかった。

 「魔忍の里は、どこだ」

 低く鋭い声が絞り出される。かと思ったら次の瞬間には、やはり押し殺す事などできなかったのか、声も感情も激しく弾けた。

 「凍矢の核は、どこだ!! さっさと白状しねぇと、オメの脳みそ握り潰してやんべ!!

 最初、陣は空いた左手で爆拳から魔法陣を奪い、すぐさま里へ転移しようとしていた。しかし、魔法陣に触れた瞬間、バチバチと電流のような発光と衝撃がほとばしり、跳ね返されてしまったのだ。もしかすると、この魔法陣は雹針以下、現在の魔界忍者しか使えないよう細工されているのかもしれない。

 もし悠焔で間に合っていたとしても、どの道自分はここを通れなかったのか。そう思うといっそう悔しさが増して、怒りが増幅される。

 「は、は、離せ・・・・・・!

 爆拳はやっとの思いでそれだけ言った。頭部を掴まれた痛みが激しすぎて、四肢を上手く動かせなかった。このままでは少しの抵抗もできない内に、陣の言葉通り脳を潰されかねない。

 「陣! ブレイクブレイク!」鈴駆が陣の左手にぶら下がるような体勢で叫んだ「もうちょい手加減しないと、里の情報引き出す前にこいつ死んじゃうかもよ。そしたら元も子もないって!

 そこでようやく我に返ったのか、陣はわずかばかり右手の力を緩める。と、そこへ鈴木と死々若丸も到着した。二人に魔法陣などの事を説明しながら、周は緊迫の解けない顔でこう言った。

 「驚いたぜ、陣があんな顔するなんてな。痩傑が見てもビビるんじゃねーのか」

 「正直、オレ達もまだ慣れない・・・・・・いや、慣れたくないな」

 周と鈴木のやり取りを背に、死々若丸は一足先に陣に近付いた。数年ぶりに相対した霧使い・爆拳は、確かにあの当時と比べれば妖力が上がっていたが、それでも恐るるに足らない。

 「もっぺん聞く。魔忍の里の現在地は?

 今度はまともに声が出せるだろうと、言外に含みを持たせ、陣は改めて詰問した。

 「・・・・・・答えなきゃ殺すって、言いてぇとこだろうが、生憎、言おうとしても死んじまうぜオレは」

 切れ切れの息の下から這い出すように、爆拳の声が紡がれた。言葉の意味を図りかね、陣達は皆、怪訝そうに首を傾げるか顔を見合わせるかの反応しか返せない。

 「あの里長が、タダでドーピングなんざするもんかよ。当然、交換条件付きだ。魔忍の里や里長にとって、不利益な情報を口にしようとしたら、歯ん中に仕込まれてる毒薬の封印が解けるんだと。昔は人間どもか、よっぽどの雑魚ぐらいにしか効かなかった術らしいが、今の里長なら、自分より妖力値が少しでも低ければ使えるみてぇだ」

 陣の脳裏に、過去のワンシーンがよぎる。やはりあの時の、敵方の陰陽師達は雹針と通じていたのだ。しかしその理由は、雹針の目的は、未だ全く読めなかった。わからない事だらけで、突破口が見えない。やっとの思いで爆拳を捕らえたのに、凍矢に近づける気がしない。何もかも、まだ闇の中だ。重い鎖や枷のようにまとわりつくそれにがんじがらめにされそうで、しかし陣はそれを振り払うかのように、強いトーンの声を発した。

 「だったら、オメさちっとばかし寝てろ」

 「あ?」

 「一言も口利く必要ねぇだよ。失神したオメを躯の前にひったてりゃ、あいつが記憶読んでくれるだ」

 大丈夫、手立てはある。危うく忘れかけていたが、躯の能力さえあれば、尋問や拷問など不要。確実に正しい情報が得られるのだから。

 鈴駆の顔がぱっと輝いた。

 「そうだよ、その手があるじゃん!!

 死々若丸の表情も、ここへきてようやく少し和らいだ。

 「土使いは取り逃がしてしまったから、向こうは向こうで情報漏洩への対抗策を講じてくるだろうが、今度はこちらが先手を打つぐらいできるだろう」

 麒麟が、やれやれと言いたげに剣を収めた。

 「善は急げだ。陣、そいつを昏倒させるならさっさとしろ。手加減が難しそうなら、オレが代わってやってもいいが?

 「んにゃ、無用だべ。オラが自分でガツンと」

 不自然なタイミングで、陣の言葉が途切れた。ふと、耳障りな音が聞こえてきたからだ。それはすぐ近く。低く、押し殺すように、しかしさも楽しそうな響きで陣達の鼓膜に忍び込んでくる。

 「く、く、くっひひひ」

 爆拳が、笑っている。パニックの極地でとうとうあちこち壊れた・・・・・・わけではなさそうだ。誰が聞いても、はっきりとこの笑い方が嘲笑だとわかる。

 「何がおかしい?

 尋ねたのは飛影だった。すかさず剣の柄に手をかけながら、彼は不吉な予感が蠢くのを嫌でも感じ取っていた。爆拳の笑い声は、先ほど彼が雪菜について言及し、自分を挑発してきた時のそれによく似ている。

 状況は、何も好転などしていない。動かしがたい現実は、しぶとく立ちはだかっているのだ。それがわかってしまった。

 「魔界の二代目大統領閣下様は、果たして協力してくれるかな? いや・・・・・・できるかな?

 爆拳は、わざとらしく言い直した。陣や飛影達が嗅ぎ取った悪い予感を、生じてしまった不安を、煽って楽しんでいる。自分が絶対的に不利な、この状況で。いっそ不気味ですらあった。

 「移動要塞百足が、奴にとっての安全圏だとでも思ってんのかよ? だとしたら77戦士ってのは、ずいぶんと楽天家揃いだなぁ!!

馬鹿にしたような態度に、腹を立てている暇など無かった。今の状態の爆拳がここまで言える事態が、起こってしまったという事なのだから。

 

 

 流石は生まれて始めて、絶望で目の前が真っ暗になる感覚を、味わわされた。ぐらりと足元が傾いだが、そこでハッと我に返り慌てて踏ん張る。それでも体のあちこち、特に喉が引きつって、ついつい声がひっくり返った。

 「これ、これは・・・・・・呪氷使い部隊が? それともまさか、雹針?!

 肌の裏側まで侵食してきそうな寒さなど、彼女はすでに気に留めることさえできなくなっていた。

 現大統領官邸を兼ねた移動要塞・百足の、変わり果ててしまった惨状のせいで、視覚から打ちのめされてしまっているのだ。正面入り口から入ったとたん、突き刺すような冷風が出迎えた。天井にも壁にもそして床にも、あたり一面に霜が下りて、凍結している部分も少なくない。

 しかし流石にとって本当に衝撃だったのは、内勤乗組員達の痛ましい亡骸が、そこかしこに放置されている事の方だ。酷い凍傷で四肢が腐り落ちた者もいれば、おそらく魔笛霰弾射を浴びせられたのか、全身蜂の巣状態にされた者などもいる。

 「後者のみか、それとも両方か・・・・・・って所ね」

 流石の唇から零れ落ちた疑問に、棗が答えた。

 「どっちにせよ、まさかこんな早業で連中が百足を襲撃するとは思わなかったわ。六人衆の代理として、癌陀羅に派遣された班が百足を離れてから、私達が到着するまで20分もかかってないのよ」

 「百足の位置情報ぐらいは、魔界忍者だったら掴んでいてもおかしくねぇが、敵さんもずいぶんと思い切った真似してくれたもんだ」

 九浄が悔しそうに舌打ちした。ここへ来る前に、GPSで百足の現在位置を確認した時から、まだ69層にいるのかとは思ったが、まさかこんな状況に陥っているとは夢にも思わなかった。さらにいえば到着した時、百足が何故か停止していたので悪い予感が鮮明な輪郭を描いたのを感じたものの、正直これほどまでの事態が起きているとは想定外だ。

 「それにしても、連中はまだこん中にいるのか? 妙に静かなのが不気味だぜ」

 白銀の鎌を手に、黒鵺は固唾を飲んだ。すると一同の先頭に立っていた痩傑が、班員達を振り返って口を開いた。

 「とにかく、百足の内部全体を確認しなければ話にならん。流石、九浄、棗は手分けして生存者捜索と被害状況の調査を頼む。黒鵺は、オレと司令室に来てくれ。躯の安否が気になるし、もしも雹針が来ているなら、絶対にあいつの所に行ってるはずだ」

 雹針にしてみれば躯もまた、因縁浅からぬ宿敵である。痩傑の言い分はもっともだ。

 5人は指示通りにばらけ、痩傑と黒鵺は最上階の司令室を目指してまっしぐらに進んだ。制御室が破壊されたのか、エレベーターは使い物にならず、しかたなく自分達の足を使う。

痩傑も黒鵺も空を飛べるので、いったん外に出て窓から入ろうかと思ったが、司令室の窓ガラスは、以前幽助に破られた後に強化され、黒龍波二連発でもかすり傷一つ負わないような特別製となっていたためこの案は却下となった。。

その司令室に向かう途中は、まさに死屍累々。遺体の状態からして、一目で息をしていない事がわかった。流石達には生存者捜索を任せたが、それはどうやら徒労に終わってしまいそうだと、二人は無言で同時に同じ事を思い、怒りと悔しさを持て余した。

 移動中、敵のものらしい妖気も、戦闘中かと思われる妖気同士の衝突も感知しなかったが、それは逆に焦燥を煽ってくる。呼吸するごとに肺の奥までこごえてしまいそうな冷気が、血流にのって全身に回ってきそうだ。

 たどり着いた司令室の入り口は、ドアはロックされ固く閉ざされているものの、いたっていつも通りだった。分厚い氷に封印でもされているのではないか、位の事を考えていた痩傑と黒鵺にとっては少々拍子抜けだが、すぐに気を引き締めて、ドアをはさむように左右に別れると、背中を壁にぴたりとあてて互いの視線を交わらせ、呼吸を揃える。

 次の瞬間、二人は意を決したように同時に行動を起こした。

 防音と防弾を兼ねた強固なドアを叩き壊し、中に飛び込む。

 「躯! 無事か?!

 切羽詰った黒鵺の声に、誰も答えない。司令室は、コンピューターやモニターはもちろん、備品の一つ一つに至るまで壊れ、ひっくり返り、この場で筆舌に尽くしがたい激闘を繰り広げられた事を物語っている。

 しかしその激闘の当事者達が見当たらない。雹針らしきものの姿はもちろん、ここの主である躯すらも。しかしすぐに、黒鵺がとんでもないものを見つけてしまった。

 「おい、あれ! ・・・・・・もしかしなくても、躯の!!

 彼が指し示す先。司令室の片隅に打ち捨てられたような、それ。痩傑の位置からはちょうど死角になっていたため最初は見えなかったが、少し移動すれば嫌でも視界に飛び込んできた。

 床の上に転がり、無残に血に塗れていたのは・・・・・・見間違うはずもない、躯の右腕。

 空間を切り裂くと言う、彼女最大の武器でもある右腕が、付け根からもぎ取られているではないか。

 トーナメントでも負わなかったような重傷を負っているのに、躯本人が何故ここにいない。思考停止どころか崩壊しそうだ。

 「一体、ここで何が・・・・・・あの躯がこんな目に合わされたって事は、やっぱりここにも雹針が来たって事だよな?

 痩傑はひとまず九浄、棗、流石に同時通話で躯が司令室にいない事と右腕を失った事、そして彼女が百足のどこかに身を隠しているかもしれないからと、捜索を指示する事にした。ちなみに躯の携帯が通じない事は、司令室に到着するまでに確認済みである。

 しかし、携帯電話を開こうとした痩傑の手が、ぎくりと硬直する。視界の片隅で、何かが閃いた。弾かれたように振り向く。上下逆になった円卓の陰で白い大きな紙がかさり、とかすかに鳴いていた。それも、二枚。

 「黒鵺、これはどういう意味だと思う?

 痩傑に問いかけられる前に、黒鵺も紙に気付いていた。二人は同時に悟った。これは、瞬間移動の魔法陣だったと。それが二枚分あったと言う事はつまり、移動先も二箇所。内一箇所は、魔忍の隠れ里。雹針が帰るために。

 では、もう一枚は? そして、躯の不在理由は?

 それぞれが、いやおう無しにイコールで結びつく。

 「雹針は躯の武器を封じて・・・・・・しかも、どこかに“飛ばした”ってのか!

 「瞬間移動ってのは、便利な代物だなちくしょう!! 自分の移動だけじゃなく、外敵の排除にも使えるとは恐れ入ったぜ!

 悪態をつきながら痩傑は、携帯電話を操作し直して、通話先に飛影を指定した。

 「飛影! 緊急事態だ。とにかく躯を探せ!!

 

 

 百足にいる痩傑から、緊迫極まる声で飛影に電話がかかってきた。百足、という言葉を聞いただけでげらげら耳障りな騒音をたてる爆拳を、陣は有無を言わさずみぞおち突いて沈黙させる。

 「どしただ? 向こうで何かあったんけ」

 騒音がやんでも、不吉な予感は増幅する一方。飛影は痩傑からの説明を聞きながら、陣の方を一瞥さえせずに額のバンドを外して邪眼を開きながら短く答えた。

 「百足に雹針が現れたらしい。右腕を切断された状態で、躯が消えた」

 「いや、ちょ、待っ!! それ色々省略しすぎでしょ!! 前後どうなってるのさ?!

 「黙れ、気が散る。詳細は、痩傑から聞け」

 思わずわめいた鈴駆に構わず、飛影は通話を切って邪眼に集中するのみ。他の一切を遮断したその横顔からは、驚愕や不安、他にも色々な感情を懸命に押し殺している様子が見て取れた。

 陣達はすぐに携帯を取り出して、同時通話状態で痩傑に繋ぐ。そして、百足が今どうなっているのかを聞いた。さらにそこへ、棗からも着信があった。百足の制御室にエンジンはもちろんの事、あの医療ルームや、時雨専用の診察室なども徹底的に破壊しつくされ、さらにその上から重厚で頑強な氷に閉ざされていると。

 「複数犯だな。思うに雹針は呪氷使い部隊をつれて、百足から77戦士が全員出払った状態の、その僅かな隙をついて襲撃した。部下達には内勤乗組員への攻撃と百足の主要システム破壊を命じ、自らは躯様のいる司令室へ・・・・・・」

 そこでどんな雪辱戦が繰り広げられたのか。麒麟は武器を握る手に力をこめた。爪が手のひらに食い込むほど。

 まさかこんなにも早く、雹針が躯の前に現れるとは思っていなかった。いや、危惧はしていたからこそ、絶えず最低でも一班は百足の警護に当たっていたのだが、雹針はそれさえ崩して見せたのだ。爆拳と吏将を使って。

 時雨の懐柔(あるいは抹殺)も目的のうちだっただろうが、それはあくまで「あわよくば」といった程度だろう。本当の狙いは、一時的とはいえ戦力が落ちる百足を不能状態に陥れ、躯にかつての復讐を果たす事。覇王眼を抉られたその報復に、空間を切り裂く彼女の右腕を奪うという、実におあつらえ向きな置き土産。

 「あの百足がたやすく突破され、しかも躯がそこまでの深手を負わされた上に行方不明だと? 覇王眼の力は、ドーピングなんて生易しいものではないな。その名の通り、持ち主を魔界の覇王にするまで止まらんのだろう」

 死々若丸は言いながら、足元で伸びている爆拳の間抜け面を見下ろした。おそらくはこやつも吏将も、いや魔界忍者の隠れ里全体が雹針の駒だ。イチガキと、大して変わらんに違いない。

 雹針の冷酷な価値観が垣間見えた。そんな男に、陣と凍矢はずっと支配され続けているというのか。

 「それにしても、何で躯に魔法陣を使ったんだ? わざわざ新たな場所を指定してまで飛ばしたんだから、多分躯にとどめはさしていないと思う。奴には死体を隠す理由も必要も無いはずだ。どうしてそんな――こう言っては何だが――まだるっこしい真似を?

 鈴木は鈴木で必死に考えを巡らせるが、躯の飛ばされた先に皆目見当がつかない。魔忍の里ではない事だけは確実だろうが、かえって手がかりが無いように思えた。隣でう〜んと唸りつつ、どうにか意見を捻り出そうとしているのは周だ。

 「もしオレが雹針の立場だったら、むしろとどめを刺すために飛ばすと思うぜ」

 「・・・・・・つまり?

 「生きて帰ってこられねぇような、危険な場所に放置すんのさ。馬鹿正直に戦うより、自分の労力消耗しなくてすむだろ? 元暗殺者で魔忍のボスなら、そーいう手段とるかもしれねぇと思うんだが」

 「かえってややっこしいよ!」鈴駆がしかめっ面で声を荒げた「この魔界に、躯にとっての危険地帯なんてあるの? 右腕以外にも怪我してるかもしれないけどさ、それでも躯が生還できないような場所なんて、あるとは思えないよ」

 「生還、できない?

 ふと、陣が呟いた。今何か、自分の脳裏で何かが閃いた気がした。かすかな明滅。だけど見過ごしてはいけないと感じた。感覚を広げ、追いかける。またしても響いたのは、最も慣れ親しんだ声で紡がれる、忌まわしい言葉。

 

 誰の血の雨が降るのやら

 

 血の雨。 血

 

 「まさか」

 さらに遡った記憶に、陣は戦慄する。まさか雹針は、『あれ』をも利用したというのか。だけど、もう他に考えられない。確信した。躯が飛ばされた先。そして、彼女が晒されているだろう、生命の危機。

 「飛影! 17層北東部、X-99地点!!

 この時、飛影の携帯に再度着信があった。黒鵺からだ。飛影は反射的に携帯を開いた。陣の緊迫した声とこの着信が、偶然重なったとは思えなかった。無機質な電波越しに、陣の声にこめられた危機感と同じ気配を感じ取ったのだ。

 『飛影、今すぐ17層北東部のX-99地点を見ろ!

 まるで示し合わせたかのように、同じ内容の言葉。身体の奥からじわり、と血流が冷やされる気がした。

 

 

 右腕のあった場所が燃えるようというか、大きな焼きゴテを満遍なく押し付けられているかのようだったが、それでも躯は上手く受身を取って体勢を整えた。眼前に、あの魔法陣を描いた大きな紙を広げられたと思ったら、次の瞬間にはもう飛ばされていた。

 「・・・・・・一生の不覚、はオレの方みたいだぜ、棗」

 ついこの間そう言って憤っていた彼女に、躯が小さく一人ごちた。完全に自分のミスだ。右腕を奪われたのも、同じく。

 立ち上がって躯は、自分の背後で広げられた白紙と、その傍らに倒れ付している妖怪を見つけた。思うに、自分はこの紙に描かれていた魔法陣が出てきたのだろう。そしてそれをもってきたのは背中に操血瘤をとりつけられた、元はどこぞのテロリストかと思われる妖怪。まだ、こういう捨て駒が残っていたらしい。しかも全身血まみれた。

 任務遂行したら、自害するよう命じられていたのだろうか。それにしても、何か不自然だ。よく見るとその妖怪の出血はすべて吐血によるもののようだ。他に外傷は見当たらない。毒でも飲んだのだろうか。だけど、このぬぐいようの無い違和感は何だ。

 さっきから薄くまとわりつく、この霧は何だ。真後ろとはいえ、紙と妖怪に気付くのが遅れたのは、この霧が視界を邪魔してそれに気を取られたせいだ。

 周囲を見渡す。木の一本、草の一本はえていない。生き物の気配がまったく無い。霧の向こう、透明な泉が見えるだけだ。やけに、透明な。魚はもちろん、肉眼では捕らえられない微生物まで拒んでいそうなくらい、完璧な透明度。

 「・・・・・・そうだ、ここは」

 躯はこの場所を、見た事があった。以前、もう一つの特殊能力を使って、記憶を読んだ時に。思い出した。泉の名前を。この霧の正体を。ここは、かつての天敵さえ近寄ろうとしなかった、魔界史上最悪な、禁断の地。

 「虐鬼の泉だ!

 襲い来る眩暈は、気付いてしまった事実による衝撃のせいか。それとも、霧の毒素からくる初期症状か。

 

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