〜第五章・永別の瞳〜

 

 

発見されたドクター・イチガキの遺体は、首から下の骨が殆ど砕かれた状態だった。それも何箇所かは、折れた骨が皮膚を突き破って露出しているという、目を背けたくなるような有様である。逆に頭部は、不自然なくらいにまったく傷が無い。だが、その表情は筆舌に尽くしがたい苦痛と恐怖に引きつってゆがみ、断末魔をあげた瞬間のまま硬直しているようだった。

第一発見者は、癌陀羅の諜報員。場所は、つい数刻前に爆破されたイチガキの隠れ家があった場所。手掛かりが残っている望みは殆ど無いが、念のためにと黄泉が数人派遣していたのだ。まるでその動きを見計らっていたかのように、見せ付けるようにその遺体が置きざられていた。「犯人は現場に戻るとは、よく言ったものだな」と、鈴木が皮肉った。

「イチガキはいわゆるスケープゴートと、後は生贄の大量確保として、利用されていただけか。凍矢の拉致に成功したのを区切りに、雹針にとってはお役御免になったらしい。で、そのとたんに切り捨てられた、と」

「・・・・・・この陰湿な殴り殺しの手口、爆拳のクセだべ」

 跪いて無残な亡骸を見下ろし、陣が呟くように零した。弱者をなぶり、いたぶるのを心底楽しんでいたあの霧使い。躯の予想が正しければ、雹針の妖術によって格段に妖力が上昇しているはず。あのたちが悪い単細胞が、ふってわいた強大な力をどう弄ぶのか、想像しただけで不快感がこみ上げてくる。

 「顔さ殴ってねぇのは珍しいけんど、多分これって・・・・・・」

 「あぁ、被害者の身元がわかるよう、わざと残しておいたんだろう」

 大した趣味だ、と死々若丸が吐き捨てる。

 送信されたメール内容によると、諜報員が現場に到着した時既に、イチガキの遺体はすでにあったのだそうだ。いかにもこれ見よがしに、わかりやすく。地下室跡とみられる、正方形にぽっかり空いた大きな穴の中心。

 「わざわざこんなあからさまな真似しやがったってぇ事は、これも挑発か?

 「かもね。見立て殺人にしては、ヒントが少なすぎるし」

 しかめっ面の酎を見上げて答えつつ、鈴駆はあらためて元地下室内を見渡した。

 「ただ、何で地下室のあった所に死体を置いたんだろう? しかもご丁寧にど真ん中だよ」

 「確かに、オレも気になる」鈴木も加わった「ただの気まぐれだとは、到底思えんな。この場所でなくてはならなかった理由が、あるのかもしれない」

 そんなやり取りを聞きながら、陣はゆっくり立ち上がって自分もこの正方形の穴をぐるり、と見回してみた。

 結構広い。六人衆邸リビングルームのおよそ2倍か、それ以上。

 「酎達、ここさ来たんだべ? 何か変わったもんあっただか?

 「ん〜、来た事は来たけどよぉ、イチガキがいるかいないかを確認して、それだけでとっとと上の階に戻っちまったからなぁ。でも今はもっかい来てみて、意外と広かったんだなとは思うぜ。あん時ゃそこら中荷物だらけだったもんで、狭く見えてたもんなぁ」

 「それに、置いてあった木箱やら何やらの類は、大量の埃をかぶり全て例外なく朽ちかけておったからな。イチガキの所有物ではなさそうだ。というか、こやつも地下室には殆ど足を踏み入れておらぬのではないか?

 死々若丸が腕を組んだまま、顎をしゃくってイチガキの死体を指し示した。

 「だども、ここに置いてった事にもし意味があるんだとしたら・・・・・・やっぱり、イチガキ本人とこの場所に関係性があると思うだよ。んで、酎や鈴駆の言う通り挑発目的の場合、その関係性に気付けるもんなら気付いてみろって事なんでねぇのか?

 「関係性、ね・・・・・・そういえば」

 鈴木の脳裏に、ふと一つの映像がひっかかった。こうして冷静に振り返ってみるまで、すっかり忘却の領域に追いやられていたその僅かな一瞬を、彼は慎重に巻き戻してみる。

 「瑣末な事かもしれんが、思い出すとちょっと気になる点があるんだ」

 「何だっていいだ。言ってみてけろ!

 「うむ、実は最初にここに足を踏み入れて戻ろうとした時、視界の隅で何か動いた気がしてとっさに振り返ったんだ」

 「そんな事があったのか? 初耳だぞ」

 死々若丸がつい割って入る。

 「あの時はオレが最後尾だったし、取るに足らん事と思い込んで報告しなかったからな。しかもそのすぐ後、見ての通りな光景になるほどの大爆発に見舞われて、つい忘れてしまっていたんだ」

 すまない、と罰が悪そうに肩をすくめ、鈴木は本題に戻った。

 「それで、何が見えたかというと、何と言う事はない、紙のきれっぱしだったんだ。や、きれっぱしではないな。物陰に隠れてはいたが、多分大きな一枚の紙の一部分が見えていたと思う。妖気の片鱗も何も感じられなくて、あれ自体は本当にただの紙だったんだろうが・・・・・・よくよく考えるとあれは不自然だな」

 「不自然って、何がだべ」

 「部分的にちらっと見ただけだが、あの紙だけ埃をかぶってなかったんだ。ん、確かにかぶってなかった。あれだけはごく最近持ち込まれたものだったんだろう」

 「それってやっぱ、イチガキが持ってきたってことだべか? でなきゃ、操血瘤に操られたテロリストが、イチガキの命令で持ち込んだとか」

 「っていうか最近っていっても、正確にはいつだろうね?」鈴駆が首を捻った「黒鵺の結界が効けばわかるんだろうけど、やっぱりここも妨害妖波バリバリかなぁ。念のため、確認だけでもしてもらう?

 「そうだな。仮に収穫が無いとしても、その辺ははっきりさせておくべきだ」死々若丸が同意する「それにもし、鈴木の言った紙がここに持ち込まれたのが、オレ達が踏み込んだあの時なんだとしたら、イチガキの逃走経路にも関わっている可能性があるぞ。何らかの妖具だったかもしれない」

 「あぁ、確かにありうる!」鈴木がハッとしたように目を見開いた「消費アイテム系だったとしたら、使い終わった瞬間に妖具じゃなくなり、ただのガラクタと化すからな」

 「だとすると、一体全体何の効果がある代物だったってんだ?」酎が改めて周囲を見回した「見る限り、抜け道跡すらねぇんだぞ。地下室は完全に密室だったぜ。そんな状況で脱出して、しかも建物の爆発からも逃げようと思ったら、瞬間移動っきゃねぇんじゃねぇの? 白狼じゃあるめぇし」

 んな妖術、本当にあんのかね、と酎が続けようとした瞬間、陣があっと突然声を上げた。

 瞬間移動。

 酎がその単語を口にした瞬間、陣の脳裏で過去の記憶がフラッシュバックした。

 脳内に閃く映像が、視界を覆い尽くすように再生される。耳の奥で、当時聞いた声や物音まで鮮明に響く。

 あれは、自分と凍矢がまだ幼かった頃。両親について人間界に滞在していたつかの間の日々。突然現れた数人の妖怪達が現れ、捕まり、そして広げられた―――紙。畳一畳分の白紙。漆黒の線で描かれた魔法陣。その中に飛び込んで、気がついたら敵の牙城。

 思い出した。人間と半妖が共存していたあの村に無事に戻って、村長から聞いた話によると、あの魔法陣は陣や凍矢達全員を飲み込んだ後、魔法陣を描いていた線が消えて何の変哲も無いただの白紙に変わってしまったのだそうだ。実際、白紙に変わり果てた実物も見た。紙自体の大きさと色はそのままに、魔法陣の線も禍々しさもいっさいがっさいが見事に抜け落ちていた。本当にこの中に入って、あの場所に飛ばされたのかと、凍矢と二人首を傾げあった。

 「でもあれは・・・・・・陰陽師の、しかも敵方の術で・・・・・・なして雹針が・・・・・・」

 「陣? おーい陣? 急にどしたの?

 くいくい、と服の裾を引っ張って見上げてくる鈴駆のおかげで、ようやく我に帰った陣は、しかし「ちょっと待ってて欲しいいだ」とだけ言い、急いで携帯電話を取り出すとどこかへかけ始めた。

 「もしもし、蔵馬? 頼みがあんだ。オラでも効く睡眠薬処方してけろ、すぐに! 今から百足に戻っから」

 「は?! 本当にどーしちゃったわけ?!

 目を丸くした鈴駆はもちろん、酎達、そして電波の向こうの蔵馬も突然の発言に面食らった。しかし陣は切迫した表情のまま続ける。

 「躯に、オラの記憶・・・・・・ガキの頃の記憶さ読んでもらうんだべ!!

 

 

 魔界では四強吹雪、と畏怖されている四人の忍者達を前に、女陰陽師は怪訝そうな顔で、何度も何度も彼らから渡された紙をひっくり返したり、表面をさすったりして、小さく首を横に振った。

 「・・・・・・心当たりがありませぬ。方陣を用いる術は私もいくつか会得しておりますが、瞬間移動、それも長距離の術なんて禁じ手にすら存在しません」

 妖怪軍団を殲滅後、任務報告のために依頼主の城を訪れていた閃達一行は、人間界到着時に出会ったあの陰陽師にも面会を申し入れていた。魔界でも聞いた事が無い、不可思議な妖術の事について聞くために。

 「そっかぁ〜・・・・・・でもだったら、敵さん褒めんの癪だけどよ、向こうの陰陽師ども一体全体どんだけすげぇ術知ってんだべか」

 頭の後ろをがりがりかき乱しながら、閃が唸った。

 「わざわざ妖怪軍団などという、危険要素の多い方法をとらずとも、戦に勝利できるんじゃないかと思うんだがな。取れる策は全て取る、とでもいう事だったのか?

 涼矢の厳しい眼差しが、畳の上に広げられた大きな紙に向けられる。目の前のそれは確かにただの紙だ。それ以外の何ものでもない。ここに描かれていた魔法陣にのみ、効力があったのだ。つまりこの紙自体は妖具ではなく、魔法陣の線を描いたものが妖具だったのである。

 「紙そのものに意味がねぇんなら、もうこれ以上こいつのせいで頭悩ます必要ねぇだな。珍しい術の事は気になるけどよ、任務も終わっただしこれにてお開きでいいんでねぇか?

 難しくなりそうだった空気をにこやかに弛緩させ、飛鳥が微笑むと、美霜も頷いた。

 「そうですね。人間界の術の事まであれこれ調査しろとまでは、言われておりませんし」

 ここで美霜は、女陰陽師に向き直って丁寧にお辞儀をした。

 「お手数おかけいたしました。貴女もお忙しい身でしょうに、私達のためにお時間割いて下さった事、感謝いたします」

 「いいえ、礼を言われるほどの事では・・・・・・それに、こちら側の間者に気付けなかったのは、私どもの失態です。こちらこそ、もうしわけありません」

 「なーに気にすんな! 万事解決したんだから、飛鳥の言うとおりそこら辺もお開きだべ! 任務は遂行できたしチビどもは助けられたし、大団円だべさ」

 さて、と。閃は風を使い、ふわっと胡坐のまま宙に浮いた。

 「そろそろ村さ戻んべ。日の入りにも早ぇけど、今夜は流星群くるから、一番見やすい場所今の内に探しとくべ」

 「あぁ、それがいい。せっかくの親子水入らずだからな」

 涼矢も表情をゆるめて立ち上がる。

 妖術の残骸ともいうべき紙の処分は女陰陽師に任せて、四強吹雪は城の窓から半妖の住む村を目指して飛び去った。今宵の流星群を見上げる瞬間を、心待ちにしながら。

 

 

 急遽司令室に置かれた折り畳みベッドの上で陣が目を覚ますと、躯がホワイトボードに二通りの魔法陣を描き終わった所だった。覚醒に気づいた仲間達が、それぞれ声をかけてくるのに応える。司令室内にいるのは躯と六人衆の仲間達。それに蔵馬。黒鵺の姿は見えない。痩傑らと共に、魔忍襲撃に備えているのだろう。ふと窓から外を見ると、とっぷり日が暮れて夜の帳が下りていた。

 目覚めの気分は普段と変わらず、それがかえって違和感を覚えた。虐鬼の泉の毒霧に当てられた時もそうだったが、記憶を読みとられた実感は無い。

 「起きたか、ちょうどいい。この二つの魔方陣に、当然見覚えはあるな?

 パシャ、とホワイトボードを携帯で撮影しながら、躯はベッドから立ち上がった陣に問いかける。多分、すぐさま諜報機関に送信するのだろう。

 「二つ・・・・・・?

 聞き返しつつも、陣は改めてボードを見つめた。気になっていたのは、あの時自分と凍矢を瞬間移動させた、紙に書かれていた魔法陣だったのだが、躯が指し示した二つ目の魔方陣も、確かに初めて見るものではない。瞬間移動の方と構造が違うが、自分は確かにこちらも知っている。

 「思い出しただ! たしか妖怪軍団のアジトの壁に書いてあったやつだべ」

 「紋様が明らかに違うね。これには何の効果があったの?

 見上げてきた鈴駆に、しかし陣は困ったような顔を見せるしかなかった。何せ彼自身にも当時、この魔方陣が何のためのもだったのかわからなかったのだ。

 「や、それが・・・・・・脱出しようとしてた途中で、偶然見つけただけだったからよ、オラもしんねーんだ。近づいてもつついても反応ねかったし」

 「お前の記憶を読んでいた時に見つけてな、そこでは確かに何事も起こってなかったが、妙に気になったんで書き出してみたんだ」

 躯は腕を組んでホワイトボードに向き直った。

 「魔方陣を描いていた線の色と太さは、全く同じだったぜ。筆跡からしても、同一人物が書いたと判断して間違いない。この際、効力そのものについては一時保留しよう。問題は、描いたのが誰かという点だ」

 その場の空気の色が変わった。おそらく、あまりいい色ではない。

 「・・・・・・オラはずっと、人間の陰陽師の仕業だと思ってただよ。実際、とーちゃん達が世話んなった味方側の方に間者がいただし。だども、後からわかったんだけんどそいつも含めて敵方の陰陽師全員、負けがわかった瞬間に、歯ん中さ仕込んでた毒薬飲んで死んじまったらしいべ」

 「ずいぶんと、潔い連中だったのだな」死々若丸が皮肉げに呟いた「それが口封じで無かったならの話だが」

 「あぁ、タイミングとしてはそちらの可能性も考えられる」

 鈴木が頷いた。

 「口封じ?

 陣は、思わず鸚鵡返しにその言葉を口にする。したとたんに、胸中の奥底、音も無く淀んでいた何かがゆっくりと輪郭を形成し、鎌首をもたげる気配がした。それが生まれたのは多分、瞬間移動の魔法陣の事を思い出した時。

 もしも、地下室に放置されていたあの紙に、例の魔法陣が描かれていたのだとしたら、イチガキの脱出成功も頷ける。というかそれ以外に方法は無い。そしてその魔法陣を提供したのが、もし魔忍・・・・・・雹針だったとしたら?

 ジャンル的に見て、この妖術はイチガキの範疇外だ。彼が編み出したものとは考えにくい。むしろ、雹針の得意分野だ。でも、それならば

 「・・・・・・陣の記憶にある魔法陣が、仮に雹針によって描かれていたものだとした場合、陰陽師達は術の出所を隠蔽するために消されたという事になる」

 蔵馬の重い声音が、警鐘のように聞こえた。

 「そんだったら、一体何のためなんだべ?! 妖怪軍団殲滅も、霊界に関する調査も、雹針が命令した事だっただぞ。なしてわざわざ四強吹雪に不利になるようにすっだ?

 疑問を提示しつつも、陣は気づいていた。大きな矛盾が生じた一方、辻褄の合う点も出てきた事に。もし本当に雹針が敵方陰陽師と通じていたのならば、両親達の情報が軍団に筒抜けだった事実も裏付けられる。今思えば、人間の間者だけでは困難なことだ。だけど、やはりわからない。陣と凍矢の拉致も、もしかしたら雹針は知っていたのだろうか。それどころか、彼が裏で手引きしていたとでも言うのか。四強吹雪に殲滅を命じておきながら、彼らを妨害して雹針に何のメリットがあったのだろうか。

 「雹針の奴は、一体全体、あの時何がしたかったんだ・・・・・・?

 「まだあるぜ。煙鬼達がいた、あの難民キャンプ」

 思い出したように、酎が声をあげた。

 「凍矢が拉致られた時も、この魔法陣が利用されてたんだとしたら、説明がつくだろ?

 「あの時も?! だけど本当にそうだった場合、天幕の中に魔法陣の紙をセットしてなきゃなんないじゃんか」

 「わかんねぇか鈴駆? 相手は魔忍だ。スパイ工作なんざ朝飯前の連中だぜ。そもそも一連の連続災害は雹針が人為的に起こしてたもので、陣と凍矢の行動も読まれてた。あらかじめ避難民の中に忍びを潜り込ませたかもしんねぇぞ」

 「さらにオレなりに補足させてもらうと」蔵馬が一歩進み出た「潜入者と誘拐犯は別人だろうね。潜入者の方は魔法陣の書かれた紙――多分、行きと帰り用それぞれ一枚ずつ――を持って天幕内に忍び込み、一枚目でまず誘拐犯を呼び寄せ、二枚目で犯人と凍矢を里へと転送した後、紙を回収して自らも撤退したんだと思う」

 すでに雹針の妖術によって、ドーピング済みだった魔忍達。避難民のフォローや、周辺警護に追われている孤光らの目をかいくぐる事など、容易だったに違いない。

 「陣、この際、四強吹雪が人間界遠征していた当時の、雹針の動機については置いておくぞ。それはたぶん、後からついてくる」

 鈴木の手が、陣の肩に置かれた。

 「ただでさえ、現段階では推測の域を出ないからな。まずは他の77戦士がそうしているように、オレ達も主要都市の警邏任務に就こう」

 「あぁ。後手に回るのは不本意だが、相手が何か動きを見せた時、瞬時に対応するには、今はそれしかない」

 チャリ、と死々若丸の腰で、魔哭鳴斬剣の鍔が小さく音をたてた。無意識に臨戦態勢を意識した死々若丸の手が、柄の部分に添えられたからだ。

 「ん、そうすんべ。躯、オラ達どこの都市さ行けばいいだ?

 「ひとまず、癌陀羅を頼む。やはり勝手を知ってる連中に任せたい。それと蔵馬は旧雷禅国の方へ行ってくれ。黒鵺と飛影がそれぞれのチームに属して動いている以上、お前には浦飯と連携をとってもらう」

 「もちろん、オレに協力できる事なら何でもしますよ。数日は泊り込みできます」

 妖狐変化こそしていないが、蔵馬の翠色の双眸に一瞬金色の光が閃いた。彼にとっても、魔界忍者というか魔性使いチームは浅からぬ因縁がある。

 そして彼ら合計七人は早々に司令室を後にした。一人残った躯は、自分が書き記したホワイトボード上の魔法陣二つを無言で振り返り、陣の記憶の中にいた雹針の姿を思い出していた。

 自分と戦った頃と比べ、数段妖力が落ち、戦闘装束さえ纏わなくなっていた彼はしかし、その滲み出る威圧感と支配力は陣の意識越しにも関わらず、躯の肌をちりちりと刺すほど濃厚だった。次に合間見えるときは、あの頃と同じく禍々しいオッド・アイをぎらつかせているのだろう。

 だけど今度は暗殺指令などのためではなく、純然たる雹針自身の意思で。

 

その日はそれ以上何も動きは無く、77戦士達は派遣された土地で、交代で寝ずの番をしながら夜を明かした。だが陣を始め、六人衆の面々や凍矢と親しい者達はろくに眠る事などできなかった。

 特に陣にしてみれば、凍矢の所在さえわからぬまま、どことも知れぬ場所に離れたまま一日を終えまた始めるのは、彼と出会って以来これが初めてだった。

 

 翌日。

 

 癌陀羅から、北北西へ数百キロ離れた辺境の地。そこにはおよそ200年程前に定住した遊牧民達の集落から始まった、小都市・悠焔(ゆうえん)があった。現在でも酪農で成り立っているその街は、幸いにも先日までの連続災害の被害をほとんど受けずにすんでいた。しかしその一連の災害が妖術によって引き起こされ、その主犯格が未だ得体の知れない集団・魔界忍者のトップに君臨する男だと判明したニュースが流れた今、普段ののどかな雰囲気もにわかに緊張し始めていた。

 一般市民達は、最初の内は災害のために備蓄していた食糧や衣料品を改めてまとめ直し、不測の事態に備え出した。街の自警団は武器や防具を整えてさらに団員を集い、市議達は今年度予算を切り崩してでも傭兵を雇うかどうか検討中である。

 ぴりぴりと音までしそうな空気の変化に戸惑いつつ、街の中心部に位置する商店街では、それでも主婦達が井戸端会議に花を咲かせていた。

 「嫌な雰囲気になってきたわねぇ。こんな田舎でさえ危機感強くなってるんだから、主要都市はどんだけテンパってるのかしら」

ぱたん、と長い尻尾を揺らして一人がぼやいた。対するもう一人は、そうねぇとため息混じりに応える。

 「三竦みの頃の全面戦争危機が去ったかと思ったら、今度は魔忍の大規模テロの恐れでしょう? やっぱり魔界に平和なんてありえないのかもしれないわ」

 がっくり肩を落とすと、もともと軽くは無い背中の甲羅がよりいっそう重みを増した気がした。

 「もしかしたら77戦士のみならず、躯大統領と癌陀羅の黄泉様も参戦なさったりして。あぁ、まったくどうなることやら!

 「災害に見舞われなかった幸運が、まだこの街に続いているといいんだけど。政治面でも観光面でもいまいちパッとしない所だから、多分目をつけられてないと思うのよね」

 「まぁ、望みをかけるとしたらせいぜいその点くらいだもの」

 もう一度尻尾を揺らした彼女が、苦笑と共に紡いだ言葉。何気ない一言。それに対する情け容赦ない皮肉であるかのように、街の南居住区の方からどぉん、という轟音が足元まで揺らす勢いで鳴り響いた。それを追いかけるように、折り重なった悲鳴がかすかに響いてくる。

 「え、何」

 南の方角へ振り返ろうとした刹那、主婦達の目の前で景色が一変した。まっすぐ伸びていたはずの道の真ん中に亀裂が走ったかと思うと、瞬く間にそこが波打ち盛り上がり、一気に巨大化したのだ。

 舗装のために敷かれていた石畳がぼろぼろとメッキのように剥がれ落ち、その下の大地が意志でも持っているかのようにむくむくとふくれあがっていく。それは見上げるほどの高さになり、10メートルに達するのではと思われた。しかもそれはただ、大地が異常隆起したわけではなかった。巨大化しながらさらに蠢き、徐々に形が変化していっている。みるまに頭部が、胴体が、四肢がかたどられていくではないか。

ややして、悲鳴すら上げられずない市民達の視界に映ったのは、どっしりとそびえたつ土の巨人だった。ぎらり、と商店街を見下ろす両眼とばっくり開いた口らしき部分は、漆黒の闇が不気味に淀んでいる。

 

巨人はおもむろに両手を持ち上げると、勢い良く振り回し始めた。

 

 

悠焔に突如土の巨人が数体出現したという情報が癌陀羅に入ったのは、それからまもなくの事。諜報機関のマークを外れていた地域を不意打ちされ、多少の混乱は生じたがその情報はすぐさま77戦士全員に一斉配信された。

 魔界忍者がついに行動を起こしたのは間違いない。同じ階層にいるという事もあり、六人衆の中から悠焔へ出撃を命じられたのは、飛翔能力のある陣と死々若丸だった。黄泉の統治下とはいえ、さすがに癌陀羅をがら空きにするわけには行かない。

 他に悠焔へは、幽助と蔵馬も向かう事になった。プーに乗っていくという事だから、到着時間は四人ほぼ同時だろう。

 悠焔に近づけば近づくほど、陣は自らの操る風の気温が低くなっていくのを感じていた。北の方角へ向かっているのだから当然だが、それ以上に彼は背中にじっとりとぬめるような悪寒が這いずり回っているような気がしてならなかった。

 土の巨人。

 そんなものを作り出したのか召還したのかは知らないし、そもそもそんな技自体陣の記憶にはないが、これは確実に土使い部隊の能力だ。雹針によって強化された彼らが新たに得た、特殊技能と見て間違いない。今から向かう悠焔にはその土使い部隊の部隊長――吏将もいるのだろうか。いや、きっといるに決まっている。

 癌陀羅そのものへは攻め込まなかったとはいえ、同じ階層で凶行を起こせば、陣が必ずそこへ派遣されるとあの男は当然読んでいるはずだ。

 狡猾で冷徹で、爆拳以上に虫の好かなかったあの男は。

 さらにいえば、より吏将と相性の悪かったのは凍矢だった。律儀で実直で情の深い凍矢は、吏将の冷酷な合理主義など到底受け入れられず、事あるごとに衝突していた。それは陣と画魔も同様だったが、実はいつも吏将に噛み付くのは凍矢が先だったのだ。

 吏将にしてみても、修羅の怪(或いは魔性使いチーム)としてのリーダーは自分だけれど、長い目で見れば、里長・雹針の直弟子にして、隠れ里の次期後継者とみなされていた凍矢の方こそ立場が上、という事実は腹に据えかねていただろう。当時は実力的にも適正から見ても、吏将の方が魔忍として上だったのだから。口や態度には極力出していなかったけれど、密かに吏将の風を読んでいた陣は知っている。彼の心の奥底で大量に沈殿していた、深く暗い嫉妬を。

 ごうごうと、風のうなる音を聞きながら思い出しつつ、陣は改めて不安に飲まれそうになる。

 凍矢は、無事だろうか。

 「な、あれは・・・・・・?!

 小鬼状態で飛んでいた死々若丸の声が、引きつって千切れた。ハッと我に返って地上を見下ろすと、まるで何匹もの幼虫が一枚の葉を寄ってたかって食い散らしているかのごとく、悠焔の街を破壊活動によって侵食していく巨大な土の塊達が見えた。縦横無尽に我が物顔で、時折地鳴りのような咆哮を響かせながら。

 「災害なんぞより、よほどたちが悪いな」

 「とにかく止めっぞ! すぐに幽助と蔵馬も来てくれんべさ」

 街の真ん中へ二人は急降下を始める。陣はそのまま土の巨人の一体に、修羅旋風拳を繰り出しながら突撃していった。いきなり頭部の真ん中めがけて炸裂し、轟音と共に巨人の頭が砕け散る。

 しかしそれでも残った首から下が、何事もなかったかのようにのし歩き続けた。

 「! しぶてぇ連中だなや。そんだったら、全身バラバラに壊し尽くしちゃるべ!!

 最初から手加減は考えていないらしい陣は、迷わず両の拳に竜巻を集めて再び突っ込んでいった。この巨人達の中には、吏将の操るものもある。その裏には雹針がいる。奴らが構える敵陣の真っ只中に、凍矢が囚われている。そう思うだけで血が沸騰した。

死々若丸は青年姿に変わりいったん地上に降り立って、魔哭鳴斬剣を鞘から抜く。

 「土くれならば、血も流れまい。我が剣の錆びにすらなれぬとは、笑止千万!!

 振りかざし、くるりと回転させて地面に突き刺す。刺さった地点から、その瞬間を待ち焦がれていたかのように、無数の髑髏がいっせいに湧き出て踊り狂いながら、歓喜の叫びを轟かせて巨人達に襲い掛かった。死々若丸自身も剣を構え直し、髑髏の大群に阻まれた巨人達に切りかかる。

 そうこうしている内に、背後から陣に殴りかかろうとしていた一体の巨人の腕が、大きな光の玉の直撃を受けて弾け飛んだ。地上におちる、両翼の影。

 「よぉ! ちっとばかし遅くなったな!

 得意の霊丸で巨人の腕を打ち砕いた幽助が、プーの背中から飛び降りてきた。久々にローズウィップを構えた蔵馬も後に続く。

 「ご大層な技を見せてくれたが、黒龍や白狼と比べたら、粗悪な人形遊びといった所だね。早急に片付けよう」

 戦闘に身を投じるのは、実に第一回トーナメント以来となる蔵馬だが、そんなブランクがあるようには幽助達の目にも全く見えなかった。

 77戦士・それも六人衆の内の二人と、トーナメント準優勝者、そして伝説の極悪盗賊・妖狐蔵馬に組まれては、巨大で凶暴とはいえ土人形の集まりなどひとたまりもない。陣と死々若丸にしてみれば、これまで戦ってきたテロリスト達と力量は大差無い程度だった。

 30分とかからずに巨人達を破壊する事はできた。しかし、街の崩壊があまりに悲惨だった。建造物の殆どは無残になぎ倒され、折れ曲がった鉄骨や土台がむき出しになっている。そして何よりも胸抉る惨状となったのは、犠牲となった住人達の遺体であった。陣と死々若丸が到着した頃には、もうほぼ全滅していたようだった。

 戦っている内に四人が辿り着いたのは、どうやら商店街だった地点らしい。屋台や商品が散乱し踏み潰され、同じような状態の犠牲者達が点在している。もはや生前の姿を推測する事さえ不可能な状態だ。

 「ひでぇ事しやがる・・・・・・戦えねぇ連中や戦いたくねぇ連中を巻き込んで殺すだなんて、とことん腐りきってるぜ!

 忌々しそうに吐き捨てた幽助の隣で、蔵馬は逆に言葉も出ないのか、キュッと下唇を噛み締めたままそれでも街を襲った惨劇の跡から、目を離せないようだった。

 陣はぎりっと歯噛みして、ふわりと宙に浮かぶ。驚いた死々若丸から声をかけられるより早く、彼は噴出する怒りに任せて腹の底から絶叫を放った。

 「吏将ーー!! でてこーい!! オラをおびき出したかったんだべや! 来てやっただぞ!!

激しい怒号が、血と土埃の匂いにむせ返るような空間を震わせて、こだまする。その響きが消え去ろうという刹那、記憶にこびりついていたあの声が陣達の耳に届いた。

 「やれやれ、相も変わらず騒がしい奴だ」

 ハッと顔をこわばらせ、陣は反射的に地上へ戻る。ほんの数メートル先。まだ納まっていなかった土煙の向こう、見覚えのあるシルエットが浮かび、やがてその姿をはっきりと現した。嘲笑を浮かべた口元、陰険そうな三白眼。黒尽くめの忍び装束。

 「吏将・・・・・・! やっぱりおめぇか!

 すでに確信を持ってはいたが、こうして直接目の当たりにすると改めて激情がこみ上げてくる。

 「一人でのこのこ出てくるとは、いい度胸だな」死々若丸が剣を持ち直した「あの土人形をまた呼び出すか? やってみろ。それらごと斬り刻んでくれるわ!

 吏将以外に、外敵らしき妖気はひとまず感じられない。まさか、数体もの石の巨人を吏将一人が動かしていたのだろうかとも一瞬考えたが、それは違うようだった。

 「任務は済んだから、部隊の者は帰らせた。オレがわざわざ残ったのは、久しぶりに裏切り者の顔でも見てやろうかと思ってな。他のチームの連中にまで会えるとは、これ幸い」

 馬鹿にしたような言い回しに、幽助もぴくりとこめかみに青筋を立てた。拳の関節を鳴らしながら押し殺した声を絞り出す。

 「そうだな、ちょうどいいよなぁ。テメーは武術会でできなかった分も合わせて、ボコ殴りにしてやりてぇぜ!

 あからさまな怒気や敵意を向けられているというのに、しかし吏将は余裕しゃくしゃくの体を崩さない。

 「フン。まったく、どいつもこいつもまともに会話すらできんのか。貴様らの目的はオレに対する報復よりも、情報を引き出す事だろう? ・・・・・・里を裏切ったもう一人の大罪人・凍矢に関する、な」

 ニイ、と吏将はさらに酷薄は笑みを浮かべて、陣達を見据えた。それは、明らかな挑発だった。

 「! やはりお前達が・・・・・・。一体、彼をどうやって」

 詰問しかけた蔵馬の言葉をぶつぎるように、疾風が吹き狂った。ハッと気付いた時にはもう、陣はすでに殺気まじりの臨戦態勢を取っている。あおられた母譲りの赤い髪が、炎のように乱れ舞う。

 「答えろ吏将。凍矢はどこさいんだ!!

 「人に物を聞く態度に見えんぞ、抜け人風情が」

 「うるせぇ外道! 凍矢を返せーーー!!!

 風の暴発と共に、陣は吏将めがけてまっしぐらに突っ込んでいく。背後で仲間達の声が聞こえた気がしたが、一瞬で背後に消えた。対照的に、吏将は何も身構えようとしない。しかし彼は、陣が拳を振りかざした瞬間に、すばやく一枚の紙を広げた。

 「な―――」

 つい昨日記憶から呼び起こしたばかりの――躯がホワイトボードに描いた――あの魔法陣が、まるで陣の視界を覆うかのように現れた。瞬間移動に用いられていた方の、魔法陣。あぁやっぱり、と思うまもなくそこから何か切っ先鋭いものが飛び出してきた。それをはっきり視覚で捕らえる余裕も無かったが、寸でのところで陣はその凶器をかわし勢いあまって地面を転がりつつ受身を取った。

 その目が最初にとらえたのは、まるで魔法陣から生えているかのように伸びた氷の槍。ついでその持ち主が、空間を飛び越えて出現した。マントを翻し、肩や胸、関節など必要最低限に装着された簡易的な甲冑。しかしながら、滑らかな光沢を放つ藍色のそれは、無数の死線をかいくぐってきた事を思わせる屈強さを感じさせる。

 左目の部分を広く覆う、見覚えのある黒い眼帯。間違いなくそれは、雹針のもの。だが。

 「あ・・・・・・?!

 「何ーっ?!

 「馬鹿な!!

 死々若丸、幽助、蔵馬が次々と声をあげる中、陣は受身の態勢のまま立ち上がる事さえできず、ただ茫然とした。魔法陣から出現したを、瞬きもせずに見上げる。

 「・・・・・・凍矢・・・・・・?

 聞くまでも無く、目の前にあるのは他ならぬ凍矢の姿。生きて再会できた事を喜ぶ事はできなかった。何よりもまず陣達は異変しか感じられなかったからだ。見たこともない戦闘装束や武器はもちろん、雹針の眼帯を着けていることもそうだがそんな事はもう瑣末でしかない。

 あの凍矢が、陣に槍の切っ先を向けている。およそ親愛の情など見当たらない、底冷えのする表情で。

 「もはやその名に、意味など無い」

 紡がれた声も確かに凍矢のそれだが、あまりに冷たくよそよそしい響きだった。まるで声そのものが冷気を伴っているかのようだ。

 「な、なして、凍矢・・・・・・オメ、何言ってるだ?

 声音が震える。歯の根ががちがちと鳴る。陣は自分の脳裏で今まで聞いた事のない警鐘が鳴っているのが聞こえていた。何か、とんでもない事が起こった。取り返しのつかない事が。それがわからない。―――――怖い

 「その名で呼ばれても、答えられんのだ。この体の主は、すでに『凍矢』ではなくなった」

 一言一句全て聞こえるのに、理解が追いつかなかった。目の前の彼は、何を言わんとしているのか?

 ふと、凍矢の姿をした彼は口の端を浮かべ、おもむろに胸当てを外して装束を捲り上げた。人間で言うところの心臓、妖怪にとっての核が収まる部分が、外気に晒される。

 息を呑んだ。

 白い滑らかな肌に不似合いな、十字の傷跡が刻まれているではないか。明らかに人為的なそれは、抜糸して間もないように見受けられる。

 「手術の、痕・・・・・・?

 死々若丸が、やっとの思いで引きつれた声を絞り出した。それを面白そうに聞きながら、彼はほんの少し笑みを深くする。まるで、勝ち誇ったように。

 「イチガキに命じて手術させた痕だ。いくら多種多様な妖術をもってしても、自分で自分の体の、しかも外科手術は不可能でな。奴を利用するしかなかった。・・・・・・そうして私は、己が後継者を取り戻したのだ」

 私。目の前の少年はそう言った。凍矢の一人称ではない。

 「まだわからぬか、抜け忍め。イチガキにやらせたのは、核の移植手術だと自ら悟れぬのか」

 陣の頭の奥で、限界まで張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ去った音が響いた。無機質で耳障りなそれの遥か彼方で、最後に聞いた凍矢本人の声がかすかに鳴った。

 

 わかった。待ってる

 

 「いまここで息づいている核は、私の・・・・・・雹針のものだ。妖力と生命力の源である核を凍矢の体内に移植し、覇王丸で遠隔延命接続する事によって、核が離れた我が本体を生かしながら、この体を完全に乗っ取ったという事。つまり今の私は、一つの人格で二つの肉体を持っている。そして」

 次に彼は、眼帯を外し投げ捨てた。暴かれる左目。

 それは突き刺さりそうなほど鋭い―――黄金色に、輝いていた。

 「見ろ。我が本体に埋め込まれた覇王丸の力が、接続の影響で同じくこの体の左目に現れて、色を変えているのだ。今となっては、私と同一精神である事を示す証ともいえよう」

 ―――――もう、やめろ

 その言葉を胸の内だけで呻いたのか、口に出さずにいられなかったか、陣本人にすらわからなかった。

 息が苦しい。手足の感覚が消えうせる。そのくせ、酷い寒気がする。沸点を超えようとしていた血潮も、今は逆に凍り付いて体内から陣を拘束していた。視界が激しく明滅しているかのような錯覚に襲われ、だが、雹針を名乗る凍矢の体だけがくっきりと浮き彫りになっている。

 

 やめてけろ 凍矢の顔で 凍矢の声で  

 

 「理解が追いつかぬなら、はっきり言ってやろうか? 陣、貴様の知る『凍矢』は、二度と帰らんぞ」

 

 き き た く ね ぇ

 

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