〜第三章・迫りくる凶兆〜

 

 

 「不覚よ!! 一生の不覚だわ!!

 握り拳をわなわな震わせつつ、棗が怒り心頭で叫んだ。その声に背後に漂う妖気は、刺々しい口惜しさとやり場の無い怒りがないまぜになって渦を巻いている。

 「まさかあんな派手に、しかもいきなり爆発するとはなぁ・・・・・・」

 不意打ちとかってレベルじゃねーだろ、と酎が零した。

 「お前達じゃなかったら、本気で危なかったかもな。まぁ何はともあれ、この大事な時期に戦力ダウンしなかったのは幸いだ」

 百足の司令室。ドクター・イチガキが潜伏していた屋敷の爆発から、間一髪脱出した棗や酎達の報告を一通り聞いた躯が、ようやく一息ついた。

 「幸いなもんですか。この面子が揃っていながら、ターゲットにまんまと逃げられたなんて!

 棗はまだ眉間にしわを寄せて、憤懣やるかたなし、といった感じで腕組みした。

 脱出が間に合ったため、彼ら六人はかすり傷程度でほとんどダメージこそ食らわなかった。しかし、屋敷は地下室も含めて木っ端微塵に消し飛んでしまい、イチガキの身柄確保はおろか、ラボや証拠品の確認さえ不可能となってしまったのだ。屋敷の内外で痩傑らに叩き伏せられてしまった護衛役達は、骨の一かけらさえ残らなかった。そこにあったはずの全てが、根こそぎ隠滅された。

 「自爆ではあったが、自殺は考えられんな」

 そう言った死々若丸はもちろん、その場にいる全員がイチガキの生存をこれっぽっちも疑っていなかった。魔界の盲点をついて隠れ家を構え、複数のテロ組織を操り、捨て駒としてあっさり切り捨ててしまう程の悪行を難なくこなしてしまうような輩が、追い詰められたからといってあっさり自害するわけがないと、その場の誰もが確信していた。。

 爆発のせいで確証こそ得られなかったが、きっとあの屋敷のどこかに秘密の脱出経路か何かがあったはずだ。

 一方鈴木は別の可能性を考え始めていた。

 「むしろイチガキは、あの隠れ家が発見されていた事に、勘付いていたんじゃないか? 77戦士や諜報機関の動向を探るための、偵察部隊に人員を割いていた可能性だってある」

 「つまり、奴はオレ達をおびき寄せ、護衛役ごと爆死させるつもりだったと?

 舐めたまねしてくれる、と痩傑は苦々しげに吐き捨てた。

 「でも、とんだ誤算だったな。全員こうしてピンピンしてるし。何もかもあのじーさんの思い通りになんざなるかよ」

 逆に九浄は胸を張ってみせたが、ここで躯が待てよ、と呟いた。

 「・・・・・・もしかしたら、そこもイチガキは計算済みだったのかもな」

 「? どういう意味だ?

 「攻撃ではなく、挑発かも知れなかったって事さ。いかなる爆撃も77戦士には通用しないことを最初からわかった上で、『捕まえられるもんなら、捕まえてみろ』という宣言のつもりだった・・・・・・まぁ、仮説の一つに過ぎんが

 「それが事実だとしたら、なおさら上等だぜはん、と鼻で笑い、酎が酒をあおった「売られた喧嘩は、とびきり高く買う主義だからよ」

 と、その時。躯の携帯電話が着信を知らせた。液晶画面を見てみると、そこに表示された名前は自分もよく知る闘神の忘れ形見。

 「浦飯か。何の用だ」

 『聞いたぜ、イチガキの居所がわかったんだろ? そんで、その後どうなった? あいつ捕まえられたんか?!

 勢い込んだ幽助の声に耐え切れず、電波越しのそれが耳障りに割れて響いた。ちょっと顔をしかめつつ「少し落ち着け」とたしなめてから、躯は事の次第をかいつまんで説明してやった。

 「そんなわけでな、残念ながら取り逃がした。本物の三界指名手配犯なだけの事はある」

 『そっか・・・・・・まぁとりあえず、酎達が無事なのは何よりだったぜ。んでさ躯、ものは相談なんだけどよ、黒鵺を人間界に行かせられねーか?

 「黒鵺を?

 『蔵馬が言ってたんだけどよ、あいつが使う結界の中に、その場所に染み付いた残留思念? とかを読めるタイプがあるんだと。イチガキが願をかけた場所は飛影のおかげでもうわかってるからさ、黒鵺に奴の願い事を読み取ってもらえねーかと思ったんだ。やっぱりそれわかっといた方が、今後の対策も立てやすいだろ?

 確かにその通りだ。あの屋敷があった場所でその結界を発動させれば、きっとイチガキの逃走先の目星もつくだろうが、それより先にまず、相手が何をしようとしているのかを見極めなければならない。当初の予想より手こずる結果となっているのだから、なおさらだ。

 魔界の災害異常発生はまだ沈静の気配がないが、だからこそイチガキに煩わされるわけにいかない。確実に解決する事案から、先に片付けた方が賢明だろう。

 「わかった。ひとまず絽魏には、鉄山達の班を向かわせるとしよう。引継ぎが終了次第、人間界へ行くよう黒鵺に命じておく。ただし、絽魏周辺は次元のひずみ発生率がかなり低い地域だから、移動には時間がかかるぞ。そこは了承しておいてくれ」

 『OK! 十分だ。あんがとな!

 「そっちの復興状況はどうだ?

 『順調だぜ、癌陀羅の諜報員連中が、最新機材付きで応援に来てくれたからな。ありがてぇけど借金(ONLY WISH』参照)ふくめて、ますます黄泉にゃ頭あがんなくなりそうだ』

 「言っとくが、百足の窓代もツケだからな。忘れるなよ」

 『・・・・・・あ、やっぱ覚えてる? 踏み倒しゃしねーから、プレッシャーかけんのは勘弁してくれや』

 苦笑を混じらせる幽助の背後で、北神が彼を呼んでいる声がかすかに聞こえた。

 『おう、今行くぜ!! 悪ぃな、呼ばれちまった。何かあったら、いつでも連絡よこせよ』

 少々慌しく切られた通話を終えて、躯は司令室壁一面のモニター画面を振り仰いだ。まるで、得体の知れない魔物が闇から虎視眈々と狙いを定めているかのような赤い点滅は、一向に減る気配がない。それどころかじわじわと増加していくそれらが、いずれこの魔界地図を食い潰していくのではないかという気さえしてくる。

 ・・・・・・何を考えているんだ。

 ずっと神経を張り詰めすぎたせいだろうか、躯はふと浮かんだ自分の思考に自嘲した。滅入っている暇などない。

 「戻って早々悪いが、鈴木達は朱蓮(しゅれん)での救助活動援護、痩傑達は迂瑠堕(うるだ)の周辺警護にあたってくれ。今日は火事場泥棒の報告が多い。心してかかれよ」

 「了解、望む所だ!

 イチガキの一件は九浄にとっても不完全燃焼だったらしい。新たな指令に疲労を訴えるどころか、逆にテンションがあがってきたようだ。

 

 「棗さん! 一声呼んでくだされば、オレぁいつでも独断で貴女の元へ・・・・・・」

 「いいからさっさと自分の持ち場行きなさい。何なら、そのままあんただけ帰ってこなくてもいいのよ」

 

 

 翌朝。絽魏の宿屋に滞在している陣と凍矢の元に、黄泉から緊急連絡が回ってきた。

 第3A-22地点で巨大竜巻が、第18N-8地点と第23L-16地点ではいずれも大規模な津波が押し寄せる、という災害予測を妖駄率いる対策本部がはじきだしたので、大至急向かってほしいとの事だ。

 『今から向かってくれれば、それぞれ都市部を直撃する前に回避できる。津波は、凍矢と白狼が手分けして、両地点で同時に抑止してほしい。可能か?

 「問題無い。これからすぐ向かおう。周辺住民達には念のため避難勧告を頼む」

 テロリストや新たな災害を警戒して、宿屋を拠点としつつ5人が交代しながら寝ずの番をしてきてのだが、凍矢はその疲れを一切感じさせない毅然とした態度と声で答えた。

 『詳細データは、この通話を切ると同時にお前達の携帯電話に送信される。任せたぞ』

 諜報機関も対策本部も、ずっと不眠不休で動いている。電波越しに滲んでいた解けない緊迫感がぷつりと切られると、黄泉の言葉通り陣と凍矢の携帯は新着メールを知らせてきた。

 「こりゃまた、どこのもでっかいだなぁ」

 竜巻と津波の詳細データを確認して、陣が思わず目を丸くした。おそらく、これまでで一番の規模だ。災害抑止という慣れない指令を出された当初の内こそ戸惑ったが、二人ともすぐにコツを掴んだ。とはいえ、突然桁違いの大仕事に来られると、否が応でも気合を入れ直す必要がある。

 明確な意思を持った『敵』と戦うのとは勝手が違う。改めて、気を引き締めていかなくては。

 窓ガラス越しにさんさんとふりそそぐ、上って間もない朝の陽光につられるようにして、血潮が奮い立つ気がした。

 手早く身支度を整えた二人は、黒鵺と流石、そして鈴駆に一声かけて宿を後にした。街の外に出てから、凍矢は少し考えて、意を決したように白狼を完全形態で召還する。通常形態の時よりも大幅な気温の急降下に、陣は思わず身震いした。

 「召還自体は昨日の今日だが、この姿で現れるのは久しぶりだな、我が友よ」

 これまでに何度も召還したり、子狼形態の時には自ら出現していた白狼だが、雪山のような巨体を見上げるのは、陣はもちろん凍矢ですらトーナメント以来だった。

 「よほど、難儀なことでもあったか。いかなる要望にも全力でこたえよう」

 「内容自体はシンプルだ。第23L-16地点に起こる津波を、凍結してきてほしい。ただ、昨日までのものとは規模が数段違う。周辺住民の安全を確実とするためには、完全形態のお前にやってもらわなければならないんだ」

 「それって、大丈夫け?

 むき出しの腕を寒そうにさすりながら、陣が心配そうに凍矢を見やった。

 「層が5つ分も違うだぞ。完全形態の白狼と離れて冬眠状態になったら、やべぇんでねえのか? 確か冬眠してっ時は、子狼でさえ出てこらんなくなるんだべ?

 邪王炎殺拳を極めた時もそうだが、白狼召還を完全形態で行った際の冬眠も、妖力はほぼゼロになる。その間は、普段は自由に出没できる子狼も決して現れない。術者は完全な無防備状態となってしまう。

 本来、白狼は術者の守護を第一としているため、両者が長時間離れるのは好ましくない。

 「やむをえんだろう。今回、オレと白狼が一緒に行動していては短距離瞬間移動をもってしても、両地点の津波を同時抑制するには間に合わない。それに完全形態の白狼の能力でなければ、この津波を凍結することはもちろん、やはり現場に間に合わなくなりそうだからな。念には念だ」

 「まぁ、言ってる事はわかるけんども・・・・・・」

 陣本人は、さらに遠く離れた層に行かなくてはならないため、陣はなおさら気にかかるようだ。それについつい、正聖神党の一件の時、自分の認識の甘さから凍矢に無理を強いてしまったことを思い出してしまう。トーナメントの時だって、後一歩で取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

 完全形態の白狼に対してはどうも、リスクが大きすぎるという印象が根付いてしまっていた。

 「心配するな。オレが行く18層の現場近くには、煙鬼の班がいる。その中の一人にできれば同行してもらって、津波を止めた後オレが冬眠したら回収してもらうさ。何も危険は無い」

 「そっか・・・・・うん、だったら大丈夫だべな!

 煙鬼が率いている班の協力があると聞いて、陣はやっと安心した。それなら、きっと問題無い。

 「冬眠から覚めた頃見計らって、迎えにいくだよ。そろそろ自分らの家さ帰りてぇし、六人衆も全員集合しときてぇだしな」

 「そういえば確かにここ数日、二手か三手に分かれていたな・・・・・・。わかった、待ってる。今夜は久方ぶりに、六人で鍋でも囲むか」

 「おう、そうすんべ! じゃあ、後でな」

 「あぁ、陣も気をつけて」

 頷いて軽く手を振り、陣は天上高く舞い上がった。一瞬で遠く離れた地上。凍矢と白狼もそれぞれの方向へ散ったのを、視界の端に捕らえながら。

 

 

 鉄山らと入れ替わるようにして絽魏を離れた黒鵺が、次元のひずみを通って人間界へ到着したのは、すでに夕方の刻となっていた。鉄山達が思わぬテロリストの急襲に遭い、圧勝を収めたものの足止めされてしまったことが原因だ。有給をとっていた蔵馬と合流し、彼の案内でイチガキが暗黒鏡に願いを叶えさせた場所へと急ぐ。

 そこは人里離れた山奥に沸いた、泉のほとり。生い茂る木々が開けて、黄昏に染まった人間界の空を容易に見上げることができた。その空をカラスが二、三羽、バサバサと横切っていった。東の空が、ほんのり紫色でにじんでいる。まもなく、徐々に闇へと染めかえられるのだろう。

 「飛影から送ってもらったデータによると・・・・・・ちょうど、この辺だ」

 携帯画面と実際の風景を見比べながら、蔵馬は泉を真正面に構える地点に立ち、指し示した。

 「イチガキに操られてた妖怪が、暗黒鏡に願わされた時間帯はわかるか? 大体でいい」

 黒鵺の問いかけに、蔵馬はすぐに記憶を手繰り寄せ、淀みなく回答する。

 「コエンマに確認した、その妖怪の死亡推定時刻から察するに、二週間前の真夜中、午前零時を挟んで前後一時間以内といった所だな」

 「なるほど、お月さんがちょうど空のど真ん中の時刻かよ。そいつぁご利益ありそうだ」

 口の端を上げ皮肉を交えた黒鵺は、哀れな被害者が事切れたであろう場所に手をかざした。目を閉じ、少しの間その死を悼んでから、彼は静かに結界を張るための呪文を詠唱し始める。

 「この地に置き去られし記憶の残滓よ、忘れ去られし心の欠片よ、我が呼びかけに答えたまえ。在りし日のまま蘇りたまえ。蘇空時流読(そくうときよみ)結界」

 黒鵺を中心に広がった瑠璃色の魔方陣が、緩やかに発光したかと思うと、その場の時間がみるみるうちに遡り、黄昏時の空は真夜中の闇と星空、そして満月に取って代わった。もっともこれは、黒鵺と蔵馬自身がタイムスリップしたのではなく、あくまでもこの地点に染み付いた残留思念が映し出す過去の映像。

 そして黒鵺の眼前に操血瘤をつけられた妖怪が、その背後にドクター・イチガキが現れた。まるで実際にこの場にいるかのように鮮やかでリアルだが、しょせん映像なので触れることはできない。

 「暗黒鏡がまだ発動していない。まさにこれから願いを叶えようとしている所か。決定的瞬間だな」

 証拠映像撮影のため、蔵馬は携帯電話のムービーメールを準備した。まるでそれを待っていたかのようなタイミングで、操られている妖怪が抑揚のない淡々とした声を、唇から落とし始めた。

 「・・・・・・暗黒鏡よ、月の光を受け目覚めたまえ。その面に我が望みを映し出し力を示したまえ」

 声に反応して、ぼう、と暗黒鏡が鈍い光を放った。

 「来たぞ、蔵馬。鏡に何か映ろうとしてる!

 頷いて接近した蔵馬は、携帯を暗黒鏡の真上にかざし、自らもそれを覗き込んだ。黒鵺もはやる心を抑えて身を乗り出す。

 

 「・・・・・・え?

 明らかに動揺を含んだその声は、どちらのものだっただろう。

 

 

 ―――およそ、一時間前―――

 

 風向きが変わった、と孤光がそう感じた次の瞬間、彼女とその夫が滞在している避難民キャンプ地に、赤毛の風使いが降り立っていた。

 「陣! しばらくぶりだね。そっちの調子はどう?

 「おう、絶好調だべ! 喧嘩できねぇのは退屈だけど、今日の竜巻はかなり暴れん坊でよ、潰しがいのあるやつだっただ」

 これまで相殺してきた竜巻と比べると桁違いだったのだが、むしろ陣には好都合だった。手加減無しに風を操る事ができて、気分がスッキリしたくらいだ。

 「そりゃ、何より。こっちもそろそろ市街地に移動できそうなんだ。この辺は結構年寄り連中が多いからね、早いとこ安住できる場所に連れてってやりたいよ」

 「やっぱ、どこもかしこも大変だべな〜。と、それはそうとして、凍矢はどこさいんだ? そろそろ起きる頃合だと思うんだけんど」

 「あぁ、そうだね。あんたが迎えに来たなら、もうそんな時間か。凍矢ならこの奥にこさえた、白い天幕で寝かせてるよ。本来はあたしらの仮眠用なんだけど、この時間帯は当然、誰も使ってないから」

 「わかった、サンキュだべ」

 孤光の言っていた天幕に向かいながら辺りを見渡すと、このキャンプ地は怪我人はそれほど見受けられないが、確かに高齢者が多かった。長期間の被災生活はかなりの負担だろう。

 いつまで、つづくんかな。

 ふと、不安が沸いてくる。普段見て見ぬふりをしているそれは、忘れかけていた頃に思わぬタイミングで現れる。それこそ、天災のように。未だに沈静の気配が見えず、原因もつかめていない。自分達にできるのは災害を防ぎ、民間人を逃がし守り、この機に調子付いたテロリストと戦うこと。根本的な解決に繋がる対策が、何一つ取れない。

 陣にとっては、今更災害もテロリストも怖くはないが、防戦一方の膠着状態から抜け出せないのが歯がゆかった。

 突然もぎ取られ、遠去かってしまった日常が、急に恋しくなってきた。77戦士としての任務で困難なものはこれまでいくつもあったけれど、こんなに長い日数がかかっているのは初めてだ。

 もっと思い返せば、魔忍時代の遠征以来か。

 そんな事を考えている内に、孤光の言っていた白い天幕が見えてきた。もしかしたらまだ、凍矢は寝ているかもしれないと、陣は外の光が極力入らないよう、そっと静かに中へと入り小声で呼びかけた。

 「凍矢、起きたべか・・・・・・ありゃ」

 思わず、拍子抜けした声が口を突いて出た。無理もない。最低限の明り取りから申し訳程度の陽光が零れ落ちているそこには、誰もいなかった。もぬけの殻だったのだ。

 ばさっと音を立てて入り口と外界とを隔てる幕を、大きく広げてみる。多少明るくなった天幕の中を注意深く見渡してもやはり、無人のままだった。凍矢が借りたであろう寝床は、確かに用意されてあったけれど、それだけだ。がらんどうである。

 「凍矢?

 意味は無いと知りつつ、改めて呼びかけてみる。白狼の気配すら感じられない。もう起きたのだろうか。自分が来るまでの暇潰しに、このキャンプ内を見回っているのだろうか。でもだとしたら、孤光が気付いているはずではないのか。

 「どうかしたの?

 背後から、不意に声をかけられて反射的に振り返る。すると、修羅が不思議そうに陣を見上げていた所だった。癌陀羅の状況が落ち着いたため、修羅も数日前から通常任務に戻っていたのである。

 声をかけられるまで、彼が近づいてくる気配を陣は察知できなかった。自覚している以上に、考え込んでいたらしい。無防備に突っ立っているだなんて、いつもの陣ならありえない。修羅もそう思ったらしく、首をかしげた。

 「めずらしいね、ボクの風がわかんなかった?

 「え・・・・・・? ん、まぁ、そっかな。それより、凍矢見なかっただか?

 「いるでしょ、そこに」

 天幕を指差そうとした修羅に、陣はそうじゃないと首を横に振った。

 「いねぇから聞いてんだ。冬眠から覚めたみてぇだけど、キャンプの中のどっか歩ってんでねぇのか?

 「そうなの? 少なくともボクは見てないよ。っていうか、このキャンプ地自体が大して広くないから、いるんならボクがここに来る途中で見かけてるはずだけど。先に帰ったんじゃない?

 「んにゃ、それはねぇだ。オラ後で迎えに行くっつったら、あいつ『わかった、待ってる』って言ったんだべ」

 そもそも冬眠明け直後は、妖力がまだ本調子ではない。白狼も、子狼形態でしか召還できないのである。用心深い凍矢がその状態で、単独行動すること自体がありえないのだ。百歩譲ってありえたとしても、連絡一つよこさないとは考えられない。

 携帯電話にかけてみたが、電源が入っていないか圏外にいることを通達するアナウンスが流れるだけ。

 「おっかしいな・・・・・・」

 凍矢がうっかり携帯の電源を入れ忘れることは、それこそありえない。わざと切っていることも無いはずだ。

陣は冬眠にかかる時間を、もう一度計算してみた。やはり今なら目覚めていたとしても、妖力の完全回復にはまだ全然届いていないはずだ。なのに、凍矢は既に電波が入らない地点まで移動してしまったというのだろうか。しかも、自分には何も知らせずに。

 「煙鬼のおっちゃんと才蔵は、どこさいんだ?

 「二人ならあっちだよ、ついてきて」

 修羅に案内されるわずかな距離の間も、陣は注意深くキャンプ地内を見回した。だがそれでも凍矢の姿はなかった。誰よりも慣れ親しんだあの涼やかな風が、微塵もそよいでは来なかった。

 煙鬼と才蔵は、霊界から派遣された医療チームと、何やら打ち合わせしている最中のようだった。

 「おっちゃん、才蔵! 取り込み中のとこ悪ぃけどよ、凍矢さ見なかっただか?

 「凍矢なら、仮眠用天幕だろ。才蔵が連れ帰ってすぐ、そこに運び込んどいておいたぞ。何じゃ、通り過ぎちまったか」

 「それがさ、いないんだって。ボクと孤光さんも全然見てないんだけど、二人も?

 判で押したような同じ答えを聞いて、言葉に詰まった陣に代わり、修羅が尋ね返した。煙鬼と才蔵はこれを聞いてお互い顔を見合わせたが、やはり心当たりはないようだ。

 「天幕の中に寝かせて以降は、見てないぞ。孤光が二時間前に様子見に行った時は、別に変わった様子はなく冬眠の真っ最中だったそうだが」

 才蔵の言葉の通りなら、この二時間の間に凍矢は天幕を出たことになる。にも関わらず、煙鬼を含め班員の誰の目にも彼の姿がとまっていない。

 凍矢は、ここにはいない。

 「陣? どしたのさ。凍矢と一緒に帰ったんじゃなかったの?

 無人の天幕を確認して、てっきり二人が既に帰路に着いたと思っていた孤光が、不思議そうな顔で走り寄ってきた。

 それを見ながら陣は、ハッと新たに気付いた。

 世話をかけた仕事仲間達に対して、あの律儀な凍矢が礼の一言も言わずキャンプ地を離れる事も絶対にありえないのだ。あるはずのない事だらけ。だけど実際に、凍矢はいない。もう一度、携帯で呼び出してみる。応答はない。

 凍矢が、いない。彼の所在が掴めない。

 はっきりとそれを自覚してしまった瞬間、陣は腹の底からぞわり、という不気味な音が這い上がってくるのを感じた。

 脊髄の裏を、ざらざらした大きな舌で、ゆっくりと舐めあげられたかのような、吐き気のしそうな感触。突き動かされる。じっとしていられない。

 「ちょっと、その辺見てくるだ!

 びゅっ、と勢いよく飛び上がった陣を追いかけるように、孤光が叫んでいるのが聞こえた。

 「何焦ってんのー?! 凍矢クラスの腕前なら、心配いらないじゃんか〜!!

 わかってる。幼い頃から、背中を預けあって戦火を潜り抜けてきた相棒だ。そんな事は、陣が誰よりもわかってる。本調子じゃないにしても、そんじょそこいらのテロリストなど凍矢の敵ではない。

 だけどそんな理屈では説明がつかないのだ。先程の、生まれて初めて経験した不吉な感覚は。

 とにかく、急いで凍矢を見つけたかった。あの感覚も、じりじりと焼きつくような焦燥も、全て取り越し苦労に終わればいいと祈りながら、陣は上空から目を皿のようにして親友の姿を探した。

 

 

 ――そして、現時刻――

 

 証拠映像を撮影し終えた蔵馬と黒鵺は、その映像の提出と報告のため百足を訪れていた。そのまま映像だけをムービーメールで送信することも可能だったが、あの辺りは偶然次元のひずみが出やすかったし、何より電話越しではなく直接報告した方がいいと二人が判断したのである。

 災害発生以来、昼夜を問わず司令室にこもりきりの躯だったが、その疲れやストレスなど一切感じさせず、いつも通りの凛とした立ち振る舞いで黒鵺と蔵馬と出迎えた。

 「よぉ、わざわざここまで出向いてくれたか。収穫は?

 「もちろん、あったぜ。だが、結局謎のままだ」

 どことなく曇ったような黒鵺の表情に、躯は首をかしげた。

 「どういう事だ? お前の結界であの日イチガキが何を願ったのかは、わかったんだろ?

 その問いに鋭い声で答えのは、蔵馬だった。

「そのイチガキに、協力者がいるようです。願いもそいつに絡んだものだったらしく、暗黒鏡にその姿が映し出されていました」

 「協力者、だと? どっかのテロリストか?

 思わぬ展開になってきた。諜報機関がまとめたブラックリストの顔ぶれを思い返し始めた躯だったが、彼女の思考を止めるように蔵馬はこう続けた。

 「いえ、違います。少なくとも黒鵺には心当たりがないらしい。もちろん、オレにも」

 ますます話が見えない。黒鵺の記憶力で見覚えがない顔なら確かに、リストに記載されているテロリストではないのだろう。しかも、魔界随一の情報通でしられる蔵馬でさえ知らないとは。

 「多分、その協力者とイチガキとの間で、利害一致があったんじゃねぇかな」

 黒鵺が、己の推測を披露する。

 「どっちから先に持ちかけたか知らねぇが、協力者の叶えたがってる願いの成就が、イチガキの復讐にも利用できるものだった、って事なんだと思うんだ」

 蔵馬がそこに同調した。

 「黒鵺の考えで当りでしょう。さらに言えば、現在逃走中のイチガキは協力者によって匿われていると思われます。諜報機関の行動を読み情報を流したのも、そして隠れ家脱出の手助けも、そいつがやったにちがいない」

 「とにかく、百聞は一見にしかず、だ。蔵馬が撮った映像をそこのモニター画面で再生してくれ」

 取り出されたメモリーカードを受け取り、再生準備を済ませたちょうどその時、窓からコツコツ、と軽い音が二回響いた。

 「躯! ちょっくらここ開けてけろ」

 何やら切羽詰った様子の陣だった。とりあえず再生ボタンを押してから、躯は窓のロックを解除してやる。

 「どうした? お前にしちゃ珍しく、顔色が優れないじゃないか」

 「凍矢、来てねぇだか?!

 躯の問いにくい気味で、陣が早口で質問してきた。

 「凍矢?

 「待ち合わせてた場所に、あいついなくて、全然見つかんねぇし携帯も繋がんなくてよ・・・・・・探してたら、偶然百足見かけて来てみただ。凍矢、任務遂行報告にこっちさ来てんでねぇのか?

 「凍矢に、キミが連絡つかないだって? ・・・・・・それこそ珍しいな」

 思わずそう呟いた蔵馬に、陣は大きく頷く。

 「オラがあいつの居所わかんねぇなんて事、今まで一度も無かっただ! さっきからずっとヤな予感するし、そんで」

 いつに無く不安定な陣に少し驚きつつ、黒鵺はその両肩に手を置いて叩き、力強く言った。

 「おい落ち着けよ、きっと大丈夫だって。何なら、今からオレも探すの手伝うよ。躯、とりあえずその映像は見といてくれ」

 「映像?

 そこでようやく、陣はモニター画面に気がついた。黒鵺の結界で映し出された過去の断片。イチガキが願いを叶えさせた瞬間。

そういえば、奴はまだ捕まっていない。直接言葉こそ交わさなかったが、暗黒武術会の元選手同士だった妖怪。

 凍矢の姿が見えない事と、もしかして関わりがあるのだろうか。

 一応自分も見ておいた方がいいかもしれない。陣がそう思った時、場面は暗黒鏡の力が発動する瞬間に差し掛かった。

 重々しい声が紡ぎ出される。

 『・・・・・・この男の左目に、覇王眼を戻す事。それが、お前の願いか』

 「ここです、鏡に映ったこの妖怪が、イチガキの協力者かと思われます」

 蔵馬の言葉にかぶさるようにして、月光を受けて銀色に輝く暗黒鏡がゆらり、と波打ち、そこに一人の男の姿が浮かび上がった。

 「な? ブラックリストにこんな奴載ってなかっただろ? それに、覇王眼って一体何だ?

画面を一時停止した黒鵺が、躯に同意を求めたその時、彼の傍らでガタンと大きな音がした。驚いて振り返ると、それは陣が後ずさった拍子に長テーブルにぶつかった音だった。しかし黒鵺は「どうした?」と声をかけようとして、さらに驚いた。

 躯曰く「優れない顔色」が、さらに蒼白になっている。限界まで見開かれた双眸は、動揺と恐怖と驚愕のるつぼと化していた。何か言おうとしているようだが、痛々しいほど引きつった呼吸に邪魔されてうまく声が出ないようだ。

 明らかに尋常ではない陣の姿に、蔵馬もただ事ではないと気付いた。

 「陣、一体どうしたんだ? この男に見覚えあるのか?

 聞きながら、蔵馬は改めてモニター画面を振り仰いだ。

左側で一つにまとめられた、長く青白い髪。左目とその周囲を覆う大きな眼帯。初老の域に差し掛かった、だけど衰えている感じの一切無い、むしろ威圧的な風格を持っている事が伺える人物。

 「な、なして、こいつが」

 押し潰されそうな心を振り絞るようにして、陣の唇からようやく声が発せられた。

 「なして今んなって!!? 今頃・・・・・・?!

 「知ってるんだな? 一体誰なんだ!

 陣とモニターを見比べながら、黒鵺が思わず大声になる。そこへ、躯の低く、だけど良く響く声が重なった。

 「まずいことになったぞ」

 「え?

 「この男は、協力者なんてもんじゃない。むしろ黒幕だ。イチガキとやらはおそらく・・・・・・いやきっと、こいつの捨て駒に過ぎん」

 モニターを見据える躯の眼差しは、今まで見たどんな彼女のそれよりも厳しく鋭く、そして警戒心を孕んでいた。どうやら躯も、精一杯努力して押し殺してはいるが、暗黒鏡が映した妖怪を見て動揺しているらしかった。

 「躯も、知ってるんですね。一体この男は何者なんです?

 さらなる緊迫感を抱えつつ、問いかけた蔵馬に答えのは、躯の声ではなかった。

 

「・・・・・・・・・雹針」

 

 陣が呟くように、しかしやけにはっきりと聞こえる声でその名を、この世でもっとも忌まわしい名を紡いだ。

 「魔界忍者の隠れ里を束ねてる、里長、なんだべ」

 断続的に震える言葉に、黒鵺と蔵馬は言葉で言い尽くせない衝撃を受けた。

 凍矢が見つからない。陣でさえ所在が掴めない状況。

 イチガキが暗黒鏡に成就させた願い事に、かつて二人を支配していた男が関わっている。

 これらの事実が、偶然なわけがない。だから陣は、酷く狼狽しているのだ。特に蔵馬は、その理由を痛いほど熟知していた。

 「覇王眼が、雹針の左目に戻った、か・・・・・・。なるほど、何でも叶える暗黒鏡の力だったら、あれを修復する事など造作も無いんだろうな」

 躯の口ぶりに、蔵馬と黒鵺は首をかしげた。彼女は覇王眼というのがどういう代物なのかという事まで知っているようだ。

 尋ねられる前に、躯は蔵馬達に向き直って言葉を続けた。

 「覇王眼というのは、雹針専用の妖具だ。もともとの左目を抉り取り、それと何人もの生贄を媒介にして作り出されたものでな。装着すると、妖力が何十倍も跳ね上がる。しかも、本人に全く負担がかからない。黒龍派や白狼召還と違って、冬眠を強いられることも無い」

 「・・・・・・躯?

 その事実は、陣も知らなかった。両親から聞かされた記憶も無い。そもそも、雹針の左目にどんな妖具が収まっていたかなんて、誰も知らなかったはずだ。

 「雹針は、魔界忍者となる前まで暗殺者だった・・・・・・そこまでは知ってるな? 陣」

 頷くと、躯はもう一度モニターを振り返り、画面と時間越しに雹針と向き合った。

 「奴の暗殺者時代最後のターゲットにして、最初の失敗だったのが、オレだ」

 

 百足が完成して、間もない頃だった。当時の部下達の三分の一近くが雹針に殺され、躯自身も命の危機に晒された。

背中を抉られ、左肩を、わき腹を氷の槍で貫かれ、右足の膝を砕かれた。頚動脈すれすれまで首も切りつけられ、その勢いでまだ長かった髪が切り散らされ宙を待った瞬間は、今でもまざまざとまぶたの裏に焼きついている。

あの当時、今ほどの妖力を持っていなかったとはいえ、特定の誰かと、しかも一対一で戦ってあんなにも満身創痍になったのはあれが最初で最後だった。それほど雹針は圧倒的で、何より冷徹だった。

 いよいよダメかと思った時に初めて、躯は雹針の色の異なる双眸が、ただのオッドアイではなく、左目の方が肉眼ではない特殊な妖具である事にやっと気がついた。粘りに粘り、戦闘が長引いたためだったのかもしれない。それ以前に雹針に葬られてきたターゲット達は、そこまで戦う事さえできなかったのだろう。

 一か八かの賭けは、躯が勝った。右の肋骨三本を犠牲にして雹針の懐に飛び込んだ彼女は、左側の眼窩で薄ぼんやりと発光している黄金のそれを、一瞬で抉り取ったのである。

 覇王眼という名前も原材料も知らないまま、しかし躯はこれこそ敵の最大の武器と悟った。ありったけの妖力を振り絞り右手に集中させ、空間ごと金色の目玉もどきを真っ二つに叩き割ったのだった。

 

 「・・・・・・後でわかったんだが、原材料は滅骸石(ONLY WISH』参照)だった。当時既に掘り尽くされてだいぶたっていたから、本当ならもう二度と、雹針は同じものを作り出せないはずだったんだ」

 

 脳裏に蘇る、左目からおびただしい血を流し、氷の槍を握り締めていた暗殺者の姿。

 とどめを刺す余裕は、お互い無かった。躯は風前の灯で、雹針は明らかに妖力が急降下している上に、生き残った躯の部下達が体制を整えて、すぐそこまで迫っていたからだ。

氷の力を持つ妖怪は、暗殺者としてはもちろん、一妖怪としての誇りも自らの血で汚す羽目となり、憤怒と憎悪が吹きすさんでいるかのような声を残してやむをえず逃げ去っていった。

 

 

貴様の勝利も、我が敗北も、完全なものではないと思え!!

 

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