第十一章・刻まれた言葉

 

 

 血と死肉の匂いが立ち込める。戦いが終わった直後の戦場跡、独特の匂いだ。その匂いにつられた知能の低い下等幻魔獣や人間界で言うところのカラスに似た魔鳥が、どこからとも無く群がってくる。しかしそれらを蹴散らして、戦場の中心に進む人影が数人分。目的地で立ち止まった彼らは、与えられた『指示』通り作業に取り掛かるため準備を始めた。

 野晒しにされた四強吹雪の亡骸の上に、不似合いなほど穏やかな朝が訪れる。

 

軽く単調な物音が鼓膜を刺激し、まず目覚めたのは凍矢だった。隣の布団で大の字になって熟睡する陣をゆり起こしたところで、ふすまが開けられる。そこにいたのは二人の父でも母でもなく、画魔だった。

 「おはよう、二人とも。ちょうど良かった。そろそろ起こそうかと思っていたところだ。朝飯できてるから、とりあえず顔洗ってこい」

 どうやら先ほど凍矢を起こした音は、画魔が台所で振るっていた包丁によるものだったようだ。

 「はよ〜だべ、画魔のあんちゃん・・・・・・ふああああ・・・・・・とーちゃんとかーちゃんはー? まだ帰ってねぇだか?

 寝ぼけ眼であくび交じりに尋ねた陣を井戸に促しながら、凍矢の方が先に答えた。

 「緊急で新たな任務でも入ったんだろう。画魔がわざわざ残ってくれてるんだから、他に理由があるか?

 なぁそうだろう? と兄代わりの妖怪を見上げると、まぁそんな所だと返された。

 「お前達が眠った後で一度は戻られたんだが、すぐに任務に向かってしまってな。オレも内容を知らないからどうやら極秘扱いらしい。思ったより時間がかかっているようだが、もうすぐ帰ってくると思うぞ」

 子供達を安心させるように笑いかけ、井戸へと向かう小さな後姿二つを見送りながら、画魔は内心漠然とした不安を抱えていた。四強吹雪の帰りが、いつもより遅い。彼らに課せられた極秘指令なら、きっと自分などには想像もつかないくらいに過酷なのだろう。だとしても、本人達自ら「大して時間はかからない」と言っていたにも関わらず、陣と凍矢の起床時間になっても帰還しないというケースは、今まで無かった。

 泊りがけになりそうな場合は、その旨を必ず出発前に伝えてくれていた人達なのだ。

 もしかして何か、不測の事態でも起きたのだろうか。確か閃が今度の任務についてはっきり「厄介だ」と零していた。

 汲んだ井戸水をかけ合って遊ぶ陣と凍矢の、にぎやかな声を聞いていた画魔の脳裏に、その閃がもう一つ残していった言葉が蘇る。

 

 オメにゃ、毎度毎度世話かけっぱなしだっただべな

 

 何故わざわざ、過去形で言い直したのだろう。久々の極秘指令だった今回の任務内容が、何かしら関係しているのだろうか。

 そんな風に巡らせていた思考を阻むように、里の入り口の方から突如喧騒が飛んできた。明らかにただならぬ雰囲気のそれは、徐々に数を増やしていく。陣と凍矢も悪ふざけをやめ、不思議そうに互いの顔を見合わせた。

 唐突に沸いた、嫌な予感。理屈抜きの不吉さを感じた画魔はとっさに、「そこで待ってろ!」と幼子達に言い残し、表通りに飛び出していった。

 すると、里に住む魔忍という魔忍が自分と同じようにわらわらと外に出て、ある一点により集まっているではないか。聴こえるざわめきは不安定に揺れ、震え、おののいている。その中から良く知る名前を聞き取った画魔は、それが引き金となったかのように駆け寄って、隙間無く埋まりつつある人垣を強引に割って入った。

 「どけ! 頼む、通してくれ!!

 生真面目で礼儀を重んじる画魔だが、この時ばかりは目上の忍相手でも遠慮なく押しのけ、喧騒の中心に到達した。

 「―――――!!!

 到達した瞬間、画魔は絶句した。言葉どころか、吐息さえ断絶された衝撃に、今にも崩れ落ちそうなほど全身が震える。

 

 

 「よりにもよってこの時期に、お前ら何をやっとるんだーーーーー!!!

 諜報機関本部の司令室で、壁やら扉やらその他などなどを突き破らんばかりの勢いで、黄泉の怒声が轟いた。同時に窓の外で、ひときわ派手な落雷一つ。あまりにちょうど良すぎるタイミングだったため、呼び出されていた陣、酎、鈴駆、鈴木、そして死々若丸は誰からとも無く、雹針でもないのに黄泉が天変地異を操ったかのようだと、場違いな事を考えてしまった。

 「あ〜・・・・・・うん、お怒りはごもっともなんだけど、ね」

 やっぱバレたか〜と、鈴駆はバツが悪そうにあさっての方向へ視線を逃した。無断で、しかもこの五人が揃って魔界を離れ人間界へ行っていた事実は、思ったより早く黄泉の知る所となっていた。諜報機関は優秀だし、何より77戦士の携帯電話はGPS機能つきだ。魔界だろうが人間界だろうが、次元関係無くちょっと調べればすぐに所在がわかる。

その発案、および製作者が鈴木だというのが皮肉である。途中で引き止められたくなかったため、五人は全員携帯の電源を切っていたのだが、詳細な位置がわからなくても、魔界のどこにもいない事はすぐに知られてしまっていた。次元のひずみを超えて電源を入れ直したとたん、5通りの着信メロディがけたたましく鳴り響いたのであった。

 諜報員だけではなく、親しい戦士達からも立て続けにかかってきて、ついさっきまで混戦状態だったくらいだ。

 今の魔界は非常事態だ。陣が覚えている最後の魔忍の隠れ里跡地から、予定帰還時刻を経過してなおかつ連絡がつかないとなったら、諜報機関はもちろん、他の77戦士達からも連絡が殺到したり、即座にGPS検索されたりするのは当然であった。

 「まったく、何事も無かったから良かったものの・・・・・・。いいか。凍矢とチームを組んでいるお前達は、魔忍側にとっておそらく最重要ターゲットなんだぞ! ただでさえ躯が動けないという時に、本拠地を離れるなど言語道断!!

 言動はもちろん妖気も荒々しくなっている。彼らが無事戻った事への安堵の裏返し、とも取れるかもしれないが。

「確かに失態といえば失態だが、発想は悪くなかったと思うぞ。魔性使いチームにゆかりのある首縊島に、連中が里を移転していなかったあたり、とりあえず現時点で人間界は干渉されていないと見える。他に、霊界に嗅ぎつけられずに里を拓けそうな土地があるとは思えん。その確認ができただけ、オレ達の行動は有益だったはずだ」

 むしろ褒めんか、とでも言いたそうな態度の死々若丸の言葉に、黄泉の額でぴしりと青筋が浮いた。

 「貴様、まるで反省する気がないようだな」

 「すまん、黄泉。今の発言はさすがに結構アレだったから、後でオレがよく言って聞かせる」

 「保護者ヅラするな!!

 「ちょ、ぎゃ! 痛い痛い痛い!!

 瞬時に小鬼状態になった死々若丸が、鈴木の顔面めがけて針攻撃をしかける。

 結局、どんな状況下に置かれようと彼らは彼らのままでしか、いられないらしい。それを貫いていれば、その輪の中へ凍矢が帰ってくると言わんばかりに。だんだんと怒っているのが馬鹿らしくなってきた黄泉は、深いため息一つで区切りをつけた。

 「まぁその躯に関してだが、今日明日中には意識が戻るだろうとの事だ。時雨の腕も順調に回復しているそうだぞ」

 「おお、よーやっと戦線復帰かい」

 酎が安心したように顔をほころばせる。

 「四強吹雪の命日が明日だから、ギリギリセーフって所か? 爆拳が見つからねぇんじゃ、結局里の現在地はわかんねぇままだけど、大将復活するのとしないのとじゃ、士気の上下に関わるもんな」

 「後手に回りっぱなのはシャクだけど、返り討ちの倍返しするしかないよね。もともと雹針自体がオイラ達はもちろん、陣にとっても謎だらけなんだし、向こうの出方が見えない以上はむしろ先手討ちは危険なのかも」

 ここまで来たら、気力体力の温存が優先と腹を決めた方がいいだろう。鈴駆はそう考えていた。不利な状況ながら、77戦士も諜報機関もやれるだけの事はやりつくしている。雹針にしてみれば己の手の上で躍らせていたつもりだろうが、その思惑に徹底的に抗ってきた自負はある。誰も、一度も屈してなんかいない。それだってきっと強みになるはずだ。

 「なぁ、もうそろそろオラ達の班が病院警護につく時間じぇねぇべか?

 ふと思い出したように陣が口を開いた。言われた一同は、今日のシフトを思い返してみる。確かにもうすぐ煙鬼の班と交代のはずだ。

 「正確にはちっとばかし早ぇけんど、向かっとこうと思うんだべ。もし雹針が、日付変わったと同時に何か仕掛けるつもりなら、病院が狙われる危険性は高ぇはずだべさ」

 「それもそうだな。早めに体勢を整えておいた方がいい」

 鈴木が頷いて、この場はとりあえずお開きという雰囲気が漂う。その瞬間を待っていたかのように、司令室のドアが開いて修羅が顔を覗かせた。

 「ねぇパパー、もうお説教終わった? 鈴駆だけでいいからそろそろ貸してよ」

 「お説教って・・・・・・いや、あながち間違ってはいないんだが、どうにも軽いな」

 「てめ、オレらはどうでもいいってか!

 黄泉が脱力して、酎が苦虫を噛み潰したような顔をする。その隣で鈴駆も、「オイラはレンタルビデオかい」と苦笑した。

 「ってか早いね、修羅。まだ交代まで少し時間あったと思うんだけど」

 「煙鬼のおじさん達はまだ持ち場だよ。ボクのご飯休憩を調整してもらっただけ。最近、全然鈴駆と仕事すら一緒になってなかったんだもん、どっか食べに行こうよー」

 「そーいやオイラ達も昼飯まだだったんだよね〜。言われてみたら、急にお腹すいてきたな。時間になったら病院直行するから、それでいい? 皆」

 「構わんぞ、オレ達もまずは腹ごしらえといこうか。何かリクエストは?

 何とはなしに鈴木が尋ねる。

 その瞬間、陣の胸の奥、鈍い痛みを伴って蘇る記憶があった。

 

 ―――――今夜は久方ぶりに、六人で鍋でも囲むか

 

 六人で

 

 「・・・・・・鍋系以外なら、何でもいいだよ」

 

 

 それからしばらくして、黄泉の元に妖駄から緊急連絡が入った。魔忍の里捜索に当たっていた諜報員の一人と連絡がつかなくなり、新たに人手を派遣して探させた所、癌陀羅から南へ50キロほど離れた密林の中で息絶えていたのだそうだ。その死因がどうにもおかしいと、通話の向こうで妖駄が明らかに困惑している。

 「もしかしなくても、魔忍の手にかかったのか?」 

 『いえそれが・・・・・・あたりに死亡した諜報員以外の妖気が、感知できないのです。まぁこれに関しましては、妖気の残滓を故意に消していった可能性もありますな。それと外傷が全く見られません。ただ・・・・・・』

 「ただ、どうした?」 

 妖駄がここまで言い淀むのは珍しい。怪訝そうに眉を寄せた黄泉を直接伺うような声音で、妖駄は慎重に続けた。

 『死因が、どうも『老衰』のようなのです』 

 「何だと? 名簿のデータと照会しても、そんな年ではないだろう。むしろ若手のはずだ」

 頭針伝でパソコン上の画面を即座に確認しつつ、黄泉は思わず声のトーンを跳ね上げた。

 『えぇですが、癌陀羅の技術による検死結果に、ミスがあるとは思えません。しかもその老衰の仕方がまた妙なのです。実は・・・・・・老化したのは身体の内側のみ、でして』

 「・・・・・・身体の、内側。つまり外見は実年齢相応なのに、体内年齢が反して急速に老化していたと? 何だそれはどんな呪いだ。それとも奇病か?

 『少なくとも、病巣の類は見受けられません。雹針が妖術の研究家という側面を持っている事を受けて、私めも過去の秘伝や現代の最先端妖術を調べておりますが、これまでの所このような現象が起こる術は確認できませんでした』

 「しかし今の状況が状況だ。魔忍、というか雹針が無関係とは思えん。諜報機関若手のホープだったやつなのだろう? とても偶然の産物とは考えられないな」

 『えぇ、黄泉様のおっしゃる通りでしょうな。私も楽観視はするつもりありません。まずは、検死結果を改めて調べ直してみます。それとこの事は、77戦士全員の携帯電話にたった今データ送信致しました』

 「ご苦労。警戒させるに越した事はない」

 そこで黄泉は通話を切り、パソコンの画面を切り替えて77戦士のシフトデータを表示させた。その表情が、僅かに曇る。

 諜報員が死亡した地点に黒鵺を向かわせ、結界で過去を読ませようと思ったのだが、現在彼の班は癌陀羅から二十層分も離れた場所で魔忍の里捜索中だ。いかに黒鵺の飛翔力であっても、到着は明日の午後になるだろう。それでもとにかく、急いでもらうしかない。

 これは、新たなる凶兆なのか。おそらく当ってしまうだろう自分の予感に、黄泉は短い嘆息を零した。

 

 

 その夜、深夜。

 

 一足先に躯が入院中の病院に到着した陣は、分厚いガラスの向こうで眠る躯が、ここに搬送された当初よりずっと穏やかな顔色に戻っているのを確認すると、廊下のベンチに腰を下ろし受付で借りてきたメモとペンを取り出した。

 辺りに誰もいない事と、監視カメラに紙面が映らない角度な事を確認して、ペンを走らせる。

 画魔の墓標の裏側に刻まれていた、暗号による文面。記憶に一瞬で焼き付けておいたそれを、改めて紙に書き出し内容を読み解いていた。魔忍の暗号は、一文字で定例文を示していたり、文字の組み合わせによって全く別の長文を形成したりするので、実際に書かれた文字の言葉と解答文とでは、文字数にかなりの開きが出てしまう。

なので、その場でじっくり解読する余裕が無い場合は、とりあえず字面だけを丸暗記しておいて、後から確認するのだ。

 一字一句漏らさず、完璧に覚えていたそれらを書き出した陣の苦渋に満ちた表情は、うつむいた時に零れた赤毛で隠れていた。ぎり、と歯の根の奥が軋む。

 酎に、嘘をついた。あの文面内容は、画魔の戦歴などではない。まして、凍矢が書いたものでもない。

 魔忍の里が移転された気配こそ無かったが、少なくとも雹針はあの場所に来ていたに違いない。陣の行動、思惑をあの男は全てお見通しだった。近い内にもう一人の抜け忍が、首縊島に来ることを予期していたのである。彼が、旧友の墓の無事を確かめに来ると確信していた。だから、雹針はそこに魔忍だけがわかる暗号を残したのだ。

 陣に、向けて。

 

雹針・・・・・・よくも、よりにもよって画魔の墓に、こんなもん・・・・・・!!

 

荒ぶる感情に任せて、腹の底から叫び出したかった。正直、平静を装うなんてもう限界だ。兄貴分の墓を、凍矢と一緒にこしらえたあの墓を、宿敵に踏み荒らされ蹂躙された。

 基本、魔忍に墓はつくられない。死んで遺体が残っている場合は、火葬して骨を細かく砕き、海や空へ撒くことになっている。よって、両親達の墓も当然無い。だからこそ、画魔を葬った墓は唯一無二の聖域だったのに。

 もともと許す気なんて毛頭無かったが、それすら凌駕するほどの憎悪が心から噴き出してくる。

 解読し終わった暗号のメモを握り潰し、爪を手の平にあえて食い込ませ、その痛みにすがるようにして陣はどうにかこうにか暴れまわる衝動を宥めた。

 声を立てるのはもちろん、呼吸を乱すのも駄目だ。本来なら、早鐘を打つ鼓動もすぐに沈めなくてはならない。ここは癌陀羅。黄泉の耳に届く可能性がある。雹針の暗号に従うのは甚だ不本意だが、それより今は誰にも怪しまれない事の方が重要だ。

 「陣、交代だ」

 不意に声をかけられて弾かれたように振り向くと、鈴木が歩み寄ってきている所だった。とっさにメモをポケットの中に押しこむようにして隠す。

 「もうそんな時間だべか。んじゃあそろそろ、雪菜ちゃんも治癒に来る頃だべな」

 「あぁ、彼女のお陰で躯の回復も順調だそうだぞ」

 言いながら、鈴木は視線をガラスの向こうの躯に移した。

 病院で77戦士が警邏に当たる際、交代制で必ず誰か一人は躯の傍に控える事になっている。躯本人のガードはもちろん、現在治癒の要として期待されている雪菜のためでもあった。魔忍側の情報収集力からして、既に雪菜の協力は嗅ぎつけられているだろう。もっとも彼女の場合は、桑原が常時付き添っているのだが。

 「今日はもうすぐ、別の班が二つ程応援に来てくれる事になった。躯が目覚めるまで、意地でもここを守り抜かなくてはならないからな。大統領が戦線復帰すれば、勝負は振り出し、もとい仕切り直しとなる」

 だから正直、今このタイミングで魔忍側が何も仕掛けてこないのが気になるんだけどな、と鈴木は付け加えた。

 「四強吹雪の命日にこだわってるにしろ、連中にしてみればチャンスのはずなんだが。まぁ、それだけ77戦士側の警邏や捜索が功を奏している、とも言えるんだろうが」

 「ん、そうだな」

 短く答えながら陣は、小さなデジャ・ブを感じ取っていた。少し前にもこうして、鈴木と二人だけで話していた。場所は確か、黄泉の宮殿。またしても、記憶の中で閃く言葉がある。

 

 『わかってるんだったら、せめてお前からはそーいう状況を作り出さないでくれよ』

 

 雹針と対峙する際、手出しは無用と宣言した時に、鈴木が言ってくれた。陣の密かな決意を覚悟を、鈴木は頼まれた通り誰にも明かす事無く受け入れてくれたのだった。

 だけど、これから自分がしようとしている事は、大切な約束を交わした彼を、裏切ってしまう事になるのだろうか。

 いや、鈴木だけじゃない。酎、鈴駆、死々若丸。いつの間にか、戦友を超えて家族のような繋がりを持つようになった彼らに対しても。

 だけど、他に方法が無い。―――――逃げられない。

 「んじゃ鈴木、ここは任せたべ」

 この一言を言うだけでも、陣は全神経をはりつめた。さりげなく、普段通りのトーンに聞こえるように。首縊島で、酎の目をごまかした時のように。

 「あぁ、また後でな」

 悟られなかった事への安堵よりも、罪悪感の方が遥かに大きい。その痛みを紛らわすかのように早足になった陣は、廊下の曲がり角を曲がって少し遠ざかり、監視カメラの死角に入ってから、携帯電話を取り出す。

 いかに黄泉の聴覚でも、ここまで細かく判別はできないだろう。それとも、諜報機関に察知されるのが早いだろうか。

 そんな推測すら、もう意味など無いと自嘲して、陣は携帯電話を握る手に力をこめた。

 

 

 癌陀羅上空の風向きが変わった。黄泉の超人的聴覚は天候の異変をも捕らえていたが、ただでさえ激務に追われている上に、諜報員の不審死に気をとられていた黄泉に、それを自覚はしてもわざわざ聞きとがめる余裕はなかった。だが時を同じくして、諜報機関が陣の携帯電話から発せられる電波を、まったくキャッチできないことに気付く。

 由々しき事態だ。本来戦士達には、常に電源がオンになっている状態で電話を決して手放さない事が義務付けられている。陣はその大原則を知った上で、携帯電話を不通状態にさせてしまった。彼自身が故意にそうしたとしか思えないのだ。そもそも77戦士が持ち歩いている携帯電話は、彼らのために作られた特注品だ。ちょっとやそっとの事故ではめったに壊れない。だから、持ち主によって「そういう」状態になったとしか考えられないのである。

 そしてこのときもう既に、陣は誰にも追いつけない距離まで移動してしまっていた。とっさに黄泉が飛影に命じ、邪眼で追跡させたが時すでに遅し。陣は病院を出てすぐに、誰にも自分の足取りが掴めないよう細工をしていた。もしやと思った飛影が六人衆邸を確認した所、鈴木のラボに保管されていた間者の守護法衣(ONLY WISH』参照)が持ち出されていた事が判明したのだ。

 装着した者の妖気を完全に遮断するあの闇アイテムは、黒鵺が移動式の妖力遮断結界を張り続けるのと同じ効果がある。

 「置いてったら許さないって、オイラゆったのにいいいいいい!!!

 この場に流石がいないためもあるのだろうが、鈴駆の涙腺が派手に決壊した。なりふり構わず泣き喚く彼を、誰も責められない。鈴駆の反応は当然だ。戦士としての実力は一流でも、実際はまだまだ子供。

 「っつーか、オレも泣きてぇくらいだぜ。ヤケ酒飲む気にもなれねぇや」

 酎がかがみ込んで、鈴駆の頭をぽんぽんと軽く叩くようにして撫でる。がっくりうなだれそうなのを、寸での所でこらえながら目線を手元に落とす。無残に握り潰され、配線や部品が露出した陣の携帯電話。手の平サイズのそれが、なぜだかいやに重く感じる。

 二人はもちろん鈴木と死々若丸、そして桑原も、深刻かつ不安げな面持ちで鈴駆を見守る。彼らは病院周囲の警邏を応援に来てくれた班に任せ、躯の集中治療室前にいた。分厚いガラスの向こうで、治癒真っ最中の雪菜が、躯に能力を集中させつつも気遣わしげにこちらを伺っている。

 鈴木達の元に陣が消息を絶ったという連絡が届いたのは、雪菜が今日の分の治癒能力放射を行うため治療室前に到着した直後だった。

 「桑原と雪菜ちゃんは、ここに来る時陣とすれ違ったりはしなかったか?

 鈴木からの質問に、桑原が首を横に振った。

 「いや、会ってねぇよ。多分あいつ、窓から飛んだんだと思うぜ」

 「だろうな。そこまで急いで、しかも間者の守護法衣まで持ち出す徹底振りからして、やはり雹針、いや凍矢絡みか」

 ため息をついた鈴木に、死々若丸が怒りとも悲しみともつかぬ複雑な形相で、きっ、と目を剥く。

 「他に何があるというのだ! 馬鹿正直が服着て歩いてるようなあの陣が、オレ達にさえまったく今回の行動を気取らせなかったんだぞ。凍矢以外の理由や原因で、あいつにそこまでの演技などできるわけがない!

 きつい声音は、不安と心細さを見せないための目くらまし。死々若丸の容赦ない毒舌や、つっけんどんな態度の裏側に本当は何があるのか、仲間達は既に見抜けるようになっていた。

 だからこそ、陣が彼らに何一つ悟らせなかったのは、いっそ異常といっても過言ではない。そうまで完璧に本音を押し殺させる程の決意が、どれほど凄絶で悲壮なのか、考えるだけでも怖いくらいだ。そしてそれ以上に、気付いてやれなかったことが悔やまれる。

 号泣する鈴駆も、怒声を放った死々若丸も、隠しようもなく落ち込んだ酎も、それでもどうにか仲間達をまとめようと懸命な鈴木も、陣を糾弾したりましてや悪いように思うなどありえない。皆、自分自身の落ち度が許せなかった。

 魔忍の里の特定さえままならない今、陣がどこへ何をしに行ったのかはわからない。だけど、たった一つ彼らが共通して持たざるを得ない確信めいた危惧があった。

 雹針にとって、ある意味躯以上の報復対象である陣が、単独行動を選んだ。

 

 彼が何をどう覚悟して、それに臨んでいるのか、考えるのも怖い。

 

 と、そこへ。ふとおりた沈黙を破るように、桑原の携帯電話が無機質に震えて、着信を知らせた。魔界は病院にもよるが、人間界と違って携帯電話の使用は禁止されていない。特に癌陀羅のような最新鋭の技術力がある場合は、携帯の電波の影響を全く受けない機材を導入している。

 それでもやはり場所が場所だし、状況が状況なので気が引けるのか、桑原は着メロを一時封印。バイブ機能だけにしていた。かけてきたのは、幽助だった。

 『やっぱこの時間だと、桑原が来てると思ったぜ。悪ぃんだけどよ、そこに誰か77戦士がいるんだったらマイク機能オンにして、オレが言う内容聞こえるようにしてやってくんねーか?

 切羽詰った語調。ただ事ではなさそうだ。桑原が言われた通りにマイクをオンしたのを確認して、幽助は感情を露にした熱風のような声を電波越しに飛ばしてきた。

 『クソ親父の墓が荒らされた! 中の遺骨が盗まれちまってるんだよ!!

 「な・・・・・・!! ら、雷禅の?!

 あまりの事に涙も止まった鈴駆が、声をひっくり返らせた。

 『こんな趣味悪ぃマネ、魔忍の連中しか犯人は考えらんねーよな。ただ、どーいう意図で親父の遺骨なんか持ち出したのかは、意味わかんねぇぜ全く!! 少なくとも単なる嫌がらせとかじゃなさそ・・・・・おい? どうしたよ?

 受話器の向こうからの反応が返ってこないことに、幽助が声のトーンを変えた。逆に落ち着いてきたようだ。しかし同時に彼は悟る。電波越しに伝わってくる沈黙が、困惑を孕んでいると。

 「・・・・・何なんだよ、このタイミングは」酎が唸るように呟いた。「バカでも偶然じゃねぇってわかるぜ」

 「でも、まさか、よりにもよって陣が? それこそバカ言うなよ!

 必死で笑い飛ばすような言い方を演ずる桑原も、本当は酎と同じ予感が頭の中を占めていた。

 「幽助の言った通り、意図も意味もわかんないけど、さ」

 まだ若干しゃくりあげながら、それでも鈴駆は懸命に子供から戦士の顔に戻る。

 「凍矢絡みで、雹針が何か仕掛けているんだとしたら、ありえるよ。今の陣は、凍矢のためならどんな事だってする!

 『おい、さっきから何言ってんだオメーら? 陣がどうしたって?! 何であいつがこっちの件に関わってんだ?!

 77戦士ではない幽助には、どうやら陣消息不明の連絡が少々遅れているらしい。すぐに北神あたりから知らされるだろうが、鈴木が中心となって現状を彼にも説明し始めた。

 その光景を見聞きしながら、雪菜はなおいっそう躯に放射する治癒能力を強める。怖い。どんどん悪い方へ悪い方へと、目に見えぬ力に追いやられているようだ。泣き言を吐き出してしまいそうな唇をキュッと噛んで、雪菜は自分に課せられた役目に集中する。一刻も早く、躯に目覚めて欲しかった。少しでも状況が変わることを祈って。

 

 

 夜が明けて、人間界。魔界をごった返すような危機によって、人間界へ緊急避難する妖怪達が急増しているが、ほとんどの人間達はその事に気付いていない。いつも通りの、穏やかな日曜日の朝。しかしどこにでも、『例外』は存在する。

 特に、ある街の住民達の中には、ひょんな事から常人ではありえない能力に目覚め、それをきっかけに妖怪や魔界の存在に敏感になった者達が少なくなかった。例えば―――――

 

 

 それにしても、不公平だな。御手洗清は、改めて小さくため息をついた。彼の目の前を歩く少年は、4つも年下のはずなのにいつの間にか御手洗の背丈を越えてしまっていた。目を合わせるには、こっちが見上げなければならないほどに。成長期真っ只中なのだから、当然といえば当然である。しかし、大学受験を控えた高校三年生の御手洗の身長はそろそろ頭打ちだろう。

 対して少年はまだ中学二年生。育ち盛りである。まだまだ伸びる余地があるかもしれない。

 「しっかし、ここ変わんないよね〜。行政も企業も開発しようって気ないのかな。まあ、こっちはその方が好都合だけど」

 と、少年――天沼月人――が振り返った。声変わり間もない彼は、そばかすや表情に初めて会った小学生の頃の面影を残して、まだまだあどけない。身長だけが待ちきれずに急成長してしまったようだ。中学入学前後から、夜眠るときに関節がきしむような音がして痛んで困ると、再会直後にぼやいていた。

 「天沼、ここまで来といて今更確認するのもなんだけど、キミ本気なの? 入魔洞窟の例のあの場所でゲームやろうだなんて。てっきり、一生分のトラウマになってたと思ったんだけどな」

 「もちろん本気! ゲームの世界観や設定にさえ気をつけてれば、世界一リアルなゲームシステムなんだよ。まぁさすがに4年前の一件直後しばらくは、オレも自分の能力封印してたけどさ。でもせっかく芽生えた特殊能力なら、やっぱ使いこなさないと損だと思うわけ。だから1人プレイ用のソフト限定で、たまーに洞窟使ってたんだけど、それもちょっと飽きてさ。久々に対戦ものやりたくなっちゃって。そしたらもう、御手洗さんしか相手してくれそうな人いないし」

 「・・・・・・・・・まぁ確かにそうだろうね。受験生だってのに、4年ぶりの呼び出しでしかも、大掛かりなゲームやるためだけにのこのこ出てくるような奴なんて、ボクくらいだよね」

 お人よしというより、これは押しに弱いというんだろうな。御手洗は自分で自分に苦笑した。

魔界と人間界を繋ぐ界境トンネルが開いた影響で、能力者となった彼らはいわばこの力の秘密の共有者でもある。当時、天沼とは決して仲が良かったわけではないが、こうして彼の呼び出しに応じたのは、天沼が御手洗と顔見知りの『共有者』だからだ。普段は隠すべき側面を、家族や学校の友人には言えない思い出を、遠慮なく晒せるからだ。

地元・蟲寄市には彼らの他にも能力に目覚めた者達がもちろん他にも複数いるのだが、ほとんどが自らに宿った能力を隠して生きている。

 街から一歩外に出れば、広い人間界の中の異質な存在だ。人ならざる力がある事を知られて、メリットがあるとは思えない。歴史の授業中、ヨーロッパの魔女狩りについて教師が触れた時、とても他人事には思えなかった。実際御手洗は、シーマンとしての能力をこの4年間一度も使った事は無い。

 「でも、合格圏内なんでしょ? なら一日くらい羽伸ばしても問題無いって! そんくらい余裕持たなきゃ、合格できるもんもできないよ」

 「キミね、受験生ですらないのに、そーいう事語る普通?!

 「経験してなきゃ語っちゃいけないなんて法律ないじゃん。想像や推測による意見だからって、粗末にすべきじゃないと思うんだけど」

 「・・・・・・それ自体は否定しないけどさ、時と場合と物事によるだろ・・・・・・」

 相変わらず生意気で、ああ言えばこう言う性格に変わりは無いが、天沼の表情や語調は当時より弱冠明るくやわらかくなっているように感じられた。あの頃は、無理矢理背伸びして、しかもそれを本人が自覚していなかったからかもしれない。それに界境トンネルを開くという、前代未聞の計画や、仙水忍という彼らの上に君臨していた、いわばカリスマだった存在から解放され、なおかつ年月を経た事も手伝って、天沼と御手洗を繋ぐ関係にも変化が現われたようだ。

 しかも、神谷は逃亡中で刃霧は失踪中。仙水に与していた能力者達の内、元の日常に完全に戻ったのは天沼と御手洗の二人だけである。

 そういえば。

 ふと、御手洗はもう一人の仲間を思い出した。グルメの能力を持っていた巻原。

 思えば、彼は仲間内でもっとも不幸だった。仙水に命じられるがまま戸愚呂を能力ごと『食った』はいいが、まもなくその戸愚呂に意識を全て乗っ取られ、死ぬ事すらできなくなった戸愚呂と共に、その身体は入魔洞窟のどこかを今もさまよっているのだろうか。

 「あ〜、嫌な事思い出しちゃった・・・・・・」

 幸い、と言っていいのだろうか。あの後、霊界によって巻原の霊魂は身体から解放され、成仏したのだそうだ。だけど、戸愚呂はあの当時のままに違いない。

 「何? 巻原さんと戸愚呂って妖怪の事? よっぽど運が悪くない限りは、鉢合わせないんじゃない? 実際オレだって、見つけた事無いよ。あの洞窟、巨大地下迷宮みたいなもんだから」

 「今日がその、よっぽど運が悪い日じゃなけりゃいいんだけどね」

 だが今更引き返す気にもなれず、天沼と御手洗はそのまま洞窟に向かって進んでいく。前日降った雨の影響はまだ色濃く残り、そこかしこがぬかるんでいて足を取られそうになるが、二人のペースは落ちない。そこに通っていた頃を身体も思い出し始めたのだろうか。

 「よーっし、到着!! まだまだこっからが長いんだけど、入り口見るとホッとするよね」

 じゃ、さくさく行こうか。天沼が笑いながら振り返って促す。その時、だった。

 「失せろ、人間」

 めんどくさそうな響きの声がどこからか飛んできた。次の瞬間、天沼と御手洗の前に、洞窟入り口に立ち塞がるようにして何者かが降り立つ。木の上か崖の上か、とにかく高度のある地点から飛び降りてきたらしかったが、それがどこなのか二人にはわからない。

 「ったく、地元民さえ来ねぇっつーから、楽な仕事だったのによ。さっさと帰って、ここの事は忘れろ。無駄手間とらせなければ、見逃してやってもいいんだぜ」

 不平たらたらなその男は、見るからに風変わりな格好をしていた。膝あてや肩あてをつけたシンプルな出で立ちだが、間違っても蟲寄市はじめ普通街中では見かけない。そしてそれを抜きにしても、天沼と御手洗の脳内に同時に閃く予感があった。

 こいつに、関わってはいけない。すぐ立ち去った方がいい。

 能力者となってから、それ以前と比べて第六感が冴えるようになっていた。

 「えーっと、どこのどなたかは存じませんが・・・・・・」

 天沼はとりあえず、相手を刺激しないように努めることにした。

 「お邪魔なようでしたら、すぐ帰りますんで! ね、御手洗さん」

 「そ、そうそう! 失礼しました!

 目配せしあいながらきびすを返そうとして、だがそんな二人の背後。今度は、帰路を絶つようにして新手が出現した。

 「おい、職務怠慢はまずいぞ。特に、こいつらの場合は」

 地面に釘打たれたかのように、御手洗と天沼は動けなくなった。ここにいてはいけない。わかってる。だけど、拘束されているわけでもないのに身動きが取れない。挟み撃ちにされているから、だけではなかった。研ぎ澄まされた彼らの第六感が警鐘を鳴らしている。前後に立ちはだかる不審な男達は・・・・・・人、ならざる存在だと。

 ここ二、三年で急に蟲寄市内だけでも、人間型の妖怪が紛れ込み始めてきたのだが、最近さらにその数が増加していた。常人ではありえない能力を持ち、彼らを見慣れていた二人には、嫌でもわかってしまうのだ。

 さらに付け加えるなら、かつて樹と行動を共にしていた経験もまた、それを裏付けていた。

 「そっちのお前、御手洗、とかいったな。その名前でわざわざこんな所にやってくる人間って事は、もしかしなくても御手洗清だろ?

 「?! な、な、何でボクの名前・・・・・・!

 「とするともう一人は、年の頃からして天沼月人。当り、だな」

 「じゃあこいつらが、仙水っていう身の程知らずな人間に従ってた能力者か! なら可哀想だけど、生きては帰せねぇなぁ」

 「あんたら、仙水さんの事まで知ってるのか?! まさか、洞窟で何か企んで?

 「ってか、オレ達を生きて帰せないって、どういう意味だよ?!

 天沼が動揺を隠せないまま叫んだ。

 「どういうもこういうもねぇよ。言葉通りの意味さ。まずは、オレ達の総大将の所にひったてなきゃならねぇけど」

 「いや〜、退屈な仕事思ったが、まさかの棚ボタだぜ! 手柄だ、手柄。ドーピング強化してもらえっかなぁ」

 最初に声をかけてきた方が、露骨なほどの喜色満面を見せた。

 「またしても雹針様の読み、というかご期待通りになったってか。あの方、予知能力も身につけてんのかもなぁ。さ〜て、今度はこいつらを生贄に、どんな凄技の妖術を見せてくださるのか・・・・・・」

 「おい、お前ちょっと喋りすぎだぞ。まぁどうせ、冥土の土産にしかならんだろうが」

 「さっきから、さらっととんでもない事言い過ぎだろ!!

 得体の知れない存在に対する恐怖より、怒りの方が心の天秤を大きく傾かせたらしい天沼が、そばかすの浮いた頬を紅潮させて激昂した。

 「洞窟で何やろうとしてんのか知らないけどさ、勝手にオレ達巻き込まないでくれる?! ってか、妖術って事はやっぱあんたら妖怪かよ! ここ数年、やたら妖怪の行き来が増えてる割りに、そーいうトラブルが起きた噂すら聞かないから、魔界住民って意外と友好的なのかなー? とか思ってたら、しょせんそんなもん? 人食いしか脳がないわけ?! 何だよとんだ期待外れだな! せっかく近い将来には、異文化交流ならぬ異世界交流が流行るんじゃないかと思ってたのに、こりゃーここで殺されなくても長生きなんてするもんじゃないかもね〜」

 「うるせーぞ、生意気なガキだな! 人食いなんて、そんな原始的なタイプと我らが里長を一緒くたにすんじゃねぇっての!

 「バカか、お前。いちいち反応すんな。とっととふん縛るぞ」

 後から姿を現した方の妖怪が、呆れたようにため息をつきながら相方を促した。その時。

 どぷん、と腹の底に沈み込むような音が聞こえた。ハッとして顔を上げた先。『わざと』一歩前に出てやたらとまくし立てていた、天沼の背後。そこへこれまた『わざと』下がっていた御手洗の足元。そこから、日光を乱反射させながらゆらり、と現われた。

 御手洗の血によって生み出された、二メートル強の身長のシーマンが。

 「逃げるよ、天沼!

 叫びながら、御手洗は別の水溜りの上で手を振り下ろす。自らが噛み切った、指先から放たれた鮮血の雫が数滴、水溜りに落ちて複数の波紋を広げる。すると水面の中心が激しく波打ち急速に隆起して、見る見るうちにシーマンが形作られた。

 地面を蹴ってダッシュしながら、天沼が叫ぶ。

 「雨降ってラッキーだったね! それにしてもあいつら、何?!

 TVで見かけるカルトや、街ですれ違う妖怪達とは明らかに違う。彼らは皆正体を隠し人間に混じって生きている。カルトの「私達妖怪なんです」発言は、ほとんどネタ扱いだ。しかし先程の二人は正体を隠そうとしていないばかりか、悪意がダダ漏れである。

 「推測は後! とにかくこのまま逃げき」

 御手洗の返事は、唐突に響いてきた音によって阻まれた。

 

ピキン。ガン! バリ、ガラガラガラ・・・・・・

 

 順序良く並んだかのような音の列に、振り向かされた先。天沼と御手洗は目を疑った。

 先程の妖怪達の足元。半透明の塊がいくつも転がっている。それが氷結した上で破壊されたシーマンの残骸だと、理解するまで少々時間がかかった。

 「そんなバカな・・・・・・! ボクが死ぬか気絶するかしない限り、シーマンのテリトリーは崩れたりしない、のに!

 「人間如きが自惚れるなよ。こんな泥水が魔界の呪氷を阻めるわけないだろうが」

 「里長、というか『元部隊長』・・・・・・ん? どっちがどっちだ? まぁ両方でいいか。あの方々の手にかかればこの程度、まともに出現する余裕すらないぜ」

 そうこうしている内に、どんどん距離をつめられる。今度はもう、悪あがきもできない。

 「あ、天沼! どんなゲーム持ってきたか知らないけど、あれのテリトリーにこいつらを巻き込めば・・・・・・」

 「無理だよ、オレのテリトリーは屋外じゃうまく張れないんだ! だからわざわざ洞窟まで来てるんだよ!

 「そんな・・・・・・それじゃあもう、打つ手が無い・・・・・・?

 絶望に満ちた御手洗の呟きは弱々しく掠れていたが、言った本人と天沼の脳内にはうるさくしかもしつこくリフレインする。打つ手が無い。逃げ場が無い。このままでは、命も。

 人生最悪な自覚が沸き上がろうとしたが、それよりも一瞬早く飛来する存在があった。

 目を開けることさえできないほどの、弾けるような突風。世界の上下がひっくり返らんばかりの激しいそれは、意外にもすぐに収まる。思わず目をきつく閉じ、それだけでは間に合わず両腕で顔を覆った天沼と御手洗が、乱れた髪をそのままに恐る恐る目を開く。同時に視界に飛び込んできたのは、鮮やかな赤い髪。次に、鍛えられた背中とそこに担がれている麻袋。

 「・・・・・・来てやっただぞ、さっさと雹針とこさ案内するべ」

 強引に感情を押し殺したような、硬い声。

 「! 御手洗さん、わかるよね? こいつも妖怪だよ」天沼が不安げに耳打ちした「シーマン壊しやがった連中の、仲間かな?

 「うん、そんな気がする・・・・・・」

 御手洗がぎこちなく頷いた。

 二人の小さなやり取りを尻目に、赤毛の妖怪はさらに硬質さを増した声で続ける。

 「聞いてっか? いや、わかってんのか? 風使い陣が、約束の物さ持って、雹針の呼び出しに応じてやってんだべ。だったらオメらの役目は何だ? オラをほったらかして、人間さとっ捕まえることか?

 「い、い、いやもちろん、優先順位を間違ったりはしないさ!

 「お、おう! あんたが来たんなら、そんな人間なんかはもうどうだっていい。里長だって気にしないはずだ」

 この会話だけで、妖力値の強弱を計れるまではできない天沼と御手洗でも、この陣と名乗る三人目の妖怪が、先の二人より格上の力の持ち主だと容易に悟った。しかも話の内容からして、自分達の状況はどうやら好転したらしい。

 その証拠に、彼らの方を振り返った陣は、その時だけは表情も声もほころんでいた。

 「怖ぇ思いさせて、ごめんな。もう大丈夫だから、早く家さ帰るべ」

 「あ・・・・・・、はぁ、どうも」

 「御手洗さん、さっさと行くよ! お世話んなりましたー!!

 今の内、とばかりに天沼は御手洗の二の腕を掴んで走り出した。転びそうになりながらも何とかその速度に追いつきながら、御手洗は振り返りながら必死に叫ぶ。

 「あの、ありがとう!!

 だが、その時にはもう、彼らを脅かした氷を操る二人組も、赤毛の風使いも姿が見えなくなっていた。ついさっきまでシーマンだった氷塊が、むなしく転がっているだけだった。

  

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